断罪の舞踏会
魔導照明が宝石のように煌めく大広間には、ホーエンシュタウフェン帝国の貴族たちが集っていた。
女たちは色とりどりのドレスに身を包み、男たちは勲章を誇らしげに胸に飾っている。オーケストラが奏でる優雅なワルツ。シャンデリアから降り注ぐ光の粒子。まさに夢のような光景、のはずだった。
しかし今宵、この舞踏会の空気は異様に張り詰めていた。
「ついに、あの女が断罪されるのね」
「当然よ。あれだけのことをしておいて、ただで済むはずがないわ」
「公爵令嬢の地位を笠に着て、好き放題してきた報いですわ」
囁きが、さざ波のように広がっていく。
その視線の先にいるのは、一人の女性だった。
豊かな金髪を優雅に結い上げ、深紅のドレスを纏った姿。氷のように冷たい碧眼。二十一歳にして、すでに完成された美貌を持つ彼女こそ、クラウディア・フォン・アルテンブルク。ホーエンシュタウフェン帝国随一の名門、アルテンブルク公爵家の令嬢にして、王太子ホルストの婚約者。
そして、宮廷中から悪役令嬢と呼ばれ、忌み嫌われる存在だった。
傲慢、冷酷、残忍――、彼女に付けられた悪名は枚挙にいとまがない。侍女を鞭で打った。気に入らない令嬢のドレスにワインをかけた。王太子に近づく女は容赦なく潰した。そんな噂が、真偽を問わず宮廷中に広まっていた。
クラウディアは、群衆の敵意に満ちた視線を一身に受けながら、微動だにしなかった。
――計画通り。
その美しい唇が、僅かに弧を描く。
――全ては、この日のため。
彼女の脳裏に浮かぶのは、二つの幼い顔だった。
ハンスとティナ。十歳になる双子の弟妹。母亡き後、クラウディアが育てた、世界で最も愛おしい存在。
アルテンブルク公爵家は、帝位継承権を持つ家系だ。現皇帝に嫡子がいない今、公爵家の血筋は常に権力闘争の渦中にある。幼い双子は、その闘争に巻き込まれる危険と隣り合わせだった。
だからクラウディアは、決めたのだ。
――私が、全ての憎悪を集める。
宮廷の敵意が自分に向いている限り、弟妹は安全だ。あの悪役令嬢の弟妹として距離を置かれることで、むしろ権力闘争から遠ざけられる。そして今日、婚約破棄によって失脚すれば、公爵家の継承権問題からも解放される。
全ては、あの子たちを、守るため。
ファンファーレが鳴り響いた。
「王太子殿下の御成りでございます!」
大広間の扉が開き、金髪碧眼の青年が姿を現す。ホルスト・フォン・ホーエンシュタウフェン。この国の次期皇帝にして、クラウディアの婚約者。
彼の腕には、可憐な少女が寄り添っていた。男爵令嬢リーゼ。清楚な容姿と純真な性格で、宮廷中から愛される聖女。そして――王太子が本当に愛する女性。
クラウディアは、その光景を冷ややかに見つめた。
――ああ、リーゼ嬢も上手く役割を果たしてくれましたわね。
悪役令嬢に虐げられる聖女という構図。それこそが、クラウディアの断罪を正当化する最後のピースだった。もちろん、リーゼ本人は何も知らない。ただ純粋に王太子を愛し、クラウディアを恐れているだけだ。
利用したことに、僅かな罪悪感がよぎる。
――けれど、必要なことでしたわ。
ホルストが、大広間の中央に進み出た。その表情は、怒りに歪んでいる。
「皆の者、聞くがいい!」
朗々とした声が、広間に響き渡る。
「本日、私は重大な発表をする。我が婚約者、クラウディア・フォン・アルテンブルクの罪状についてだ!」
群衆がざわめく。待ちに待った瞬間が来た、という高揚感が伝わってくる。
「彼女は、その傲慢と残虐さで、数多くの令嬢たちを傷つけてきた。リーゼ嬢もその被害者の一人だ。彼女は何度もリーゼ嬢に嫌がらせを行い、先日に至っては階段から突き落とそうとした!」
悲鳴のような声が上がる。リーゼが涙ぐみながらホルストにすがりつく。
クラウディアは、内心でため息をついた。
――階段から突き落とす? そんな雑なことはしませんわ。
実際には、リーゼが自分で躓いただけだ。クラウディアはたまたま近くにいただけ。しかし、そんな真実は誰も聞かない。聞きたくないのだ。
「よって、私は今日この場で、クラウディア・フォン・アルテンブルクとの婚約を破棄する!」
歓声が上がった。
拍手が湧き起こる。
「ざまあみろ」
「当然だ」
「これで宮廷も平和になる」
祝福とも呪詛ともつかない声が飛び交う。
クラウディアは、ゆっくりと歩み出た。
群衆が、反射的に道を開ける。まるで疫病を避けるように。
彼女は王太子の前に立ち、優雅に一礼した。
「殿下、本日は盛大な舞踏会にお招きいただき、光栄の至りでございます」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「何を……」
ホルストが眉をひそめる。
「婚約破棄、謹んでお受けいたしますわ」
クラウディアは、完璧な微笑みを浮かべた。
「ですが殿下、一つだけ申し上げてもよろしいかしら?」
「……何だ」
「私が悪役令嬢であったこと、後悔はしておりませんの」
群衆がざわめく。
クラウディアは、その視線を真っ向から受け止めた。
「この宮廷で生き残るためには、時に仮面が必要ですわ。私はただ、自分の役割を演じただけ。そして今日、その幕が下りる、それだけのことですわ」
沈黙が広がった。
誰もが、彼女の言葉の意味を図りかねていた。
クラウディアは、くるりと踵を返した。
「では皆様、ごきげんよう。私のいない宮廷を、どうぞお楽しみくださいませ――」
その瞬間、彼女の視界の隅に、一人の男が映った。
群衆の中に埋もれるようにして立つ、近衛騎士の制服を着た青年。銀髪に、琥珀色の瞳。鍛え上げられた長身。ルディ・フォン・ラングナー。クラウディアの元護衛騎士。
彼だけが、歓声を上げていなかった。
彼だけが、拍手をしていなかった。
彼だけが、ひどく、悲痛な表情で、クラウディアを見つめていた。
クラウディアの心臓が、不意に跳ねた。
――なぜ。
二年前、任務としてクラウディアの護衛に就いた男。当初は噂通りの悪役令嬢と警戒していたはずだ。しかしいつの間にか、彼は気づいてしまった。クラウディアの演技に。その裏にある、弟妹への深い愛情に。
気づかれた時は、焦った。計画が狂うと思った。
しかしルディは、何も言わなかった。ただ黙って、彼女を見守り続けた。時折、彼女が疲れ果てた時にだけ、そっと温かい茶を差し出してくれた。
――あの人には、感謝していますわ。
けれど、それだけだ。それ以上の感情を持つことは、許されなかった。
クラウディアは、ルディから視線を逸らそうとした。
しかし、逸らせなかった。
彼の瞳に映る感情が、あまりにも――
「――なぜ、そんな顔をしますの」
思わず、声が漏れた。
自分でも驚くほど、震えた声だった。
ルディの唇が動いた。声は届かない。けれど、その形は読み取れた。
『お嬢様』
いつもそう呼んでくれた。冷たい悪役令嬢としてではなく、ただのお嬢様として。
クラウディアの胸が、締め付けられるように痛んだ。
――ああ、いけませんわ。
こんな感情、今更。
その時だった。
世界が、白く染まった。
「――っ!?」
突然の眩暈。視界が歪む。足元が覚束なくなる。
何が起きている。何が――
「お嬢様!」
ルディの叫び声が聞こえた。遠い。どこか別の世界から響いてくるようだ。
光が、クラウディアを包み込んでいく。
――何、これは……
体が浮遊するような感覚。意識が薄れていく。
最後に見えたのは、群衆を掻き分けてこちらに走ってくるルディの姿だった。
――ああ。
クラウディアの意識の片隅で、小さな後悔が芽生えた。
――あなたに、伝えたいことが――
何を伝えたかったのか。その答えを見つける前に、彼女の意識は光の中に溶けていった。
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同じ頃、地球のどこか。
一人の少女が、誰にも看取られることなく、静かに息を引き取ろうとしていた。
彼女の名は、大田原真季。二十一歳。私立明央大学経済学部の三年生――だった。
薄暗いワンルームの中、ベッドに横たわる彼女の顔には、生気がなかった。
一年前のあの日から、全てが狂った。
SNSでの炎上。身に覚えのない誹謗中傷。
「嘘つき」
「消えろ」
「死ね」
画面に溢れる匿名の悪意。
友人だと思っていた人は、一人、また一人と離れていった。
最後まで味方でいてくれると思った親友すら、「ごめん、私も巻き込まれたくない」と去っていった。
大学に行けなくなった。バイトもクビになった。親に連絡する気力もなかった。
もう、疲れた。
誰も、信じられない。
真季は、薄れゆく意識の中で思った。
――もし生まれ変われるなら、今度こそ――
その願いが届いたのか、届かなかったのか。
彼女の体から、ゆっくりと力が抜けていった。
そして。
遠い異世界から、一つの魂が、この体に宿ろうとしていた。




