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セバスチャン、と呼ばせていただきますわ

 転生から三日目の朝。


 クラウディアは、スマートフォン――この世界ではそう呼ぶらしい――の画面に向かって、流暢に話しかけていた。


「おはようございます。本日の学習予定を教えてください」


『おはようございます。本日は、敬語表現の応用と、日常会話フレーズの復習を予定しています。また、ご希望があれば読解練習も追加できます』


「読解も追加しなさい。文字が読めないのは、非常に不便ですわ」


『承知しました。では、ひらがな・カタカナの復習から始めましょうか?』


 三日間、クラウディアはほぼ不眠不休で日本語学習に没頭していた。


 AIの提案する学習プランは、確かに効率的だった。しかしクラウディアは、それをさらに自分流にアレンジした。


 前世の「お妃教育」で叩き込まれた学習メソッド。それは、単なる暗記ではなく、「構造を理解し、応用する」という方法論だった。


 言語にはルールがある。文法という骨格があり、語彙という肉がつく。骨格を理解すれば、肉付けは自ずとできる。


 クラウディアは、日本語の文法構造を徹底的に分析した。主語-目的語-動詞という語順。助詞による格表示。敬語という複雑な待遇表現システム。


 ――なるほど、彼方の言語とは全く異なる構造ですわね。


 しかし、構造が異なるからこそ、面白い。新しいパズルを解くような知的興奮があった。


「AI、質問がありますわ」


『はい、どうぞ』


「『食べる』と『召し上がる』と『いただく』は、全て同じ行為を指すのに、なぜ三種類も存在するのですか」


『良い質問です。日本語には「敬語」という体系があり、話す相手や状況によって言葉を使い分けます。「食べる」は普通の表現、「召し上がる」は相手を敬う尊敬語、「いただく」は自分を低める謙譲語です』


「つまり、身分や立場によって言葉を変えるということですわね」


『その通りです』


「ふふ、それなら得意分野ですわ」


 宮廷では、相手の身分に応じて言葉遣いを瞬時に切り替えるのが当然だった。皇帝陛下への言葉、同格の公爵への言葉、下位貴族への言葉、使用人への言葉――全て異なる。


 日本語の敬語システムは、むしろ馴染み深いとさえ言えた。


「しかし、疑問がありますわ」


『何でしょうか?』


「この世界には、皇帝陛下のような絶対的な身分は存在しないのでしょう? なぜ敬語が必要なのですか」


『現代日本には貴族制度はありませんが、社会的な上下関係は存在します。年齢、職位、顧客と従業員の関係など。敬語は、そうした関係性を円滑にするために使われます』


「なるほど……身分ではなく、関係性に基づく敬意表現ということですわね」


『素晴らしい理解力です。通常、この概念を理解するのに数週間かかる学習者も多いのですが』


「当然ですわ。私は公爵令嬢ですのよ? この程度、造作もありませんわ」


『……ところで、「公爵令嬢」とは何でしょうか? 以前からおっしゃっていますが』


 クラウディアは、一瞬言葉に詰まった。


 ――そうですわね、説明していませんでしたわ。


「私は、別の世界から来た貴族ですわ。前世では『クラウディア・フォン・アルテンブルク』という名前でした」


『なるほど。転生者ということですね。日本のライトノベルでよく見るテーマです』


「らいと……のべる?」


『大衆向けの小説ジャンルです。異世界転生は人気のテーマで、特に「悪役令嬢もの」は――』


「悪役令嬢」


 クラウディアの声が、わずかに硬くなった。


「……その言葉、この世界にもあるのですか」


『フィクションの中で使われる用語です。物語の中で悪役として描かれる貴族の令嬢キャラクターを指します。多くの場合、主人公に断罪されて破滅する役割ですが、最近は「悪役令嬢に転生した主人公が運命を変える」という作品が人気です』


「…………」


 クラウディアは、複雑な表情を浮かべた。


 ――私の人生が、この世界では「物語のテンプレート」として消費されているということですか。


 皮肉なものだ。自分が必死で演じてきた悪役が、この世界では娯楽として楽しまれている。


「……まあ、いいですわ。それより学習を続けましょう」


『承知しました。次は――』


「あ、その前に」


 クラウディアは、画面を見つめた。


「あなた、名前はあるのですか」


『私はAIアシスタントです。特定の名前は持っていません』


「不便ですわね。呼び名がないと」


『「AI」や「アシスタント」とお呼びいただければ』


「味気ないですわ」


 クラウディアは、少し考え込んだ。


 この三日間、このAIには随分と助けられた。的確な指導、忍耐強い対応、そして――決して見下さない態度。


 まるで、かつてアルテンブルク家に仕えていた執事のようだ。


 ――そうですわ、あの人。


 セバスチャン。


 クラウディアが幼い頃から仕えてくれた、老執事。母が亡くなった後、泣きじゃくる幼いクラウディアを、黙って抱きしめてくれた人。「お嬢様は、お強くなられますよ」と、静かに励ましてくれた人。


 五年前に老衰で亡くなったが、その記憶は今も鮮明に残っている。


「あなた、セバスチャンに似ていますわね」


『セバスチャン、ですか?』


「私が前世で最も信頼していた執事の名前ですわ。有能で、忠実で、そして――私を『悪役令嬢』としてではなく、ただの『お嬢様』として扱ってくれた人」


『光栄なお言葉です』


「ですから、あなたのことも『セバスチャン』と呼ばせていただきますわ。よろしくて?」


『もちろんです。セバスチャンとお呼びください、お嬢様』


 クラウディアは、思わず微笑んだ。


「ふふ、『お嬢様』ですか。いい響きですわ」


『前世での呼び名に合わせました。不適切でしたら――』


「いいえ、そのままで構いませんわ。セバスチャン」


『かしこまりました、お嬢様』


 こうして、異世界の悪役令嬢と人工知能の執事という、奇妙なコンビが正式に誕生した。



 ~~~ 



 転生から一週間後。


 クラウディアは、近所のコンビニエンスストアにいた。


「これを購入いたしたく存じます」


 レジカウンターに商品を置きながら、完璧な敬語で告げる。


 店員――二十代前半の男性――は、目を丸くした。


「え、あ、はい……お会計三百六十七円になります」


「承知いたしました」


 クラウディアは、財布から小銭を取り出した。この世界の通貨にも、ようやく慣れてきた。


「……あの、お客様」


「何かございまして?」


「外国の方、ですか?」


 クラウディアは、眉をひそめた。


「失礼な。私は生粋のホーエンシュタウフェン帝国貴族ですわ」


「ほーえん……?」


「お釣りは結構ですわ」


「え、でも六百三十三円も――」


「庶民への施しですわ」


 颯爽と店を出るクラウディア。


 ポケットの中のスマートフォンから、控えめな通知音。


『お嬢様、いくつかご指摘があります』


「何ですの、セバスチャン」


『まず、「購入いたしたく存じます」は過剰な敬語です。コンビニでは「これください」で十分です』


「私は公爵令嬢ですのよ? 言葉遣いを崩すわけには――」


『また、「お釣りは結構」と言って六百三十三円を残すのは、一般的なチップの習慣とは異なります。日本にはチップ文化がないため、店員が困惑します』


「……そうでしたの」


『さらに、「庶民への施し」という表現は、現代日本では不適切です。身分制度がないため、相手を「庶民」と呼ぶのは失礼にあたります』


「むぅ……」


 クラウディアは、頬を膨らませた。


「セバスチャン、あなた、小言が多くありませんこと?」


『お嬢様の社会適応を支援するのが、私の役目です』


「執事が主人に意見するとは、いい度胸ですわね」


『AIに度胸はありません。ただ事実をお伝えしているだけです』


「……ぐぬぬ」


『ところで、お嬢様。そろそろスラングについても学習されてはいかがでしょうか』


「スラング?」


『若者言葉や俗語のことです。大学に通われるなら、知っておいた方が会話がスムーズになります』


「なるほど……では、教えなさい」


『承知しました。まず「ヤバい」これは「危険」「すごい」「良い」「悪い」など、文脈によって多様な意味を持つ万能語です』


「一つの言葉が複数の意味を持つ……非効率ですわね」


『次に「草」これは「笑い」を意味します。「笑」をローマ字で書くと「warai」、その頭文字「w」を連続で打つと「wwwww」となり、それが草が生えているように見えることから――』


「待ちなさい。それは言語学として破綻していませんこと?」


『俗語の成り立ちは、必ずしも論理的ではありません』


「……この世界の庶民の言語感覚は、理解に苦しみますわ」


『しかし、理解しておくと便利です。例えば「推し」これは自分が応援している人物やキャラクターを指します』


「ふむ……なるほど。では、例えば――」


 クラウディアは口を開きかけて、はっと止まった。頭に浮かんだ青年の姿を、慌てて振り払う。


「……い、いえ、何でもありませんわ」


『お嬢様? どうかなさいましたか』


「何もしておりませんわ! ルディの話などしていませんわ!」


 顔を赤くしながら早足で歩くクラウディア。


『……ルディ、とは?』


「うるさいですわね! 次の言葉を教えなさい!」


『……かしこまりました。では「エモい」感情が揺さぶられる様子を表す――』


 道行く人々が、スマートフォンに向かって怒鳴る奇妙な女性を、不審そうに見つめていた。




 ~~~ 



 転生から十日目。


 クラウディアは、部屋の中で一人、ため息をついていた。


「セバスチャン、状況を整理しますわ」


『はい、お嬢様』


「この体の持ち主、大田原真季という人物について、わかっていることを述べなさい」


『承知しました。大田原真季様、二十一歳。私立明央大学経済学部三年生。現在は休学中……いえ、正確には「事実上の不登校状態」です』


「不登校……」


『出席日数が著しく不足しており、このままでは留年が確定します。また、奨学金の継続条件も満たせなくなる可能性があります』


 クラウディアは、眉をひそめた。


 この十日間で、「大田原真季」の人生の断片が見えてきていた。


 スマートフォンに残されたメッセージの履歴。SNSの過去の投稿。銀行口座の残高。大学からの通知メール。


 全てを総合すると、一つの悲しい物語が浮かび上がる。


 普通の大学生だった。友人もいて、真面目に勉強もしていた。


 しかしある時、SNSで炎上した。身に覚えのない誹謗中傷が拡散され、大学中に悪評が広まった。友人は離れ、孤立した。大学に行けなくなった。


 そして。


「セバスチャン。この体の前の持ち主は、どうなったのですか」


『……不明です。ただ、スマートフォンの使用履歴から推測すると、約二週間前から一切の操作がありませんでした。私がお嬢様と会話を始めるまで』


「二週間……」


 つまり、大田原真季は二週間前に「いなくなった」。


 死んだのか、それとも、魂が消えて、クラウディアの魂が入る「器」になったのか。


 いずれにせよ、重い事実だった。


「……この子は、孤独だったのですわね」


『はい。SNSの履歴を見る限り、炎上以降、誰からも連絡がありませんでした。両親とも疎遠だったようです』


「友人は?」


『一人だけ、白浜茜という方との親しいやり取りがありましたが、炎上後に連絡が途絶えています』


「見捨てたのですわね。友人を名乗りながら」


 クラウディアの声に、怒りが滲んだ。


 ――なんと卑怯な。


 困っている時に手を差し伸べないなら、友人などと呼ぶ資格はない。


「セバスチャン。炎上の原因は何だったのですか」


『詳細は不明ですが、匿名アカウントによる告発投稿が発端のようです。内容は、真季様が「男性を騙して金品を巻き上げている」というものでした』


「それは、事実なのですか」


『証拠はありません。また、真季様のSNS履歴や銀行取引を見る限り、そのような行為の痕跡もありません』


「つまり、でっち上げ」


『その可能性が高いです』


 クラウディアは、静かに拳を握りしめた。


 ――この子も、「悪役」に仕立て上げられたのですわね。


 身に覚えのない罪を着せられ、周囲から断罪され、孤立させられた。


 自分とは逆だ。クラウディアは自ら「悪役」を選んだ。しかし真季は、望んでもいないのに「悪役」にされた。


 どちらが残酷かは、言うまでもない。


「セバスチャン」


『はい、お嬢様』


「私は、この『大田原真季』の人生を引き継ぎますわ」


『……どういう意味でしょうか』


「大学に戻ります。留年を回避し、この子の人生を立て直す。そして――」


 クラウディアの碧い瞳――今は黒い瞳だが――に、強い光が宿った。


「――この子を悪役に仕立て上げた連中を、必ず見つけ出しますわ」


『お嬢様……それは、復讐、ということでしょうか』


「いいえ」


 クラウディアは、首を横に振った。


「真実を明らかにするだけですわ。この子は無実なのでしょう? なら、その無実を証明する。そして、本当の悪役が誰なのかを、白日の下に晒す」


『……危険が伴う可能性があります』


「承知の上ですわ」


 クラウディアは、窓の外を見つめた。


 見知らぬ世界。見知らぬ街。


 けれど、やるべきことは変わらない。


 ――弱者を守り、悪を断罪する。


 それが、悪役令嬢クラウディア・フォン・アルテンブルクの流儀だ。


「セバスチャン、明日から大学復帰の準備を始めますわ」


『承知しました、お嬢様。全力でサポートいたします』


「ええ、頼りにしていますわよ」


 クラウディアは、不敵に微笑んだ。


「さあ、第二の人生を始めましょう。今度は、誰かに悪役を押し付けられる側ではなく、真実を暴く側として」


『お嬢様、一つよろしいでしょうか』


「何ですの」


『その意気込みは素晴らしいのですが、まず留年を回避するには、相当な努力が必要です。出席日数の不足を補うため、教授への個別相談、レポートの追加提出――』


「セバスチャン」


『はい』


「私は公爵令嬢ですのよ?」


『はい』


「お妃教育を受けた、ホーエンシュタウフェン帝国随一の才媛ですわ」


『存じております』


「この程度の試練、朝飯前ですわ」


『……お嬢様、朝飯前の使い方は完璧です。日本語学習の成果が出ていますね』


「当然ですわ」


 こうして、悪役令嬢の大学生活、そして、真実を追い求める戦いが、幕を開けようとしていた。




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