第1話 正論は身分より強い
身分も美貌も通じない「正論」に叱られたら、恋は始まってしまうのかもしれません。
高慢な公爵令嬢と、身分に怯えない男爵令息。
反発しながら、逃げられなくなっていく二人の、少し強くて少し甘いお話です。
王都第三学園の正門前は、毎朝ほんの短い時間だけ、都市の縮図になる。
馬車の列。制服の裾。香水と革の匂い。門衛の号令。家紋を誇るように掲げた紋章旗。取り巻きたちが作る、目に見えない通行順。
誰が先に通るべきか――それを決めるのは、規則ではなく序列で、序列を裏づけるのは家柄だった。
そして、その序列の最上段に、当然のように公爵家がいる。
ヴァルム公爵家の紋章が刻まれた豪奢な馬車が停まり、扉が開くと、周囲の空気が一段変わった。まるで音が吸われるみたいに、ざわめきが薄くなる。
レティシア=ヴァルム公爵令嬢が降り立つ。
金色の髪は艶やかで、朝日に照らされるだけで周囲の景色が少し明るくなる。顔立ちは整いすぎるほど整い、表情を作らなくても「見られる側」にふさわしい。立っているだけで人の視線と呼吸を支配する美しさが、彼女にはあった。
美しいから、誰もが道を空けるのではない。美しさそのものが圧となって、勝手に人を動かすのだ。
取り巻きたちが慌てて並び、彼女の左右に「道」を作る。いつもの儀式。
レティシアは扇を軽く揺らし、門の方へ視線をやった。
その視界を、荷車が横切った。
門前の脇道に寄せられた木箱の山と、二人の奨学生。制服の袖は少し擦れ、汗の匂いが朝の空気に溶けている。学園の備品らしい木箱を運び終えたばかりなのだろう。荷車の車輪が石畳の目地に引っかかっている。
レティシアの眉が僅かに動いた。それだけで、取り巻きの一人が察し、声を上げる。
「そこの方々、公爵令嬢の通行です。急いで道を空けなさい」
奨学生たちは慌てて頭を下げ、荷車を押した。押したが、車輪はすぐには動かない。焦りが手に力を入れさせ、荷が傾く。
縄がずるりと滑った。
木箱が、落ちかけた。
誰かの喉が音を立てて息を吸い、門前の空気が凍りつく。落ちる。落ちたら、足を潰す。奨学生の小柄な少女が、荷車の側にいる。
「危な――」
叫び声が最後まで届く前に、細身の男が一人、荷車の前へ滑り込んだ。
制服は着崩していない。だが髪が少しだけモサモサしている。貴族子弟が好む整え方ではなく、手入れはしているのに“無頓着”が残る髪だ。
それでも動きは無駄がなかった。
長い腕が伸びて箱の角を受け、背と肩で支え、足で荷車の位置を押し戻す。骨格は細いのに、支える瞬間だけ筋が浮く。細身だが筋肉質――それが一目で分かった。
木箱は落ちず、荷車も倒れなかった。
次の瞬間、凍っていた門前に音が戻る。ざわめきと安堵が遅れて押し寄せ、奨学生の少女が青い顔で何度も頭を下げた。
「す、すみません……! ありがとうございます……!」
男は手早く縄を締め直し、箱の位置を整えてから、ようやく周囲を見回した。視線がレティシアに当たる。そこで初めて、門前の空気が再び静まる。
公爵令嬢が彼を見ている。
普通なら、視線だけで縮こまる。普通なら、急いで頭を下げ、口を噤む。普通なら、「申し訳ございません」と言う。
だが、その男は違った。
背筋を伸ばし、礼はする。けれど媚びない。怯えない。言葉を選ぶのに、退かない。
その在り方が、レティシアには気に障った。
「……あなた、誰?」
口調は冷たくもない。ただ、当然の確認だ。自分の目の前で勝手に動いた者の身分を確かめる。序列のために。
男は淡々と答えた。
「アラン=フィールド。フィールド男爵家の子息です」
男爵。しかも新興。レティシアの脳内で、階段が作られる。公爵は頂点で、男爵は下。あまりにも下だ。
それだけで、言葉が軽くなる。
「そう。なら分かっているでしょう。門前を塞ぐなんて、恥ずかしい真似を」
奨学生たちが肩をすくめ、取り巻きが勝ち誇ったように頷く。空気が「公爵令嬢の正しさ」で固まりかけた――その時だった。
アランが、レティシアの言葉を肯定しなかった。
「門前を塞いでいたのは事実です」
最初の一文が丁寧だったから、レティシアは次も謝罪が続くと思った。
だが続いたのは、違う言葉だ。
「ですが、彼らは学園の当番で備品を運んでいました。通行の妨げがあったのなら、こちらも同じです。馬車の列で門前が詰まるのは、いつものことですから」
取り巻きの一人が息を呑み、「何を――」と声を上げかける。レティシアが扇を僅かに上げて制した。今、何を言われた? 男爵が公爵に、門前が詰まるのはお前たちのせいだと言った?
怒りが胸にせり上がる。けれど、すぐに叱責に移れなかったのは、アランの次の言葉があまりに淡々としていたからだ。
「それと」
視線を逸らさず、声を落とす。
「今のは危険でした。箱が落ちかけたのは、急かされたからです。あなたが急ぐ事情があるのかもしれません。でも、人が怪我をする可能性がある場面で、言い方を選ばないのは――迷惑です」
迷惑。
その単語が、レティシアの頬を殴った気がした。
身分を叱られたことはない。礼儀を説かれたこともない。誰もが彼女の機嫌を取り、都合の良い言葉を選び、遠回しにしか注意しない。
だが今、この男爵は、真正面から「迷惑」と言った。身分を持ち出さず、人格を持ち上げもせず、ただ行為を切り分けて断じた。
レティシアは、言葉を失う。
怒りはある。だが反論の糸口が見つからない。今のは確かに危険だった。奨学生が焦ったのも確かだ。焦らせたのは取り巻きの声で、自分が止めなかったのも確かだ。
「……無礼ね」
ようやく絞り出した言葉が、薄かったのは自覚していた。
アランは短く返す。
「無礼と迷惑は別です」
そして、そこで終わりだった。言い返すでもなく、勝ち誇るでもなく、奨学生たちに向き直り、荷車を押すのを手伝い始める。
男爵家の子息が、平民に手を貸す。汚れを気にしない。なのに品位が落ちない。むしろ背筋が通っている分、余計に目立つ。
門前のざわめきが、今度は違う色を帯びた。
「……公爵令嬢にああ言ったぞ」 「新興の男爵家だろ?」 「でも、正しいことは言ってたんじゃ……」
小声が耳に刺さる。レティシアの取り巻きが憤るが、今は叱り飛ばすと自分が短絡に見える。――そう理解してしまうのが、余計に腹立たしい。
レティシアは、扇を閉じる音だけを冷たく響かせ、門へ向かった。
背中に視線が刺さる。いつもとは違う種類の視線。好奇と、観察と、少しの期待。公爵令嬢が叱られた、と。
門をくぐる寸前、レティシアはほんの少しだけ振り返った。
アランはまだ荷車の側にいて、奨学生の少女に縄の締め方を教えていた。丁寧な言葉で、焦らせないように。彼女が頷くと、アランは小さく頷き返す。笑ってはいないのに、どこか柔らかい。
その柔らかさが、レティシアの胸をさらに苛立たせた。
――なぜ、私には向けない。
そんなことを考えた自分に、さらに苛立つ。
*
第一講義は礼法だった。学園が貴族のための機関である以上、礼法は基礎であり、武器であり、秩序の骨格でもある。
講師の老紳士は穏やかな声で言った。
「礼とは、相手を尊重する形式であり、己を律する器でもあります。身分の上下は秩序として必要ですが、礼は身分のためだけにあるのではありません」
――今朝の男爵を、思い出す。
レティシアは、ノートを取る手が僅かに止まった。思い出したくないのに、思い出してしまう。あの言い方。目。迷惑という単語。
講義が終わり、廊下へ出ると、取り巻きが一斉に集まってきた。
「レティシア様、先ほどの男爵家の無礼、許せませんわ」 「教師に報告して罰を――」 「公爵家に対する侮辱ですもの」
口々に言う。いつもなら、その言葉に頷けば済む。怒りを示せば、周囲が動く。公爵令嬢とはそういう立場だ。
だが、レティシアの胸の奥に引っかかったのは、「侮辱」ではなかった。
迷惑。
侮辱なら、叩き潰せる。だが迷惑は、事実を伴う。事実は潰せない。潰そうとすれば、こちらが歪む。
レティシアは扇を開き、淡々と告げた。
「騒ぐ必要はないわ。学園内で揉め事を起こして、私が下品に見える方が不利益よ」
取り巻きが一瞬黙る。レティシアは自分でも驚いた。今の判断は、完全に“学園内の空気”を読んだものだった。普段の自分なら、怒りを優先していたのに。
――私は今、あの男爵の正論に引きずられている?
その自覚が、また腹立たしい。
昼休み。中庭へ向かう途中、回廊の角で人だかりができていた。何だろうと目を向けると、そこにアランがいた。
彼は壁際に立ち、数人の下級生が囲んでいる。どうやら勉強を教えているらしい。ノートを見せ、指で説明し、相手が理解したかを確かめる。教師でも貴族でもない者が、自然に「教える側」に立っている。
レティシアの足が止まった。
取り巻きが先に反応する。
「またあの男爵……」 「平民相手に、見苦しい」 「身分をわきまえませんわね」
見苦しい? 本当に?
アランの姿勢は真っ直ぐで、言葉は丁寧で、相手を見下していない。見苦しいのは、むしろこちらの感情ではないか。そう思った瞬間、レティシアは自分の内側に小さな裂け目を感じた。
裂け目から、理解が差し込む。
あの男爵は、身分を否定しているのではない。身分より先に、人として守るべき線を引いている。その線の上では、公爵も男爵も平民も同じだと、平然と振る舞っている。
――だから、私にも効かない。
レティシアは扇を閉じ、回廊の柱の陰へ半歩退いた。取り巻きに見られたくなかったのだ。自分が彼を見ていると気づかれたくない。そんなこと、ありえない。公爵令嬢が男爵を気にするなど、笑い話になる。
それなのに、目が離れない。
アランが下級生を帰し、一人になる。歩き出した先が、図書室へ向かう廊下だと分かる。歩幅は一定。焦りがない。堂々としているのに、派手ではない。
レティシアの胸がざわつく。怒りとも、興味とも、よく分からない。
気づけば、足が彼の後を追っていた。
自分が「追っている」と認識した瞬間、背筋が冷たくなる。ありえない。公爵令嬢が。男爵を。
だが、足は止まらない。
図書室前。静かな空気。扉の開閉が控えめな音を立てるだけで、外の世界の騒がしさが遮断される。
アランは本棚の間を歩き、目的の本を探している。レティシアは少し離れた場所で立ち止まり、背中に向かって声を投げた。
「あなた、本当に面倒ね」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。怒りの形を取れば、ここまで来た理由を正当化できる。監視だ。叱責だ。そう、これは“公爵令嬢としての務め”なのだ。
アランは本を抜き出し、背表紙の埃を指で払ってから振り返った。
「面倒なのは、いつも周りに迷惑をかける人の方です」
返しが速い。刺してくるのに、感情がない。だから余計に腹が立つ。
「私が迷惑だと言いたいの?」
「言いたいんじゃない。言ってるんです」
レティシアは扇を握りしめた。言い返したい。叩き潰したい。だが、叩き潰したところで自分が勝つだけで、正しさは勝てない気がする。そんな感覚が、彼の言葉の中にある。
「あなた、私が誰か分かっているの?」
「分かっています。ヴァルム公爵家の令嬢ですね」
分かっている。なのに、引かない。
「なら、分かっているなら――」
「身分の話をするなら、礼法の講義で聞いた方が早い」
アランは淡々と言い、棚へ戻る。逃げたわけではない。会話を終わらせただけだ。
レティシアは一歩踏み出した。距離を詰めた。詰めた自覚が遅れて追いつく。こんなに近づく必要はない。ないのに、近づきたい衝動が勝った。
彼の視線が一瞬だけ揺れる。レティシアの顔ではなく、距離そのものに反応した揺れだ。
その揺れが、妙に心地よかった。
「あなた、私に叱られて怖くないの?」
自分が何を言っているのか分からない。公爵令嬢としての威を示す言葉のはずなのに、どこか試すような響きになってしまう。
アランは少しだけ息を吐き、言った。
「怖いかどうかで、言葉は変わりません」
その瞬間、レティシアの胸の奥が、悔しさと、理解と、別の熱で揺れた。
――私は、この男に勝てない。
勝てないのは、身分のせいではない。美貌のせいでもない。彼が、別の土俵に立っているからだ。
自分は上から踏む癖がある。彼は横から支える癖がある。踏むことに慣れた者は、支えられると戸惑う。戸惑いは、苛立ちになる。
「ふうん」
レティシアは扇を閉じ、視線を逸らした。逸らしたくなかったのに逸らした。自分が見つめ続けたら負ける気がした。
「……あなた、今朝のこと」
言いかけて、言葉が途切れる。今朝のことをどうする? 叱る? 謝る? どちらも嫌だ。公爵令嬢が男爵に謝るなど、考えたくもない。叱っても、正論で返されるのが目に見えている。
アランは待った。言い終えるのを。急かさない。その癖が、今朝の焦りと対照的で、また胸を刺す。
レティシアは結局、こう言うしかなかった。
「……次に私の前で無礼を働いたら、許さない」
言い終えて、自分で分かった。これは脅しだ。正論ではない。今の自分は、武器を使って逃げた。
アランは、淡々と頷いた。
「無礼はしません。迷惑を止めるだけです」
あっさりと返され、レティシアは息が詰まる。逃げ道がない。叱る言葉が見つからない。なのに、胸の奥のざわめきは消えない。
レティシアは図書室を出た。
取り巻きがすぐに追いつく。
「レティシア様、どうでした?」 「きつく言ってやりましたか?」
レティシアは歩幅を崩さず、言った。
「見ていなさい。あの男爵――必ず一度、分からせる」
分からせる。そう言って自分を整える。これは復讐だ。監視だ。懲らしめだ。恋ではない。関心ではない。
そう言い聞かせながら、レティシアは気づいてしまう。
今日一日で、自分はすでに二度も彼の前に立った。偶然ではない。選んでいる。自分が。
そして、彼の言葉が頭から離れない。
無礼と迷惑は別。怖いかどうかで言葉は変わらない。
公爵令嬢である自分が、男爵の正論に引きずられている。その事実が腹立たしいのに――腹立たしいからこそ、次も彼に会いに行く気がしてしまう。
レティシアは扇を開いた。顔の表情を隠すために。自分の内側の揺れを、誰にも見せないために。
けれど扇の向こうで、目だけは冴えていた。
あの男爵令息は、明日もきっと、正論で自分を叱る。
そして自分は――その正論から、逃げられない。




