記憶の欠片
大学復帰から一週間が過ぎた。
クラウディアの日常は、少しずつ軌道に乗り始めていた。講義には欠かさず出席し、レポートも順調に提出している。甲斐田教授の課題レポートも、セバスチャンの協力を得ながら着々と進めていた。
周囲の反応も、わずかに変化していた。
最初は露骨に避けていた学生たちが、今では好奇心混じりの視線を向けてくる。講義での発言が話題になっているらしく、「大田原さん、すごいね」と声をかけてくる者も現れ始めた。
全ては、順調に進んでいる、はずだった。
しかし。
「……っ」
その日の昼休み、クラウディアは図書館に向かって歩いていた。
中庭を横切ろうとした時、突然――胸が、締め付けられるように痛んだ。
「な、何……?」
足が止まる。
見回しても、特に変わった様子はない。学生たちが談笑し、木々が風に揺れている。ごく普通の光景だ。
なのに、この場所に、強烈な何かを感じる。
悲しみ? 恐怖? 絶望?
名前をつけられない感情が、胸の奥から湧き上がってくる。
『お嬢様、心拍数が上昇しています。大丈夫ですか』
「わかりませんわ……この感覚、何なのか……」
クラウディアは、ベンチに腰を下ろした。
深呼吸をする。しかし、胸の痛みは収まらない。
――これは、私の感情ではない。
直感的に、そう理解した。
この体の「前の持ち主」大田原真季の感情だ。
彼女の記憶が、この場所に刻まれている。何かがあった。この中庭で、彼女にとって辛い何かが。
「セバスチャン」
『はい、お嬢様』
「この場所について、何かわかりますか。真季さんに関連する情報が……」
『少々お待ちを。SNSの位置情報付き投稿を検索します』
数秒の沈黙。
『……見つかりました。約十ヶ月前、この中庭で撮影されたと思われる投稿があります』
「内容は」
『真季様ご本人の投稿ではありません。匿名アカウントからの投稿です。内容は「嘘つき女、発見」という文章と、後ろ姿の写真』
クラウディアは、唇を噛んだ。
「……晒されていたのですわね」
『はい。この投稿を起点に、多数のリプライが付いています。「気持ち悪い」「消えろ」「大学の恥」――』
「もういいですわ」
聞いているだけで、胸が苦しくなる。
真季は、ここで――衆人環視の中で、スマートフォンを向けられ、嘲笑されていたのだ。
「……ひどい」
声が震えた。
クラウディアは、自分でも驚いた。これは――真季の感情が、自分に流れ込んでいるのか?
『お嬢様、場所を変えましょう。ここにいるのは、精神的によろしくありません』
「……そうですわね」
立ち上がろうとした、その時。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
~~~
――スマートフォンの画面が、光っている。
通知。通知。通知。
止まらない。何十件、何百件と、通知が押し寄せてくる。
震える手で、画面をタップする。
SNSのタイムラインが表示される。自分の名前が、何度も何度も繰り返されている。
『大田原真季って子、マジでヤバいらしい』
『男を騙して金巻き上げてるって』
『え、同じ大学なんだけど、怖……』
『顔は可愛いのにね。性格終わってる』
『嘘つき女に天罰を』
違う。
私は、そんなことしていない。
誰かに訴えたい。でも、声が出ない。
画面をスクロールする。悪意のコメントが、延々と続いている。
『消えろ』
『死ね』
『存在が迷惑』
涙が、頬を伝う。
なぜ。どうして。私が何をしたというの。
友達に連絡しよう。茜ちゃんなら、わかってくれる。
メッセージを送る。『助けて。私、何もしてないのに――』
既読がつく。
返信が来る。
『ごめん、真季。私も巻き込まれたくないから。しばらく距離置こう』
――嘘。
そんな、嘘だ。
茜ちゃんは、親友だって言ってくれたじゃない。何でも相談してって。
なのに――
『お嬢様! お嬢様!』
~~~
「――っ!」
クラウディアは、はっと我に返った。
中庭のベンチに座っている。周囲には、何事もなかったかのように学生たちが行き交っている。
「セバスチャン……今のは……」
『お嬢様、約三十秒間、応答がありませんでした。意識を失っていたようです』
「いいえ、意識は……あった」
クラウディアは、額の汗を拭った。
「見えたのですわ。真季さんの……記憶が」
『記憶、ですか』
「炎上した時の。スマートフォンの画面、通知の嵐、悪意のコメント……そして、友人に見捨てられた瞬間」
声が、かすれた。
「……辛かったでしょうね、この子は」
『お嬢様……』
「孤独だった。誰にも助けを求められなかった。信じていた人にすら、裏切られた」
クラウディアは、空を見上げた。
「私は、悪役を自分で選んだ。覚悟の上で、仮面をかぶった。でも、この子は違う。望んでもいないのに悪役にされて、一人で戦わされた」
『……』
「許せませんわ」
静かな、しかし強い怒りが、胸の奥で燃えていた。
「セバスチャン。本格的な調査を始めますわ」
『承知いたしました。何から調べますか』
「まず、炎上の発端。誰が、いつ、どのように始めたのか。全てを洗い出しなさい」
『了解です。ただ、お嬢様、SNSの分析には時間がかかります。膨大なデータを――』
「私は待つのが嫌いですわ」
『お気持ちはわかりますが、AIにも処理速度の限界が――』
「セバスチャン、それは言い訳ですわ」
『……事実です』
「事実でも言い訳は言い訳ですわ」
『……詭弁です、お嬢様』
「詭弁でも何でも構いませんわ。とにかく、急ぎなさい」
『……かしこまりました』
クラウディアは、ベンチから立ち上がった。
図書館に行く気分ではなくなった。部屋に戻って、セバスチャンと共に調査を進めよう。
「この子の無念を、必ず晴らしてみせますわ」
拳を握りしめながら、クラウディアはキャンパスを後にした。
~~~
その夜、クラウディアは部屋でスマートフォンとにらめっこしていた。
画面には、セバスチャンが収集・分析したデータが表示されている。
「セバスチャン、報告を」
『はい、お嬢様。炎上の経緯を時系列で整理しました』
画面に、タイムラインが表示される。
『発端は約一年前、匿名アカウント「正義の告発者」による投稿です。内容は「大田原真季という女子大生が、複数の男性を騙して金銭を巻き上げている」というもの。証拠として、LINEのスクリーンショットが添付されていました』
「そのスクリーンショットは本物ですの?」
『検証した結果、偽造の可能性が高いです。画像のメタデータに不自然な点があり、また文面も真季様の普段の文体とは異なります』
「つまり、捏造された証拠」
『はい。しかし、当時はそれを検証する者はおらず、投稿は瞬く間に拡散しました』
クラウディアは、眉をひそめた。
「拡散の経路は?」
『興味深い発見があります、お嬢様』
「申しなさい」
『炎上の最初の拡散元を追跡したところ、真季様のフォロワー圏内から始まっていることが判明しました』
「……どういうことですの」
『通常、見知らぬ匿名アカウントの告発投稿が拡散するには、ある程度の時間がかかります。しかしこの投稿は、公開から数時間で爆発的に広まりました。その理由は――真季様の「知り合い」が、積極的に拡散したからです』
クラウディアは、画面を凝視した。
「つまり……身内の犯行」
『その可能性が高いです。匿名アカウントの運営者は、真季様の交友関係を熟知していました。そして、拡散を手助けする協力者が、真季様の近くにいた』
「協力者……」
脳裏に、今日見たフラッシュバックが蘇る。
『ごめん、真季。私も巻き込まれたくないから』
白浜茜。真季の親友を自称していた女。
助けを求めた時に背を向けた姿が、妙に引っかかる。
「セバスチャン、真季の交友関係全体のSNS活動を分析しなさい。炎上当時、誰がどう反応していたか」
『承知しました。……分析完了です。結果を報告します』
「どうでしたの」
『多くの友人が距離を置いていました。コメントもリツイートもせず、沈黙を保った者が大多数です。白浜茜様も、その中の一人です』
「茜も……見捨てたということね」
『自己保身と解釈することもできますが――』セバスチャンは言葉を選ぶように続けた。『炎上時に関わらないというのは、ある意味で合理的な判断とも言えます』
クラウディアは、かすかに眉をひそめた。
「でも、親友を名乗っていたのでしょう?」
『その点は確かに疑問が残ります。しかし……』
「続けなさい」
『炎上の最初の拡散に関わったアカウント群を分析しました。その多くが、真季様と共通の友人グループに属しています』
クラウディアは、息を呑んだ。
「……つまり、同じサークルか何か?」
『はい。真季様の所属していた学生サークルのメンバーを中心に、情報が広がっていったようです。ただし――』
「ただし?」
『このサークルは約五十名の規模があり、誰が最初に拡散したのか、特定するのは困難です』
クラウディアは、椅子の背にもたれた。
同じサークルの仲間たち。その中に、裏切り者がいる。
「セバスチャン、もう一つ調べて欲しいことがありますわ」
『何でしょうか』
「匿名アカウント、正義の告発者。この運営者を特定できますか」
『直接的な特定は困難です。しかし、投稿時間帯、文体、使用されている表現などから、プロファイリングは可能です』
「やりなさい」
『承知しました。…………分析完了です』
「結果は」
『投稿時間帯は、主に午後六時から深夜零時。大学の講義時間とは重複していません。文体は、やや感情的で、特定の表現を繰り返す傾向があります。また、真季様の私生活に関する詳細な情報を持っていることから――』
「近しい人間」
『はい。真季様の交友関係の中にいる可能性が高いです』
クラウディアは、腕を組んだ。
「犯人は……真季の周囲にいる人間。サークル内か」
『真季様の交友関係を洗い出しました。炎上の約二ヶ月前、真季様は同じサークルの男子学生から告白を受け、断っています』
「告白を断った?」
『はい。奥沢祐一という学生です。真季様は丁重に断ったようですが、その直後から――』
「炎上が始まった」
『時期的には一致します。動機としては、「振られた逆恨み」が考えられます』
クラウディアは、目を細めた。
「奥沢祐一……それが、匿名アカウントの正体?」
『可能性は高いです。また、奥沢祐一様はサークル内で一定の影響力を持っており、仲間を巻き込むことも容易だったはずです』
「協力者も、サークルの中にいる」
『その可能性が高いと考えられます』
クラウディアは、深くため息をついた。
奥沢祐一。そしてその周辺の協力者たち。真季を陥れた犯人――かもしれない。
しかし、まだ確証がない。動くには早すぎる。
「セバスチャン」
『はい、お嬢様』
「引き続き調査を続けなさい。特に、奥沢祐一とその周辺人物の関係性。サークル内の人間関係を洗い出して」
『承知いたしました。数日中に報告します』
「お願いしますわ」
クラウディアは、スマートフォンを置いた。
そして、ふと――真季のスマートフォンに残されていた、日記アプリを開いた。
以前、一度だけ覗いたことがある。しかし、あまりに辛い内容だったため、それ以上は読まなかった。
今なら――読める気がした。
スクロールして、最後の記述を探す。
見つけた。
日付は、約二週間前。クラウディアが「入った」直前の日だ。
――もう、疲れた。
――誰を信じていいのかわからない。
――茜ちゃんも、私を見捨てた。
――みんな、私のことを「嘘つき」だと思ってる。
――でも、私は何もしてない。本当に、何もしてないのに。
――誰か、助けて。
――でも、誰も助けてくれない。
――もう、いいや。
――疲れた。全部、疲れた。
――誰も、信じられない――
クラウディアは、画面を見つめたまま、動けなかった。
涙が、頬を伝っていた。
「……真季さん」
声が震えた。
「あなたは、一人で戦っていたのですわね。仮面なんてつけずに、素顔のまま、孤独に」
『お嬢様……』
「私と、同じですわ」
クラウディアは、涙を拭った。
「私は、悪役という仮面をつけていた。でもこの子は、仮面すらつけられなかった。丸裸のまま、攻撃を受け続けた」
『……』
「許せませんわ。この子をここまで追い詰めた連中を――絶対に、許さない」
クラウディアの目に、冷たい光が宿った。
「セバスチャン」
『はい、お嬢様』
「この戦い、必ず勝ちますわ。真実を暴き、この子の名誉を取り戻す。そして――本当の『悪役』を、断罪してみせます」
『……全力でお手伝いいたします、お嬢様』
「ええ、頼りにしていますわよ。セバスチャン」
夜は更けていく。
しかしクラウディアの闘志は、消えるどころか、ますます燃え盛っていた。
悪役令嬢の復讐、いや、断罪が、静かに幕を開けようとしていた。




