表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/37

第9話《飢えの森と、牙を持つ恵み》

1. 祈りと、空っぽの器

この村に来てから、何日たったのか。 正確な日数は、もう分からない。


朝になれば誰かの手伝いをして、日が沈めば小麦や雑穀のパンを胃に流し込んで、眠る 。 その繰り返しだけが、すっかり日常になっていた。



(……ラーメンとか牛丼、食べたいな〜)


頭の隅でそんなことを思う自分が、情けない 。 でも、腹が減ると心も薄くなる。



その日も俺は、リュミアの家で簡単な仕事を片づけてから、近くの家々を回っていた。


「トモヤ、ちょっとそっち持ってくれる?」


「ああ、これでいい?」


「うん。それ外に出して。乾かさないと、すぐ腐っちゃうから」


リュミアの指示に従い、干し肉の手前の肉や、洗った麻布を外へ運ぶ 。 どの家にも、生きるための切実な「保存」の工夫があった 。





でも、どの家にも共通していることが、もう一つあった。


昼の食事が、驚くほど質素なのだ。


薄い穀物粥。具の沈んでいないスープ 。 子どもが自分の分をちょっとだけ小さい子に回し、それを親が切なそうに見守る。


玄関先で、年配の獣人が笑いながら言った。


「去年の冬は誰も倒れなかったからな。いい年だったよ」


「一昨年も一人で済んだしな。昔に比べりゃ、ましなもんだ」


“倒れた”の意味は、聞かなくても分かる 。 餓死だ。


(死者の数を、出来不出来みたいに数えるのが、この世界の現実なんだな……)


胸の奥が、じわじわざらついた。


畑の広さに対して、口の数が多すぎる。 少し雪解けが遅れたり、少し病が流行ったりするだけで、誰かが“死ぬ側”に回る構造 。



(根性じゃない。やり方そのものを変えないと……)


「トモヤ」


振り向くと、カゴを抱えたリュミアが立っていた。


「森のはずれ。木の実、取りに行く。行ける?」


「行こう。俺も見たい」


「……うん。フォレスト・ウルフ、出ないといいけど」


軽く言う彼女の耳は、最初から警戒の形にぴんと立っていた 。



2. どんぐりの雨と、森の刃

森は、湿った土と枯れ葉の匂いがした。


足元には、ころころと無数の実が転がっている。


「……どんぐり、すごい量だな」


リュミアが一つ拾い上げ、指先で転がした。


「どんぐり……基本、家畜の餌。人が食べるのは……他に何もなくて、年を越せない時だけ」


「やっぱり、そういう扱いなんだな」


「アク、強い。そのままだと苦い。思い出したくない味、って言う」


彼女は眉をひそめた 。


(アク抜きが面倒。水も手間もいる) (でも逆に言えば、設備さえあれば、これは“空から降ってくる炭水化物”だ)


俺は布の小袋を取り出し、どんぐりを拾い始めた 。 泥で指先が黒くなるのも気にしない。 これは、村の誰一人としてまともに数えていない「潜在的な食料」だ 。




(これ、うまく回れば――「ちょっと悪い年」で誰かが死ぬ連鎖を、切れるかもしれない)


「とりあえず、これだけ持って帰る。実験してみたいんだ」


「へえ。……あの味を“実験”する気になれるの、すごいと思う」


半分あきれたようなリュミアの目に、少しだけ期待の光が混ざった 。


その瞬間。 彼女の耳が、鋭く跳ねた 。



「……来てる」


「え?」


「匂い。フォレスト・ウルフ」


リュミアは俺の腕を引き、太い幹の裏へ押し込んだ 。


茂みの向こうから、低い唸り声。 黄土色の毛並みをした、大型犬より一回り大きな狼が一匹 。


リュミアは影へ滑るように移動した。 猫のように低く、静かに。


小石を拾い、手首だけで鋭く投げる。


カン、と乾いた音が響き、狼の注意が逸れた。


その隙に、彼女は短槍を構える 。 足は斜め。腰は落ちて、上体だけが軽い。



(……強い。戦士としての姿勢が、完成してる)


狼が跳んだ。 空気が裂ける音がする。


リュミアは半身だけずらしてそれを避けると、槍先を“置く”ように突き出した 。


ずぷ、と嫌な感触。 狼が悲鳴を上げ、着地が乱れる。


だが、安堵する間もなかった。 獣臭が、一気に濃くなる。


茂みが二つ、三つと揺れた。


「……増えた。群れだ」


リュミアの声が低くなった 。


3. 泥のぬくもり、透ける境界

リュミアが俺の手を掴んだ。 指が絡むくらい、強く 。


「走れる?」


「……走る!」


枯れ葉を蹴り、泥を噛んで走る 。 背後で爪が土を削る音が、すぐ近くまで迫っていた。


「こっち!」


倒木を越え、枝を潜り抜ける。


湿地に足を取られた。 泥がずるりと、俺の足を引っ張る 。


「待って。足元、危ない……!」


次の瞬間、リュミアの両腕が俺の腰を引き上げた 。 体が密着し、布越しの熱が肌に刺さる。



逃走の汗と森の湿気で、彼女の薄い麻の服が、肩から脇腹の線をくっきりと拾い上げていた。 汗で張り付き、白く透けかけた生地の向こうに、しなやかな肌の質感が透けて見える 。


(……見るな。今は、生きることを考えろ)


俺は泥から足を抜き、再び走り出す。


リュミアが立ち止まり、槍を水平に構えた 。 先頭の一匹を槍で牽制するが、群れは止まらない。 横、後ろ、前。数が違いすぎる。


俺は必死で周囲の地形を探した。 雨で削れた、深い溝。


(……あそこだ。狭い。あそこなら、一箇所にまとめられる)


「斜面の下の溝だ! あそこに誘導しよう!」


リュミアが頷き、俺たちは斜面へ飛び込んだ 。


4. 牙よりも深い飢え

溝の入り口は狭い。 左右の土壁が迫り、狼たちの逃げ幅が消える。


「ここだ!」


俺は枝束を蹴り集め、石を二つ転がして、踏めば滑る“罠もどき”を即座に作った 。


先頭の狼が踏み込む。 枝が滑り、足が流れる。 後続がそれにぶつかり、速度が落ちた。


だが、それでも押し切られそうになる。


その瞬間。 リュミアが指先を水面に向けた 。


「水よ……」


魔法が、糸のように走る 。 溝の底に薄い水の膜が広がり、泥が一気にヌルつく。



狼たちが次々と滑り、折り重なって転倒した 。


「今だ!」


俺はリュミアの手を引き、溝の横の斜面を這い上がった 。 倒木の裏へ転がり込み、二人で息を殺す。


喉が焼けるように痛い。 でも、生きていた。


リュミアが、泥のついた顔で小さく笑った。


「……トモヤ。追い払えた、ね」


「ああ。あれで十分だ」


殺せば、その血の匂いでさらに他の獣を呼び寄せるだけだ 。


俺は震える指で、どんぐりの袋を確かめた。 ずっしりとした重みが、そこにあった 。


(俺は、魔法も戦う力もないかもしれない) (でも、やることは決まってる)


その夜。 俺は土間に座り、どんぐりを一つ握りしめた。


森の牙は、確かに怖い。 でも、声もなく村を侵食する“飢え”は、それよりもずっと恐ろしい 。



「……あいつらの牙より先に、村の腹を満たしてやる」


そう呟いて、俺は暗い天井を見上げた。


外では、冷たい夜の森が、静かに息をしていた 。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ