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『高慢公爵令嬢は、男爵令息の正論から逃げられない』 ――男爵令息は今日も公爵令嬢を叱っている  作者: 月白ふゆ


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第2話 監視という名の接近

翌朝、レティシアは目を覚ました瞬間から不機嫌だった。


理由は明確で、しかも腹立たしいほど些細だ。頭の中に、あの男爵令息の声が残っている。淡々として、余計な感情を混ぜず、しかし一切引かない声。


――迷惑です。


たった一語。身分でも美貌でも弾けない種類の言葉。昨日から、何度も反芻してしまっている自分が一番気に入らない。


支度を整え、鏡の前で髪の一本まで完璧に整える。公爵令嬢とはそういう存在で、崩れは許されない。だからこそ、心の乱れが目立つ。完璧な外側が、内側の揺れを際立たせる。


馬車に乗り込むと、侍女がいつも通りの穏やかな声で告げた。


「本日は少し肌寒いようです。ショールをお持ちいたしましょうか」


「いいわ。学園で必要なら取る」


言葉だけはいつも通りに返した。けれど、昨日までの「当然」が、どこかで小さく引っかかる。必要なら取る。必要なら。――必要かどうかを自分で決める。それは普通のことのはずなのに、昨日の正論が頭をよぎる。


必要なら、ではない。周囲が迷惑なら、だ。


思考を振り払うように窓の外を見た。王都の石畳が朝日に淡く光り、学園へ向かう馬車が列を作っている。そこにいるのは皆、貴族か、その取り巻きか、あるいは貴族に仕える者たちだ。秩序は明確で、だから安心できる。


――秩序の外に立つ人間がいる。


レティシアは歯を噛んだ。新興男爵家の子息など、秩序の内側にいながら、勝手に別の線を引く。


馬車が学園に着く。正門前の空気は今日も張り詰め、門衛の号令が通る。だが昨日と違うのは、視線の質だった。


レティシアが降りると、いつもなら「畏敬」だけが集まる。今日はそこに、混じりものがあった。好奇の視線。観察の視線。小さなざわめき。


「昨日の……」 「男爵に叱られたって……」 「ありえないだろ……」


耳に入る。耳に入るのに、止められない。噂は止められない。止めようとすれば、自分が小さく見える。


取り巻きたちはすでに戦闘態勢だった。誰かが口を開く前に、レティシアは扇を一度開いて、自分の表情を隠す。隠す必要など本来ない。だが、今日は隠したかった。


「騒がないで」


その一言で周囲は静まる。公爵令嬢の声には、そういう力がある。力があるのに、昨日の男爵は引かなかった。その事実が、また胸をざわつかせる。


――今日は会わない。会う必要がない。


そう決めて、歩き出す。


にもかかわらず、レティシアは門前の様子を無意識に確認していた。荷車はない。奨学生もいない。昨日の事故未遂を避けるために、学園側が早朝のうちに搬入を終わらせたのだろう。対策が取られている。それは良いことだ。


良いことなのに、なぜか釈然としない。


「レティシア様」


取り巻きの一人が小声で言った。


「あの男爵が、今日も来ています」


耳が勝手に反応したのが悔しい。レティシアは扇越しに視線を滑らせる。正門脇の掲示板前。少し背の高い細身の生徒が、掲示物を読んでいる。制服は整っている。髪だけが相変わらず、少しだけモサモサしている。


――いる。


胸の奥が、妙に落ち着かない。


レティシアは視線を切った。切ったはずなのに、足取りがほんの僅かに遅くなる。取り巻きがそれに合わせて距離を調整する。誰にも気づかれない程度の速度変化。公爵令嬢は自分で自分の速度を管理できる。


――だから何?


自分に問い返し、レティシアは歩幅を戻した。



午前の講義は、礼法と政治史だった。政治史は得意だ。家柄という秩序を学問として理解するのは、むしろ心地よい。だが今日のレティシアは、講師の言葉が頭に入るたびに、どこかに引っかかりが生まれる。


「秩序とは、多数の同意によって成立する」


講師がそう言った瞬間、レティシアの頭に昨日の光景が刺さった。多数が同意している秩序の真ん中で、たった一人が別の線を引いた。そして、その線は「迷惑」という単語で、誰にも否定されなかった。


同意の多数が揺れた。


自分はその揺れの中心にいた。


ノートを取る指が止まり、レティシアはゆっくり息を吐いた。感情を整える。整えないと、授業中の些細な表情から噂は増幅する。


昼休みが来ると、取り巻きたちは一斉に話題を持ち出してきた。


「昨日の男爵、やはり許せませんわ」 「教師に訴えれば、規律違反で処分に……」 「公爵家に楯突くなど、常識がありません」


常識。その単語を聞いた瞬間、レティシアは胸の奥で冷たい笑いが走った。常識があるなら、昨日の危険は起きなかったはずだ。


「やめなさい」


自分でも驚くほど低い声が出た。取り巻きが固まる。レティシアは扇を閉じ、淡々と続けた。


「学園内で、誰かを潰すのは下品よ。潰せば勝てると思うのは、三流のやり方だわ」


言い切ってから、自分の言葉の中に、あの男爵の匂いが混じっていることに気づく。勝てるかどうかで言葉は変わらない。――違う。自分は勝つために言っている。だが、勝ち方を変えようとしている。


腹立たしい。


「……では、どうなさいます?」


取り巻きが恐る恐る問う。レティシアは即答した。


「見ていなさい。彼がどんな人間か、私が確かめる」


“監視”という言葉を口に出さなかったのは、自分の品位のためだ。確かめる。確かめるだけ。自分が興味を持っているわけではない。興味ではなく、秩序の維持。公爵令嬢の責務。


そう言い聞かせながら、レティシアは中庭へ向かった。



中庭には、昼の陽が落ちている。木陰のベンチに群れる生徒たち。軽食を広げ、噂話をし、笑い合い、午後の講義までの短い時間を消費する。


レティシアの周りは相変わらず「空間」が空く。誰もが彼女の存在を意識し、距離を取る。取らせるつもりはなくても、距離ができる。それが公爵令嬢だ。


その空間の外側に、探していたものがあった。


アラン=フィールドが、木陰の端に立っている。数人の下級生に囲まれ、何かを説明している。昨日見た光景と同じだ。教える姿勢が変わらない。相手が平民でも、貴族でも、相手を「人」として扱っている。


レティシアは近づく。近づいているのに、自分では「たまたま通りかかった」と言い聞かせる。取り巻きも同じように整然とついてくる。その様子が視界の端で動くと、下級生たちが緊張して背筋を伸ばす。空気が固くなる。


レティシアはそれが気に入らなかった。自分が来ただけで、会話が止まる。そんな圧を持ちたくて持っているわけではないのに、持ってしまっている。しかも、今それが邪魔だ。


アランがレティシアに気づく。ほんの僅かに眉が動いた。怯えではなく、状況確認の動き。次いで、下級生に静かに言う。


「ここまでで大丈夫。あとは自分で解いて、分からなければまた聞いてください」


下級生たちが頭を下げて散っていく。レティシアの圧が、彼らを追い払ったように見えて、レティシアは胸が苛立った。自分は追い払ったつもりはない。けれど結果としてそうなる。


レティシアは扇を開き、距離を詰めずに言った。


「今日も、そうやって下級生の相手をしているのね」


「困っている人がいたら、助けます」


簡潔。正論の形。レティシアは笑わずに返す。


「あなた、暇なの?」


「暇かどうかで、やることは変わりません」


言い方まで昨日に似ていて、レティシアは扇の骨を握りしめた。腹が立つ。なのに、変に落ち着く。自分の感情が自分で制御できないのが、さらに腹立たしい。


「私を避けるつもりなら、無駄よ。私はあなたを確かめるまで、見ている」


自分でも驚いた。口から出た言葉が、完全に“付きまとい”の宣言になっていた。取り巻きがざわめき、周囲の生徒が視線を向ける。


アランは一拍置き、それから淡々と返した。


「見られるのは構いません。ただ、見ているだけで周りの迷惑にならないようにしてください」


また迷惑。レティシアの頬が熱くなる。正論の刃が、相変わらず自分にだけ的確に刺さる。


「……私が迷惑になると?」


「公爵令嬢がこの距離に立つと、周りが萎縮します。今も、下級生が去りました」


レティシアは息を呑んだ。今の現象を、彼は「事実」として言語化した。自分の圧を、本人のせいでも相手のせいでもなく、「現象」として切り出している。


だから反論しにくい。


「では、私はどうすればいいの」


自分でも気づかないうちに、問いの形になった。それを自覚した瞬間、レティシアは扇で口元を隠した。今のは、教えを求める口調だった。公爵令嬢が男爵に。


アランは少しだけ視線を外し、空になったベンチを指差した。


「座ってください。立っていると、余計に目立ちます」


命令ではない。提案だ。なのに、レティシアの足はその通りに動いてしまう。座った瞬間、周囲の視線がほんの少しだけ薄まる。確かに、立っているより“支配”が弱まる。


レティシアはその事実に、また腹が立った。


「あなた、私に指図するのが好きなのね」


「指図ではありません。環境を整えているだけです」


環境。整える。昨日からずっと彼は「整える」という行為をしている。迷惑を止める。危険を避ける。相手を萎縮させない。――自分の周囲の世界を、勝手に整える。


「あなたは、自分が正しいと思っているの?」


「正しいかどうかは、結果で判断されます。怪我が起きなかった。誰も無理をしていない。それなら、今はそれでいい」


レティシアは言葉を失った。正しさを理念で語らない。結果で語る。公爵令嬢が身分で世界を語るのと、まるで土俵が違う。


「……不愉快だわ」


「不愉快でも、必要ならやります」


淡々と言われ、レティシアは扇の奥で唇を噛んだ。勝てない。勝てないというより、勝負の形が作れない。


その時だった。


中庭の端で、小さな悲鳴が上がる。転んだのは、平民の少女。抱えていた本が散らばり、上級生の靴の前に転がった。上級生が嫌そうに足を引く。


「汚いな。拾えよ」


少女が慌てて拾おうとするが、手が震えている。周囲は見て見ぬふり。助けに入れば面倒が増える。貴族社会はそういう空気を生む。


アランが立ち上がった。迷いがない。


レティシアの胸が、昨日の記憶と重なる。あの時と同じだ。彼はこういう場面で必ず動く。


だからこそ、レティシアは先に動いた。


自分でも意味が分からないまま、レティシアは扇を閉じ、歩き出す。人だかりが割れる。少女が青い顔でこちらを見る。上級生が一瞬だけ態度を正す。公爵令嬢が来た。それだけで空気が変わる。


レティシアは散らばった本を一冊拾い、少女の手に乗せた。指先に土がつく。気にならないと言えば嘘になる。けれど、今はそれ以上に気になることがあった。


――アランに、何か言われたくない。


「大丈夫?」


声が、自分でも驚くほど平坦だった。優しさを見せるためではない。状況を収めるため。秩序の維持。


少女が涙目で頷く。


「……ありがとうございます」


上級生が気まずそうに視線を逸らす。レティシアは上級生を見もしなかった。見れば、叱責が必要になる。叱責すれば、今度は自分が「身分で殴る」側になる。


それは、負けだ。


レティシアは少女に本を返し、踵を返す。その瞬間、背中から声が飛んだ。


「今のは、良かったです」


アランだった。


その一言で、レティシアの胸が不規則に跳ねた。褒められた? 公爵令嬢が男爵に? そんなことは本来ありえない。ありえないのに、嬉しいと感じてしまった自分が、許せない。


「当たり前よ。私が――」


言いかけて、止めた。身分を持ち出す言葉が喉に引っかかったからだ。自分でも驚いた。昨日なら躊躇なく言っていた。


レティシアは扇で口元を隠し、冷たく言い直した。


「……当然のことをしただけ」


「当然ができる人は、案外少ない」


アランの声は淡々としていて、だから余計に胸を刺す。優しいわけではない。媚びでもない。事実として言っているだけ。だが、その事実が自分を持ち上げる形になるのが、妙に落ち着かない。


レティシアはベンチに戻り、座り直した。座ったことで周囲の視線がさらに薄まる。自分が環境に溶ける感覚がある。昨日までなら「溶ける」など敗北だったのに、今日は少しだけ、息が楽だった。


アランは隣には座らない。距離を守る位置に立ち、淡々と言う。


「監視なら、方法を考えてください。あなたがここにいるだけで、人が萎縮します」


「……私が悪いと言いたいの?」


「悪いと言っていません。影響があると言っています」


影響。現象。整える。彼の言葉はいつも、責めない。責めないのに、自分が正されていく。


レティシアは扇を閉じ、膝の上に置いた。


「なら、教えて。どうすれば“迷惑”にならないの」


また、問いの形になった。自分で自分が嫌になる。公爵令嬢が男爵に教えを求めている。そんな構図、許されるはずがない。


アランは少しだけ考えてから言った。


「一つは、距離です。近づきすぎない。もう一つは、声量です。周囲が聞こえる声で言い争うと、空気が固まります。最後に、あなたの取り巻きです。彼らが先に威圧すると、あなたの印象も同じになります」


レティシアは言葉を失う。自分の“当たり前”が、彼の目には「威圧」として見えている。しかも、彼はそれを責めない。ただ、現象として提示する。


「……私の取り巻きが悪いと?」


「悪いかどうかではなく、効果です。あなたが意図しなくても、周囲はそう受け取ります」


効果。政治史で聞いた言葉だ。結果で判断する。正しさを結果で語る。彼は本当に、一貫している。


レティシアは深く息を吸った。胸の内側が、悔しさと、理解と、熱で混ざる。昨日までの自分なら、ここで切り捨てて終わらせた。だが今日は、切り捨てると負けだと思ってしまう。――彼の土俵に乗せられている。


「分かったわ」


口に出した瞬間、取り巻きたちが驚いた顔をした。レティシア自身も驚いた。自分が素直に頷いたことに。


アランは頷き返しただけだった。勝ち誇りもしない。だから余計に腹が立つ。



午後の授業移動で、レティシアは“偶然”を増やした。


廊下の分岐で、アランが右へ曲がるなら自分も右へ。図書室がある棟へ向かうなら、自分も「資料を取りに行く」と理由をつけて向かう。


取り巻きは不満そうだったが、レティシアが一言「静かに」と言えば黙る。彼らは従う。従わせる。従わせることに慣れた自分が、今はそれを“抑える”努力をしている。


抑える努力をしている自分が、さらに腹立たしい。


図書室では、アランがいつも通り書架を見ていた。レティシアは少し離れた位置に立ち、彼の視界に入る位置を選ぶ。近づきすぎない。声量を上げない。取り巻きを遠ざける。――さっき言われた通りの“方法”を試している。


アランが気づき、視線だけで「そこにいるのは分かる」と示す。レティシアはそれだけで、胸の奥が変に満たされるのを感じてしまった。


「……監視しているだけよ」


独り言のように呟く。言い訳だと分かっている。それでも言わないと、自分が何をしているか認めることになる。


アランは本を一冊取り出し、机に置いた。ページをめくる指が、きれいに揃っている。細身の指なのに、動きが迷わない。整っている。彼の整い方は、自分の整い方と違う。装飾ではなく、必要なものだけが残っている整い方。


「……その髪」


レティシアは、思わず言ってしまった。言ってから、後悔する。髪を指摘するなど、意味がない。負け犬の悪口だ。


しかしアランは怒らなかった。


「手入れはしています。あなたの基準では整っていないでしょうけど」


「分かっているなら、直せばいいのに」


「直す必要がある場面なら直します」


必要。彼の言葉はいつも必要に帰着する。必要かどうか。結果がどうなるか。迷惑が起きるかどうか。


レティシアは机に指を置き、ほんの少しだけ前に体重をかけた。距離を詰めすぎないように、慎重に。なのに胸の奥の衝動は、距離を潰したがっている。


「あなた、本当に――」


言葉が見つからない。面倒? 腹立たしい? それとも、何か別の。


アランはページを閉じ、こちらを見た。


「何です?」


レティシアは扇を開き、微笑みの形を作った。完璧な笑顔。社交界で何千回も使った笑顔。相手を圧し、相手を従わせ、相手を黙らせる笑顔。


だが、アランは黙らなかった。


「その笑顔は、相手が逃げる笑顔です」


淡々と言われた瞬間、レティシアの背筋がひやりとした。見抜かれた。自分が作ってきた“武器”を、武器として認識された。そして「逃げる」と断じられた。


「……私が逃げていると?」


「正論で言い返せない時に、身分や美貌で場を支配して終わらせる。それは逃げです」


レティシアは、息が詰まった。図書室の静けさの中で、その言葉だけが妙に響く。腹が立つ。屈辱だ。なのに――言い返せない。昨日から何度も繰り返されている構図。


「……分かったわ」


また言ってしまった。自分でも驚く。なぜ頷いた? なぜ学んでいる? 公爵令嬢が男爵に?


「私は逃げない。次は、正論で返す」


アランは少しだけ眉を動かした。驚きとも、興味とも取れる微細な動き。その動きが、レティシアには褒美みたいに感じられてしまう。


「それは良い」


短い。淡い。だが確かに肯定された。


レティシアは扇の奥で唇を噛んだ。嬉しい。嬉しいのに、悔しい。悔しいのに、また会いたい。感情が整わない。



夕方、帰り支度の時間。


廊下を歩くレティシアの耳に、また小さなざわめきが届く。噂は続いている。公爵令嬢が男爵に絡んでいる。公爵令嬢が叱られている。公爵令嬢が変わり始めている。


変わり始めている。


その言葉が胸を刺し、同時にどこかで温かい。温かいのが許せない。レティシアは扇を握り、窓際で立ち止まった。外には馬車の列。夕陽が石畳を赤く染めている。


背後から、足音が近づいた。規則正しい。焦りがない。聞き覚えのある歩幅。


振り返らなくても分かる。アランだ。


「今日一日、あなたはずっと“偶然”でしたね」


淡々と言われ、レティシアの頬が熱くなる。見抜かれている。隠しているつもりでも、彼には通じない。


「偶然よ。あなたの方が、私に付きまとっているんじゃないの」


言い返して、すぐに後悔する。幼い。子どもじみた言い返し。だが、止められない。


アランは困ったように息を吐き、それから言った。


「付きまとっているのは、あなたです」


即答。逃げ道なし。レティシアは扇を開き、顔を隠す。隠すのは負けだと分かっているのに、今の自分の表情を見られたくない。


「……監視しているだけ」


「監視でも構いません。ただ、監視の目的を持ってください」


「目的?」


「あなたは昨日から、怒っている。悔しがっている。けれど、今日あなたは下級生を助けた。取り巻きも抑えた。つまり、あなたはすでに変わっている」


淡々と告げられ、レティシアの胸がぎゅっと締まる。変わっている。自分が。自分の意志で? それとも、彼に引きずられて?


「……私は変わっていない」


「変わっていないなら、今日の行動は説明できません」


正論。逃げられない。レティシアは扇の奥で目を細めた。


「なら、目的は何?」


自分でも驚くほど素直な問いだった。素直に問うのが悔しいのに、問わないと進まない。


アランは少しだけ考えてから言った。


「あなたが、あなた自身の力で“当たり前”を作り直すことです。身分に頼らず、人に迷惑をかけず、それでもあなたはあなたでいる。その形を作れたら、あなたはもっと自由になります」


自由。その単語が、レティシアの胸を刺した。


公爵令嬢は自由だと誰もが言う。だがその自由は、身分の枠の中にある。美貌の枠の中にある。枠を守る限りにおいての自由。枠の外へ出れば、批判と噂と責務が襲う。


その枠を作り直す。


そんなことを、今まで誰もレティシアに提案しなかった。


腹立たしいのに、心のどこかで頷いてしまう。


「……あなた、面倒ね」


レティシアはそう言って、扇を閉じた。顔は見せる。逃げない。さっき自分で言ったばかりだ。


アランは表情を変えずに返す。


「面倒なのは、迷惑を自覚していない人です」


またそれだ。レティシアは笑いそうになり、同時に腹が立った。笑いそうになる自分が、さらに腹立たしい。


「いいわ。見ていなさい。私は、私のやり方で――」


言いかけて、言葉を飲み込んだ。やり方。昨日までのやり方は、身分と美貌で殴るやり方だ。それでは、彼の正論には勝てない。勝つ必要はないのに、勝ちたい衝動がある。


レティシアはゆっくり息を吐き、結論を変えた。


「私は、確かめる。あなたが本当に、誰に対してもその正論を貫けるのか」


アランは頷いた。


「どうぞ。僕は変えません」


変えない。彼は変えない。だから自分が変わるしかない。そういう構造が、すでにできてしまっている。


レティシアは踵を返し、馬車へ向かった。取り巻きが慌ててついてくる。背中に視線を感じる。アランの視線だ。見られている。監視しているつもりが、監視されている。


その事実が腹立たしいのに――視線が離れると、もっと腹が立ちそうだと気づいてしまう。


レティシアは扇を握りしめた。


腹立たしい。悔しい。なのに、明日もまた、偶然を作る。


それがもう、決まっている。

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