第9話《飢えの森と、牙を持つ恵み》
1. 祈りと、空っぽの器
この村に来てから、何日たったのか。 正確な日数は、もう分からない。
朝になれば誰かの手伝いをして、日が沈めば小麦や雑穀のパンを胃に流し込んで、眠る 。 その繰り返しだけが、すっかり日常になっていた。
(……ラーメンとか牛丼、食べたいな〜)
頭の隅でそんなことを思う自分が、情けない 。 でも、腹が減ると心も薄くなる。
その日も俺は、リュミアの家で簡単な仕事を片づけてから、近くの家々を回っていた。
「トモヤ、ちょっとそっち持ってくれる?」
「ああ、これでいい?」
「うん。それ外に出して。乾かさないと、すぐ腐っちゃうから」
リュミアの指示に従い、干し肉の手前の肉や、洗った麻布を外へ運ぶ 。 どの家にも、生きるための切実な「保存」の工夫があった 。
でも、どの家にも共通していることが、もう一つあった。
昼の食事が、驚くほど質素なのだ。
薄い穀物粥。具の沈んでいないスープ 。 子どもが自分の分をちょっとだけ小さい子に回し、それを親が切なそうに見守る。
玄関先で、年配の獣人が笑いながら言った。
「去年の冬は誰も倒れなかったからな。いい年だったよ」
「一昨年も一人で済んだしな。昔に比べりゃ、ましなもんだ」
“倒れた”の意味は、聞かなくても分かる 。 餓死だ。
(死者の数を、出来不出来みたいに数えるのが、この世界の現実なんだな……)
胸の奥が、じわじわざらついた。
畑の広さに対して、口の数が多すぎる。 少し雪解けが遅れたり、少し病が流行ったりするだけで、誰かが“死ぬ側”に回る構造 。
(根性じゃない。やり方そのものを変えないと……)
「トモヤ」
振り向くと、カゴを抱えたリュミアが立っていた。
「森のはずれ。木の実、取りに行く。行ける?」
「行こう。俺も見たい」
「……うん。フォレスト・ウルフ、出ないといいけど」
軽く言う彼女の耳は、最初から警戒の形にぴんと立っていた 。
2. どんぐりの雨と、森の刃
森は、湿った土と枯れ葉の匂いがした。
足元には、ころころと無数の実が転がっている。
「……どんぐり、すごい量だな」
リュミアが一つ拾い上げ、指先で転がした。
「どんぐり……基本、家畜の餌。人が食べるのは……他に何もなくて、年を越せない時だけ」
「やっぱり、そういう扱いなんだな」
「アク、強い。そのままだと苦い。思い出したくない味、って言う」
彼女は眉をひそめた 。
(アク抜きが面倒。水も手間もいる) (でも逆に言えば、設備さえあれば、これは“空から降ってくる炭水化物”だ)
俺は布の小袋を取り出し、どんぐりを拾い始めた 。 泥で指先が黒くなるのも気にしない。 これは、村の誰一人としてまともに数えていない「潜在的な食料」だ 。
(これ、うまく回れば――「ちょっと悪い年」で誰かが死ぬ連鎖を、切れるかもしれない)
「とりあえず、これだけ持って帰る。実験してみたいんだ」
「へえ。……あの味を“実験”する気になれるの、すごいと思う」
半分あきれたようなリュミアの目に、少しだけ期待の光が混ざった 。
その瞬間。 彼女の耳が、鋭く跳ねた 。
「……来てる」
「え?」
「匂い。フォレスト・ウルフ」
リュミアは俺の腕を引き、太い幹の裏へ押し込んだ 。
茂みの向こうから、低い唸り声。 黄土色の毛並みをした、大型犬より一回り大きな狼が一匹 。
リュミアは影へ滑るように移動した。 猫のように低く、静かに。
小石を拾い、手首だけで鋭く投げる。
カン、と乾いた音が響き、狼の注意が逸れた。
その隙に、彼女は短槍を構える 。 足は斜め。腰は落ちて、上体だけが軽い。
(……強い。戦士としての姿勢が、完成してる)
狼が跳んだ。 空気が裂ける音がする。
リュミアは半身だけずらしてそれを避けると、槍先を“置く”ように突き出した 。
ずぷ、と嫌な感触。 狼が悲鳴を上げ、着地が乱れる。
だが、安堵する間もなかった。 獣臭が、一気に濃くなる。
茂みが二つ、三つと揺れた。
「……増えた。群れだ」
リュミアの声が低くなった 。
3. 泥のぬくもり、透ける境界
リュミアが俺の手を掴んだ。 指が絡むくらい、強く 。
「走れる?」
「……走る!」
枯れ葉を蹴り、泥を噛んで走る 。 背後で爪が土を削る音が、すぐ近くまで迫っていた。
「こっち!」
倒木を越え、枝を潜り抜ける。
湿地に足を取られた。 泥がずるりと、俺の足を引っ張る 。
「待って。足元、危ない……!」
次の瞬間、リュミアの両腕が俺の腰を引き上げた 。 体が密着し、布越しの熱が肌に刺さる。
逃走の汗と森の湿気で、彼女の薄い麻の服が、肩から脇腹の線をくっきりと拾い上げていた。 汗で張り付き、白く透けかけた生地の向こうに、しなやかな肌の質感が透けて見える 。
(……見るな。今は、生きることを考えろ)
俺は泥から足を抜き、再び走り出す。
リュミアが立ち止まり、槍を水平に構えた 。 先頭の一匹を槍で牽制するが、群れは止まらない。 横、後ろ、前。数が違いすぎる。
俺は必死で周囲の地形を探した。 雨で削れた、深い溝。
(……あそこだ。狭い。あそこなら、一箇所にまとめられる)
「斜面の下の溝だ! あそこに誘導しよう!」
リュミアが頷き、俺たちは斜面へ飛び込んだ 。
4. 牙よりも深い飢え
溝の入り口は狭い。 左右の土壁が迫り、狼たちの逃げ幅が消える。
「ここだ!」
俺は枝束を蹴り集め、石を二つ転がして、踏めば滑る“罠もどき”を即座に作った 。
先頭の狼が踏み込む。 枝が滑り、足が流れる。 後続がそれにぶつかり、速度が落ちた。
だが、それでも押し切られそうになる。
その瞬間。 リュミアが指先を水面に向けた 。
「水よ……」
魔法が、糸のように走る 。 溝の底に薄い水の膜が広がり、泥が一気にヌルつく。
狼たちが次々と滑り、折り重なって転倒した 。
「今だ!」
俺はリュミアの手を引き、溝の横の斜面を這い上がった 。 倒木の裏へ転がり込み、二人で息を殺す。
喉が焼けるように痛い。 でも、生きていた。
リュミアが、泥のついた顔で小さく笑った。
「……トモヤ。追い払えた、ね」
「ああ。あれで十分だ」
殺せば、その血の匂いでさらに他の獣を呼び寄せるだけだ 。
俺は震える指で、どんぐりの袋を確かめた。 ずっしりとした重みが、そこにあった 。
(俺は、魔法も戦う力もないかもしれない) (でも、やることは決まってる)
その夜。 俺は土間に座り、どんぐりを一つ握りしめた。
森の牙は、確かに怖い。 でも、声もなく村を侵食する“飢え”は、それよりもずっと恐ろしい 。
「……あいつらの牙より先に、村の腹を満たしてやる」
そう呟いて、俺は暗い天井を見上げた。
外では、冷たい夜の森が、静かに息をしていた 。




