第32話 神(猫)は人を狂わせる
ギルドマスターの執務室は、いつもより静まり返っていた。
ウルガは扉の前で一度深呼吸し、覚悟を決めて中へ入る。
「失礼します……」
ギルマスは書類から顔を上げ、次の瞬間――わずかに眉をひそめた。
視線は、ウルガの腕の中にいる“黒猫”に吸い寄せられている。
「……そちらは?」
声は平静を装っているが、明らかに距離を取っている。
椅子に深く腰掛け直し、無意識に机を挟む位置取り。
バステト様はと言えば、
その空気を当然のように受け止め、悠然と尻尾を揺らした。
「ほう。なかなか勘の良い人間ではないか」
小さな口が動き、はっきりとした言葉が紡がれる。
ギルマスの目が細くなる。
「……喋る、のですね」
「妾が喋って何か不都合でもあるか?」
完全な上から目線。
しかも悪びれる様子は一切ない。
ウルガは胃の辺りを押さえた。
(まずい……まずい流れだ……)
「え、ええとですねギルマス!
こちらは……その……」
言葉を選びながら説明を始めるウルガ。
遺跡の棺、異常起動、そして“同行することになった存在”。
ギルマスは黙って聞いているが、
視線は終始バステト様から離れない。
「……正体は、聞かない方が良さそうだな」
「賢明じゃな」
バステト様が満足げに喉を鳴らす。
「人の身で踏み込めば、寿命が縮むだけじゃ」
ギルマスは静かに息を吐いた。
「なるほど……
ウルガ、お前が胃を痛めている理由は理解した」
「はい……」
その頃――受付カウンター。
リーナは完全に別世界にいた。
「バステト様専用クッション……
こちらは爪とぎ兼用……
あ、毛並み用ブラシは三種類必要ですね……」
カウンター下には、すでに“私物”が山積みになっている。
「業務用ではありません。
これは“バステト様用”です」
誰にともなく言い訳しながら、
小さな首輪を手に取り、真剣な顔で頷く。
「……鈴は失礼ですね。
ですがリボンなら……」
その目は、完全に輝いていた。
執務室の重たい空気と、
受付のほのぼのとした狂気。
同じギルドの中で起きているとは思えない温度差に、
ウルガは今日も胃薬の必要性を確信するのだった。




