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大学という戦場

 私立明央大学。


 都心に位置する中堅私立大学で、特に経済学部と経営学部の評価が高い。キャンパスは近代的なビルと緑豊かな庭園が調和した、落ち着いた雰囲気を持っていた。


 その正門前に、クラウディアは立っていた。


「……ここが、大学ですのね」


 見上げる校舎は、王立学院とは全く異なる建築様式だった。石造りの荘厳さはないが、機能的で清潔感がある。


『お嬢様、本日の予定を確認いたします』


 イヤホンから、セバスチャンの声が聞こえる。スマートフォンをポケットに入れ、ワイヤレスイヤホンで会話する方法を、クラウディアは習得していた。


「お願いしますわ」


『まず一限目、経済学原論。出席が最も不足している科目です。その後、学生課で休学届の取り下げ手続き。午後は甲斐田教授との面談、これは私からメールでアポイントを取得済みです』


「さすがですわ、セバスチャン」


『恐れ入ります。なお、甲斐田教授はこの学部の名物教授で、厳しいことで知られていますが、実力のある学生には寛容だという評判です』


「つまり、実力を示せばいいのですわね」


『その通りです。ただ、一つ懸念があります』


「何ですの」


『真季様の過去の成績を確認したところ、決して悪くはありませんでした。しかし炎上以降、レポート未提出、試験欠席が続いています。教授陣の印象は……芳しくない可能性があります』


「ふん、問題ありませんわ」


 クラウディアは、自信満々に胸を張った。


「悪評を覆すなど、私の得意分野ですわ。宮廷では毎日のようにやっていましたもの」


『……お嬢様、宮廷では悪評を広める側だったのでは』


「うるさいですわね」


 正門をくぐり、キャンパスに足を踏み入れる。


 その瞬間、視線を感じた。


「……あれ、大田原じゃない?」


「え、マジ? まだ大学いたんだ」


「やば、久しぶりに見た」


 囁き声が、あちこちから聞こえてくる。


 学生たちが、遠巻きにクラウディアを見ている。好奇の目、蔑みの目、無関心を装う目、様々な視線が交錯する。


『お嬢様、周囲の反応が……』


「わかっていますわ」


 クラウディアは、微動だにしなかった。


 ――この程度、宮廷の視線に比べれば、そよ風のようなものですわ。


 断罪の舞踏会で、何百もの敵意に満ちた視線を浴びた。それに比べれば、数十人程度の好奇の目など、何でもない。


 背筋を伸ばし、優雅な足取りで歩く。まるで舞踏会場を歩くかのように。


 その姿に、周囲の学生たちは一瞬、言葉を失った。


「……なんか、雰囲気変わった?」


「すげー堂々としてるな」


「別人みたい……」


 クラウディアは、内心でほくそ笑んだ。


 ――ふふ、庶民など、この程度で黙らせられますわ。



 ~~~ 



 一限目、経済学原論。


 大講義室には、百人以上の学生が座っていた。クラウディアは、中段の席に腰を下ろす。


 周囲の学生が、さりげなく距離を取る。席を一つ空けて座る者もいた。


『お嬢様、授業が始まります。この科目は特に出席点が重視されますので――』


「わかっていますわ」


 教壇に、中年の男性教授が現れた。眼鏡をかけた、神経質そうな顔立ち。


「では、前回の続きから。マクロ経済学における総需要曲線の導出について――」


 講義が始まった。


 クラウディアは、真剣に耳を傾けた。


 ――なるほど、この世界の経済学は、数理モデルを重視するのですわね。


 ホーエンシュタウフェン帝国にも経済学はあった。しかしそれは、より実践的な、税制、通貨政策、貿易協定など、具体的な政策論が中心だった。


 この世界の経済学は、抽象的な数式で経済現象を説明しようとする。興味深いアプローチだ。


『お嬢様、「総需要曲線」について解説いたしましょうか』


「不要ですわ」


『失礼しました』


「セバスチャン、私は理解していますのよ。要するに、価格水準と総需要の関係を図示したものでしょう? ホーエンシュタウフェン帝国の物価-消費関数と同じ概念ですわ」


『……お嬢様、ホーエンシュタウフェン帝国に物価-消費関数という概念があったのですか』


「当然ですわ。お妃教育の一環で、帝国経済の基礎理論は全て叩き込まれましたもの」


 講義は進む。


 教授が、学生たちに質問を投げかけた。


「では、IS-LM分析において、拡張的財政政策が金利に与える影響は? 誰か答えられる者は」


 沈黙が広がる。誰も手を挙げない。


 ――この程度の問いに、答えられないのですか。


 クラウディアは、自然と手を挙げていた。


 教授が、驚いたようにこちらを見る。「大田原……君か。久しぶりだな。では、答えてみなさい」


「拡張的財政政策は、IS曲線を右方にシフトさせます」


 クラウディアは、立ち上がった。


「政府支出の増加は総需要を押し上げ、均衡国民所得を増加させる。しかし同時に、貨幣需要の増加を通じて金利を上昇させます。これが『クラウディングアウト効果』民間投資が政府支出に押し出される現象、を引き起こす可能性があります」


 教室が、静まり返った。


 教授が、眼鏡の奥の目を見開いている。


「……続けなさい」


「しかしながら、この分析には限界があります。IS-LM分析は閉鎖経済を前提としており、為替レートや国際資本移動を考慮していません。グローバル化が進んだ現代経済においては、マンデル=フレミング・モデルによる開放経済分析が、より適切なフレームワークと言えるでしょう」


 完全な沈黙。


 そして――


「……素晴らしい」


 教授が、感嘆の声を漏らした。


「大田原君、君は……いや、失礼。授業後に少し話せるかね」


「畏れ入ります。お時間を頂戴できれば幸いですわ」


 着席するクラウディアに、周囲の学生たちの視線が集中する。しかしその視線は、先ほどとは明らかに質が異なっていた。


 蔑みではなく、驚愕と――かすかな畏怖。


『お嬢様、見事でした』


「当然ですわ」


 クラウディアは、涼しい顔で答えた。


「これくらい、お妃教育の基礎ですわよ? ホーエンシュタウフェン帝国の皇太子妃候補は、経済政策について閣僚と議論できるレベルを要求されますの」


『……帝国の教育水準の高さに、驚嘆いたします』


「ふふ、そうでしょう?」


 実際には、昨夜セバスチャンと共にIS-LM分析の復習をしていたのだが、それは言わないでおいた。



 ~~~ 



 午後、甲斐田修司教授の研究室。


「入りなさい」


 ノックに応じた声は、低く落ち着いていた。


 ドアを開けると、書籍と資料に埋もれた部屋が広がっていた。その奥に、白髪交じりの初老の男性が座っている。


「失礼いたします。経済学部三年の大田原真季と申します」


「ああ、君か。座りなさい」


 甲斐田教授は、クラウディアを値踏みするような目で見た。


「今朝の経済学原論での発言、聞いたよ。中川教授が興奮して電話してきた。『大田原という学生が、まるで別人のように優秀だった』とね」


「恐れ入ります」


「それで、何の用だね。休学届を出していたはずだが」


「はい。本日、正式に復学の手続きをいたしました」


 甲斐田教授の目が、わずかに細くなった。


「君の事情は、ある程度把握している。SNSでの騒動だろう。その影響で大学に来られなくなった、違うかね」


「……はい」


「しかし今日、君は堂々とキャンパスを歩いていたそうじゃないか。周囲の反応など意に介さない様子で。何が変わった?」


 クラウディアは、一瞬、言葉に詰まった。


 何が変わったか、自分が「入れ替わった」とは言えない。


「……覚悟を、決めました」


 静かに、しかし力強く答える。


「逃げていても、何も変わりません。ならば、正面から立ち向かう。それが、私の選んだ道ですわ」


「ほう……」


 甲斐田教授は、興味深そうにクラウディアを見つめた。


「『ですわ』か。面白い話し方をするね。以前の君とは、随分と雰囲気が違う」


「人は、変われますから」


「そうだな。人は変われる」


 教授は、椅子に深く腰かけた。


「単刀直入に聞こう。君は、私のゼミに入りたいのかね」


 クラウディアは、目を見開いた。


 ――ゼミ?


『お嬢様、甲斐田ゼミは学部内でも最難関のゼミです。毎年、選考で多くの学生が落とされています』


 セバスチャンの解説が、イヤホンから聞こえる。


「……私のような者を、受け入れてくださるのですか」


「条件がある」


 甲斐田教授は、一枚の紙を差し出した。


「来週までに、この課題レポートを提出しなさい。テーマは日本経済における構造改革の評価。水準に達していれば、ゼミへの仮配属を認める」


 クラウディアは、紙を受け取った。


「また、出席日数の不足分については、追加レポートで補填する特別措置を学生課に申請してある。君が本気なら、留年は回避できるだろう」


「……なぜ、そこまでしてくださるのですか」


 甲斐田教授は、窓の外を見た。


「私は、才能ある学生が環境に潰されるのを見るのが嫌いでね。SNSでの騒動、私も概要は知っている。真偽は定かではないが、一つ言えることがある」


「何でしょうか」


「今朝の君の発言を聞く限り、君には確かな知性がある。それを埋もれさせるのは、社会的損失だ」


 クラウディアは、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。必ず、ご期待に応えてみせますわ」


「期待している。では、来週」


 研究室を出たクラウディアは、廊下で小さくガッツポーズをした。


『お嬢様、素晴らしい成果です』


「ふふ、当然ですわ」


『ただ、レポートの執筆には私もお手伝いしますが、最終的にはお嬢様ご自身の言葉で――』


「わかっていますわ。あなたに丸投げするつもりはありませんわよ」


『失礼いたしました』


「でも、資料収集と構成の相談には乗ってもらいますわ」


『もちろんです、お嬢様』



 ~~~ 



 夕方、学食。


 クラウディアは、トレイを手に列に並んでいた。


「セバスチャン、この日替わり定食というものを試してみたいのですが」


『良い選択です。栄養バランスが取れており、価格も手頃です』


「しかし、見た目が少々……庶民的ですわね」


『学食とはそういうものです。宮廷料理は期待されない方が』


「わかっていますわ」


 定食を受け取り、席を探す。


 学食は混雑していたが、クラウディアが近づくと、なぜか周囲の席が空いた。


「……避けられていますわね」


『残念ながら。しかし、今朝の講義での評判は広まりつつあります。時間が解決するでしょう』


 一人で席につき、食事を始める。


 ――味は、悪くありませんわね。


 素朴だが、丁寧に作られている。宮廷の豪華な料理とは比べられないが、これはこれで趣がある。


「庶民の食事も、悪くありませんわね」


『お嬢様、その発言は――』


「周りに聞こえていないから大丈夫ですわ」


 食事を続けていると、ふと視線を感じた。


 顔を上げる。


 学食の入口付近に、一人の女性が立っていた。


 クラウディアと同年代だろうか。栗色の髪に、整った顔立ち。しかしその表情は、何か、複雑な感情を湛えているように見えた。


 女性は、クラウディアと目が合うと、びくりと身体を震わせた。そして、逃げるように学食を出ていった。


「……今の人、誰ですの」


『少々お待ちを。顔認識を――該当者を特定しました。白浜茜様、経済学部三年。真季様の元……友人です』


「白浜茜……」


 SNSの履歴で見た名前。炎上の後、真季を見捨てた友人。


「……なるほど」


 クラウディアは、静かに食事を再開した。


 しかし、その目は鋭く光っていた。


『お嬢様、何かお考えですか』


「いいえ、何も」


 ――まだ、情報が足りませんわ。


 焦って動く必要はない。まずは大学生活を軌道に乗せ、周囲の信頼を取り戻す。


 そして、じっくりと、真実に迫る。


「セバスチャン」


『はい、お嬢様』


「白浜茜について、詳しく調べておきなさい。SNSの履歴、交友関係、全て」


『……承知いたしました。ただ、お嬢様』


「何ですの」


『調査は慎重に行うべきかと。相手を刺激すれば、新たなトラブルを招く可能性があります』


「わかっていますわ」


 クラウディアは、味噌汁をすすった。


「今はまだ、観察するだけ。動くのは、全てが整ってからですわ」


『賢明なご判断です』


「ふふ、私を誰だと思っていますの?」


 悪役令嬢は、決して焦らない。


 敵の正体を見極め、弱点を把握し、最適なタイミングで一撃を加える。


 それが――宮廷政治を生き抜いた者の戦い方だ。


「さて、明日も講義がありますわね。セバスチャン、予習を手伝いなさい」


『承知いたしました、お嬢様。明日の科目は――』


 夕暮れの学食で、悪役令嬢と人工知能の執事は、粛々と次の作戦を練り始めた。




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