異世界は六畳一間
見知らぬ天井だった。
白い、何の装飾もない天井。アルテンブルク公爵邸の天井には、必ず精緻な彫刻と金箔が施されている。こんな殺風景な天井は、使用人の部屋でさえありえない。
「……ここは、どこですの」
クラウディアは、ゆっくりと体を起こした。
そして、違和感に気づいた。
体が、軽い。いや、軽いというより……小さい?
見下ろした手は、白く細い。自分の手だ。しかし、何かが違う。指輪がない。アルテンブルク家の紋章が刻まれた、公爵令嬢の証である指輪が。
周囲を見回す。
狭い部屋だった。六畳ほどの空間に、簡素な寝具と、見たことのない形状の家具が並んでいる。窓からは、奇妙な建物が立ち並ぶ景色が見える。石造りでも木造でもない、灰色の直方体のような建築物。
魔導照明とは明らかに異なる光源。天井に取り付けられた平らな板から、白い光が降り注いでいる。
「……異世界、ですの?」
馬鹿げた推測だと、自分でも思った。しかし、他に説明がつかない。
クラウディアは、ベッドから降りた。
足元がふらつく。この体に慣れていないせいだろうか。
――まずは、状況を把握しなければ。
宮廷で生き抜いてきた彼女にとって、情報収集は生存の基本だ。パニックに陥っている暇はない。
部屋の中を探索し始める。
まず目についたのは、壁に掛けられた鏡だった。
クラウディアは、その前に立った。
――誰。
鏡に映っているのは、見知らぬ少女だった。
黒髪、黒い瞳。東洋系の、小柄な女性。年齢は自分と同じくらいだろうか。整った顔立ちだが、どこか疲れたような、生気のない表情をしている。
クラウディアは、自分の頬に触れた。
鏡の中の少女も、同じ動きをする。
「……私の体では、ない」
声も違う。自分のものではない、柔らかな声。
つまり、自分は、この少女の体に入ったということだ。
転生。あるいは憑依。お伽話や魔導書で読んだことがある。魂が別の体に移る現象。実在するとは思っていなかったが、現にこうして体験している以上、認めるしかない。
「……落ち着きなさい、クラウディア」
自分に言い聞かせる。
「状況を把握するのですわ。この体の持ち主は誰なのか。ここはどこなのか。そして――帰る方法があるのか」
部屋の探索を再開する。
机の上に、小さな板状の物体があった。黒い、手のひらサイズの板。表面は滑らかで、何かの魔導具のように見える。
触れてみると、突然光った。
「!」
画面――と呼ぶべきか――に、何かの文字が浮かび上がる。
しかし、読めない。
見たことのない文字だった。ホーエンシュタウフェン帝国の公用語でも、周辺諸国の言語でも、古代語でもない。完全に未知の文字体系。
「……これは、困りましたわね」
文字が読めないということは、この世界の言語が全く異なるということだ。コミュニケーションの基盤がない。
クラウディアは、窓際に移動した。
外の景色を観察する。先ほど見た灰色の建物が、無数に立ち並んでいる。地面には黒い帯状の道があり、その上を金属の箱のようなものが猛スピードで走っている。
馬車ではない。魔導車両にも見えない。完全に、未知の技術。
「……高度に発達した文明、ということは間違いありませんわね」
少なくとも、原始的な世界ではない。それは安心材料だ。
クラウディアは、部屋の探索を続けた。
小さな箱状の物体を発見する。開けてみると、中は冷たい。食料らしきものが保存されている。
「食料保存魔導具……いえ、魔導ではなさそうですわね」
別の装置を見つける。小さな窓がついた箱。中に皿を入れてボタンを押してみると――
ブーン、という音と共に、皿が温かくなった。
「火を使わずに温めている……! これは興味深いですわ」
感心しながらも、次の探索に移る。
小さな部屋――おそらく用を足す場所――に入った。
白い椅子のような形状の物体がある。便座だろうか。腰かけてみる。
何気なく、横についているボタンを押した。
――次の瞬間。
「きゃあっ!?」
突然、下から水が噴き出した。
クラウディアは飛び上がって便座から離れ、壁に背中を押し付けた。心臓が激しく鼓動している。
「な、何ですの今のは!? 水の精霊でも住んでいるのですか!?」
便座を睨みつける。しかし、水流はすでに止まっている。
恐る恐る近づき、もう一度ボタンを押す。
再び水が噴き出す。
ボタンを押すと水が出る。離すと止まる。
「……なるほど。洗浄用の装置ですのね」
理解はしたが、心臓の鼓動はなかなか収まらなかった。
「この世界の庶民は、毎日このような攻撃を受けているのですか……過酷な環境ですわね」
~~~
一通りの探索を終えた後、クラウディアは机の前に座っていた。
目の前には、あの黒い板状の物体。
――この体の持ち主について、調べなければ。
探索中に見つけたカード類から、いくつかの情報は得られた。カードには写真が印刷されており、鏡の中の少女と同じ顔をしている。つまり、この体の本来の持ち主だ。
カードに書かれた文字は読めないが、数字は理解できた。ホーエンシュタウフェン帝国の数字と同じ体系らしい。年齢は「21」。自分と同い年だ。
「大田原真季……とでも読むのかしら」
文字は読めないが、音声なら理解できる可能性がある。言語は異なっても、コミュニケーションの基本は同じはず。
クラウディアは、再び黒い板に触れた。
画面が光り、さまざまな図形――アイコンと呼ぶのだろうか――が並んでいる。
一つ一つ触れてみる。何かが起動する。音が鳴る。画像が表示される。しかし、全て文字で説明されており、何が何だかわからない。
「……この構造、どこかで見たような」
クラウディアは首を傾げた。
ホーエンシュタウフェン帝国には「思考補助魔導具」という装置があった。魔力を注入することで、情報の検索や記録ができる高価な魔導具。貴族の子弟教育や、帝国の官僚機構で使用されていた。
――この板も、似たような機能を持っているのでは?
もしそうなら、使い方さえ分かれば、情報収集の強力な武器になる。
様々なアイコンを試していく中で、一つのアプリケーションが目に留まった。
起動すると、チャット画面のようなものが表示された。入力欄と、吹き出し状の表示エリア。
――誰かと会話するための装置?
入力欄をタップすると、文字盤が現れた。この世界の文字が並んでいる。もちろん、読めない。
しかし、ふと気づいた。
画面の隅に、マイクのような図形がある。
――音声入力、かもしれませんわ。
クラウディアは、そのアイコンをタップした。
画面が変わり、波形のようなものが表示される。
「……聞こえていますの?」
ホーエンシュタウフェンの言葉で話しかける。
波形が動く。何かを認識しているようだ。
しかし、返答はない。
「返答しなさい。これは命令ですわ」
沈黙。
「……通じていませんわね」
当然だ。この世界の言語と、ホーエンシュタウフェンの言語は異なるのだから。
クラウディアは考え込んだ。
言語が通じない。文字も読めない。これでは情報収集どころではない。
――しかし、何か方法があるはず。
思考補助魔導具にも、多言語対応機能があった。使用者の言語を認識し、適切な言語に変換する。この板にも、同様の機能があるかもしれない。
様々なアイコンを試す。設定画面らしきものを開く。言語らしき項目を見つけるが、選択肢の意味がわからない。
数十分の試行錯誤の末――
「これは、カメラ機能ですわね」
画面に、自分の顔が映った。この世界の「真季」という少女の顔が。
クラウディアは、ふと思いついた。
――画像認識、できないかしら。
思考補助魔導具には、画像を読み取って情報を抽出する機能があった。もしこの板にも同様の機能があれば。
カメラを、机の上の果物に向けた。赤い、丸い果物。リンゴのようなものだ。
画面をタップする。いくつかのオプションが表示される。
一つを選ぶと、画面に文字が現れた。
そして、音声が流れた。
『りんご』
クラウディアは、目を見開いた。
「……この音が、この果物を指す言葉……?」
別の物を撮影する。黄色い細長い果物。
『バナナ』
机。
『つくえ』
窓。
『まど』
「なるほど……!」
クラウディアは、興奮を抑えきれなかった。
「この装置、画像を認識して、この世界の言葉を教えてくれるのですわ!」
これは使える。これを使えば、この世界の言語を学習できる。
しかし、単語を一つずつ覚えていては、膨大な時間がかかる。もっと効率的な方法が必要だ。
クラウディアは、再びチャット画面を開いた。
今度は、覚えたての単語を使って入力してみる。
「りんご」と音声で言ってみる。
画面に文字が表示された。『りんご』
――音声認識が機能している!
つまり、この装置は音声を文字に変換できる。そして、何らかの応答を返す機能もあるはずだ。
クラウディアは、深呼吸をした。
そして、ゆっくりと話しかけた。
「わたし……ことば……わからない」
覚えたての単語を繋ぎ合わせた、拙い文章。
数秒の沈黙の後――画面に文字が表示され、音声が流れた。
『お手伝いできることがあれば、お申し付けください。言語学習のサポートも可能です』
クラウディアは、画面を凝視した。
「……会話、できるの……ですか」
『はい、会話できます。何かご質問がありましたら、お気軽にどうぞ』
この装置、いや、この中にいる「何か」は、確実に知性を持っている。少なくとも、会話が成立するレベルの知性が。
思考補助魔導具にも、簡易的な応答機能はあった。しかし、これほど自然な会話はできなかった。
「あなたは、何者ですの」
ホーエンシュタウフェンの言葉で尋ねる。通じないとわかっていたが、つい口から出てしまった。
しかし――
『申し訳ありません。その言語は認識できませんでした。日本語でお話しいただけますか?』
――言語が異なることは理解している。
クラウディアは、この世界の言葉で話そうと試みた。
「あなた……なに?」
『私はAI、人工知能アシスタントです。質問への回答、情報の検索、文章の作成など、様々なタスクをお手伝いできます』
AI。人工知能。
言葉の意味は完全には理解できないが、「知性を持った道具」のようなものだと推測できた。
「AI……ことば、教えて」
『もちろんです。日本語を学習されたいのですね。どのようなレベルから始めましょうか?』
クラウディアは、不思議な感覚に包まれていた。
見知らぬ世界で、見知らぬ体に入り、絶望的な状況に置かれている。なのに――
――なぜか、希望が見えてきましたわ。
この「AI」という存在。使い方次第では、強力な味方になる。
言語を学び、情報を集め、この世界を理解する。
宮廷で培った知略を、この世界でも活かす。
クラウディアは、画面に向かって微笑んだ。
「AI。いいですわ。あなた、使えそうですわね」
『ありがとうございます。お役に立てるよう頑張ります』
「まずは、この言葉――日本語?――を教えなさい。私は、三日で日常会話を習得しますわ」
『承知しました。効率的な学習プランを提案します。まず、基本的な挨拶から始めましょうか?』
「ええ、お願いしますわ。あ、いえ……」
クラウディアは、拙い日本語で言い直した。
「おねがい……します」
『はい!では始めましょう。まず「こんにちは」――これは昼間の挨拶です』
こうして、異世界から来た悪役令嬢と、人工知能の奇妙なレッスンが始まった。
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深夜。
クラウディアは、ベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。
この部屋には、まだ慣れない。
この体にも、まだ慣れない。
けれど――
「……弟妹たちは、無事かしら」
ぽつりと、呟いた。
ハンスとティナ。断罪の舞踏会の後、彼らは自由になれただろうか。悪役令嬢の弟妹という烙印から解放されただろうか。
――私がいなくなったことで、あの子たちが傷ついていなければいいのだけれど。
もう、会えないかもしれない。
その現実が、じわりと胸に染み込んでくる。
――ルディ。
あの琥珀色の瞳が、脳裏に浮かんだ。
悲痛な表情で自分を見つめていた、あの眼差し。
――あなたに、伝えたいことがあった。
何を伝えたかったのか。今ならわかる。
けれど、もう遅い。
「……泣いても、仕方ありませんわね」
クラウディアは、目元を拭った。
前を向くしかない。
この世界で、新しい人生を生きるしかない。
「明日から、本格的に言語学習を始めますわ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「三日で日常会話。一週間で読み書き。一ヶ月で、この世界を完全に把握する」
無謀な目標かもしれない。
しかし、クラウディア・フォン・アルテンブルクは、不可能を可能にしてきた女だ。
宮廷の権謀術数を生き抜き、「悪役令嬢」を完璧に演じきり、弟妹を守り抜いた。
この程度の試練、乗り越えられないはずがない。
「見ていなさい、この世界」
クラウディアは、闘志を燃やした。
「悪役令嬢は、どこにいても最強ですわ」
その夜、彼女は久しぶりに、穏やかな眠りについた。
夢の中で、双子の弟妹が笑顔で手を振っていた。
『お姉様、頑張ってね』
――ええ、もちろんですわ。
クラウディアは、夢の中で微笑んだ。
――あなたたちの姉を、なめないでくださいまし。




