ゼミ
甲斐田教授の研究室で、クラウディアは一枚の書類を受け取った。
「これが、ゼミ配属の正式な書類だ。サインをしなさい」
「……本当に、よろしいのですか」
「君のレポートを読んだ。期待以上だった」
甲斐田教授は、眼鏡の奥の目を細めた。
「日本経済における構造改革の評価。通り一遍の分析ではなく、独自の視点があった。特に、政治経済学的なアプローチは興味深い。まるで……そうだな、宮廷政治を熟知した者が書いたような」
クラウディアは、内心でひやりとした。
「光栄です。政治と経済は切り離せないものですから」
「その通りだ。経済学は数字だけの学問ではない。人間の営み、権力の構造、そうしたものを理解しなければ、真の分析はできない」
教授は、窓の外を見た。
「君は、それを理解している。だからこそ、我がゼミにふさわしい」
「ありがとうございます」
クラウディアは、書類にサインをした。
これで、正式に甲斐田ゼミの一員となった。
「では、今日の午後からゼミに参加しなさい。場所は経済学部棟の三〇二号室だ」
「承知いたしました」
「ああ、それと――」
教授は、意味深な笑みを浮かべた。
「我がゼミには、面白い学生がいる。君と気が合うかもしれないな」
「……?」
その言葉の意味は、すぐにわかることになった。
~~~
午後二時、経済学部棟三〇二号室。
クラウディアは、ゼミ室の前に立っていた。
『お嬢様、緊張されていますか』
「……少しだけ」
イヤホンから聞こえるセバスチャンの声に、正直に答えた。
「新しい環境に飛び込むのは、いつでも緊張するものですわ。宮廷でも、初めての社交界デビューの時は――」
『お嬢様、回想に浸るのは後にして、そろそろ入室を』
「わかっていますわ」
深呼吸をして、ドアをノックする。
「どうぞ」
中から声が聞こえた。
ドアを開ける。
そして――
時が、止まった。
ゼミ室には、数人の学生が座っていた。しかしクラウディアの目には、一人しか映らなかった。
窓際に座る、一人の青年。
銀色がかった髪。すっきりとした輪郭。そして――琥珀色の、澄んだ瞳。
その瞳が、クラウディアを見つめていた。
「……っ!」
心臓が、激しく跳ねた。
――ルディ。
違う。違う、わかっている。ここは異世界で、あの人はもういない。
でも、この顔は、この瞳は……。
「あの、大丈夫ですか?」
青年が、心配そうに立ち上がった。
「顔色が悪いようですが……」
その声も――同じだった。
低く、穏やかで、どこか人を安心させる響き。
「わ、私は……」
声が、震えた。
――落ち着きなさい、クラウディア。
必死で自分に言い聞かせる。しかし、心臓の鼓動は収まらない。
「あ、あなたは……その……なんですの」
令嬢言葉が、盛大に崩れた。
周囲の学生たちが、きょとんとした顔でこちらを見ている。
「えっと……僕は吉橋類です。大学院の経営学研究科M2で、甲斐田ゼミのTAをして――」
そこで、青年の表情が変わった。
「……あれ、大田原さん?」
「え……」
「大田原真季さんだよね? 去年、基礎経済学で一緒だった」
類は、懐かしそうに微笑んだ。
「久しぶり。元気だった? 最近SNSも更新してなかったから、ちょっと心配してたんだ」
クラウディアは、一瞬固まった。
――この人、真季さんと面識がありましたの!?
セバスチャンからそんな情報は聞いていない。というより、調べていなかったのだ。
「あ、あの……は、はい……お久しぶり、ですわ……」
なんとか返事をする。しかし、視線が彼から離せない。
――似すぎている。
ルディに。前世で、二年間も自分を守ってくれた騎士に。
「なんか雰囲気変わった? 前より……堂々としてる感じがする」
「そ、そうですかしら……」
「うん。なんていうか、貴族っぽい? 話し方とか」
類は、不思議そうに首を傾げた。
「ま、いいか。席はそこが空いてるから――」
類が指さした方向に、クラウディアはふらふらと歩き出した。
そして、盛大に机の角に足をぶつけた。
「きゃっ……!」
バランスを崩し、手に持っていた資料が宙を舞う。
紙が、ひらひらと床に散らばった。
「大丈夫!?」
類が、すぐに駆け寄ってきた。
「すみません、足元、見えてなかったですよね……」
「い、いえ、私が不注意で……申し訳ありませんわ……」
顔が熱い。耳まで赤くなっているのが、自分でもわかる。
類が、散らばった資料を拾い集めてくれる。その手が、一瞬、クラウディアの手に触れた。
「――っ!」
電流が走ったような感覚。
クラウディアは、反射的に手を引っ込めた。
「あ、ごめん。驚かせちゃったかな」
「い、いえ……」
何を言っているのか、自分でもわからなくなってきた。
――何ですの、この状態は。私らしくありませんわ。
公爵令嬢としての矜持は、どこに行ったのか。こんな、まるで少女のような――
「はい、資料」
類が、集めた紙を差し出してくれた。
「ありがとうございます……わ」
「うん。じゃあ、席についてね。もうすぐゼミが始まるから」
類は、自然な笑顔で言った。
その笑顔が、またルディに重なる。
クラウディアは、逃げるように席に着いた。
~~~
ゼミの時間は、ほとんど集中できなかった。
議論の内容は耳に入ってくる。しかし、視界の隅に常に類がいて、意識がそちらに引っ張られてしまう。
「――それでは、今学期のグループプロジェクトについて説明します」
甲斐田教授の声が、ようやく意識に入ってきた。
「テーマは地域経済活性化のための政策提言。三〜四人のグループに分かれて、調査・分析・提言を行ってもらいます」
グループ分けが発表される。
そして――
「グループBは、吉橋、大田原、山田、鈴木」
クラウディアは、固まった。
「……え」
吉橋類と、同じグループ。
――うそ……ですの……。
『お嬢様、心拍数が異常です。落ち着いてください』
セバスチャンの声が、イヤホンから聞こえる。しかし、落ち着けるわけがない。
「大田原さん、また同じグループだね。去年の基礎ゼミでも一緒だったし、縁があるな」
類が、にこやかに手を挙げた。
「よ、よろしくお願いしますわ……」
声が裏返った。
他のグループメンバー――山田と鈴木という男女が、不思議そうな顔でこちらを見ている。
「大田原さんって、なんか雰囲気変わった?」
「うん、前より……なんだろ、堂々としてる?」
「ってか、なんか貴族っぽいよね。話し方とか」
ひそひそ話が聞こえる。
「初回のグループミーティングは、今週末にしよう。カフェでも借りて――」
類が、リーダーシップを取って日程を調整し始める。
クラウディアは、ただ頷くことしかできなかった。
~~~
ゼミが終わり、クラウディアは逃げるように教室を出た。
キャンパスの端にあるベンチまで歩き、どさりと腰を下ろす。
「……セバスチャン」
『はい、お嬢様』
「私、おかしいですわ」
『何がでしょうか』
「さっきから、胸が苦しいのですわ。動悸がして、顔が熱くなって……何かの病気ではないかしら」
『症状を詳しく教えてください』
「特定の……男性を見ると、心臓がドキドキして、頭がぼーっとして、視線を外せなくなって……」
『なるほど』
「それに、その人の声を聞くと、なぜか安心するような、でも緊張するような、矛盾した感覚があって――」
『お嬢様』
「何ですの」
『それは恋です』
沈黙。
「……は?」
『恋です』
「……聞こえませんでしたわ」
『恋、です。れ・ん・あ・い、恋愛感情です』
「ば、馬鹿を言わないでくださいまし!」
クラウディアは、真っ赤になって叫んだ。
「私が、あの男に恋を……!? そんなわけがありませんわ! 私はただ、彼が前世の護衛騎士に似ていたから動揺しただけで――」
『前世の護衛騎士……ルディ様ですか。お嬢様がお話しされていた方ですね』
「そ、そうですわ。似ていたから、驚いただけですの」
『しかしお嬢様、「似ているから驚いた」だけであれば、顔が赤くなったり、声が裏返ったり、資料を落としたりはしないのでは』
「そ、それは――」
『また、先ほどお嬢様は「その人の声を聞くと安心する」とおっしゃいました。これは、単なる「似ている人への驚き」を超えた感情です』
「う……」
『さらに、お嬢様の心拍数データを分析しますと、吉橋類様と視線が合った瞬間に平常時の1.8倍に上昇しています。これは恋愛感情に特有の――』
「もういいですわ!」
クラウディアは、両手で顔を覆った。
「セバスチャン、あなた、デリカシーというものがなくて?」
『私はAIですので、デリカシーの概念は理解しますが、実践は苦手です』
「……最悪ですわ」
『何がでしょうか』
「全部ですわ! 私が、出会って数時間の男に恋をするなんて……! 公爵令嬢としての品位が……!」
『お嬢様、いくつか指摘があります』
「何ですの」
『まず、吉橋類様に対する感情は、出会って数時間で生まれたものではない可能性があります』
「どういうことですの」
『お嬢様がおっしゃる通り、吉橋類様はルディ様に酷似しています。つまり、お嬢様の心の中には、既にルディ様への感情があった。それが、吉橋類様を見たことで呼び起こされたのでは』
クラウディアは、言葉を失った。
――ルディへの感情。
断罪の舞踏会で、彼の悲痛な表情を見た瞬間のことを思い出す。
「なぜ、そんな顔をしますの」――そう問いかけた自分。
そして、伝えられなかった言葉。
『それと、もう一つ』
「……何ですの」
『先ほど、吉橋類様が真季様と面識があるとおっしゃっていましたね。気になりましたので、真季様のSNSを確認いたしました』
「え……」
『真季様と吉橋類様は、去年の基礎経済学ゼミで同期だったようです。SNSでも、親しげなやり取りがいくつか確認できました。課題について相談したり、ゼミの打ち上げの写真にコメントし合ったり』
「……つまり、元の真季さんも、吉橋類と親しかった、と」
『はい。そして……これは推測ですが、元の真季様も吉橋類様に好意を抱いていた可能性があります』
「……」
『お嬢様の現在の感情が、ルディ様への想いから来ているのか、それとも真季様の身体に残る記憶や感情が影響しているのか。あるいは、その両方なのか。正直なところ、判断は難しいです』
クラウディアは、深く息を吐いた。
「……複雑ですわね」
『はい。ただ、いずれにせよ、お嬢様が吉橋類様を意識してしまうのは、無理からぬことかと』
「……私は、ルディのことを……」
『お嬢様』
「……好きだった、のかもしれませんわね」
認めるのは、辛かった。
二年間、そばにいてくれた人。自分の演技に気づきながら、黙って見守ってくれた人。
彼への想いを、自分で封じ込めていた。認めてしまえば、計画が狂うと思っていた。
でも――
「もう、会えないのに」
声が震えた。
「今更、認めても、意味がないのに……」
『お嬢様……』
「セバスチャン、私は……愚かですわね」
『そのようなことはございません』
「でも――」
『お嬢様。一つ、提案があります』
「何ですの」
『吉橋類様は、ルディ様ではありません。しかし、ルディ様に似た存在が、この世界にいる。それは、偶然ではないかもしれません』
「……どういうこと」
『転生という現象が存在するならば、魂の縁というものも存在するのかもしれません。お嬢様がこの世界に来た理由、吉橋類様がルディ様に似ている理由。何か、意味があるのでは』
クラウディアは、顔を上げた。
「……魂の縁」
『もちろん、これは私の推測に過ぎません。科学的根拠はございません。しかし――』
「セバスチャン」
『はい』
「あなた、ロマンチストですわね」
『AIにロマンはありませんが、お嬢様が元気になるならば、詭弁も厭いません』
クラウディアは、思わず笑った。
「……ふふ、ありがとう。少し、楽になりましたわ」
『光栄です』
「でも――」
クラウディアは、立ち上がった。
「今は、恋愛どころではありませんわ。真季さんの件を解決するのが先決ですわ」
『賢明なご判断です』
「吉橋類のことは……保留ですわ。少なくとも、今は」
『承知いたしました』
歩き出しながら、クラウディアはふと振り返った。
ゼミ棟の方向。あの中に、類がいる。
――保留、と言ったけれど。
忘れられるわけがない。この胸の高鳴りを。
「……困った人ですわね、本当に」
それが、類のことなのか、自分のことなのか、クラウディア自身にもわからなかった。
~~~
同じ頃、ゼミ室。
吉橋類は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「類、どうした? ぼーっとして」
同期の学生に声をかけられ、はっと我に返る。
「いや、なんでもない。ちょっと考え事」
「新入りの大田原さんのこと?」
「……まあ、そんなところ」
類は、曖昧に答えた。
本当のことは、言えなかった。
――大田原真季。
去年のゼミで一緒だった彼女。SNSで課題のことを相談し合ったり、ゼミの打ち上げで少しだけ話したり。控えめで、真面目で、少し影のある女の子――そういう印象だった。
でも、今日会った彼女は、まるで別人だった。
堂々とした立ち振る舞い。貴族のような話し方。そして、何より――あの、強い意志を宿した瞳。
その瞳を見た瞬間、強烈な既視感を覚えた。
子供の頃から、繰り返し見る夢がある。
金色の髪の女性が、一人で泣いている夢。
彼女を助けたいのに、手が届かない。声が届かない。
いつも、夢はそこで終わる。助けられないまま、目が覚める。
あの夢の女性と、大田原真季は、全然違う。髪の色も、顔立ちも。
なのに、どこか、重なる気がする。
「変な感じだな……」
類は、小さく呟いた。
大田原真季。あの子のことが、妙に気になる。
それが何を意味するのか、今の類にはわからなかった。




