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第82話【コモンス王国⑦】《王都の算盤、軍師の書斎》


王都コモンスの夜は、静寂に包まれているようでいて、その実、無数の「計算」が蠢いている。 特に、王宮の一角にある「戦略局」の窓から漏れる灯火は、夜が更けるほどにその輝きを増していた。そこは前線の騎士たちが剣を振るう場所ではない。羽ペンと算盤、そして冷徹な数字が、国家の寿命を削り、あるいは繋ぎ止めるための戦場だった。


ーーーーーー


1. 円卓の喧騒:数字と仮定の応酬


「十万はあり得ん! これ以上の大軍を動かせば、奴ら、来秋の収穫期に致命的な人手不足を招く。連中の狙いは、次も西方での五万だ!」


「甘いな、西方担当官。アイゼル砦での五千壊滅は、帝国軍部にとって単なる敗北ではない。『恥』だ。あの傲慢な連中が、『耳付き』や『毛玉野郎』と蔑視しつづけた我々の奇策に屈したまま引き下がると思うか? 次は十万だ。十万の圧倒的物量で、我々の防衛線を『面』で押し潰しに来る!」


円卓を囲んでいるのは、鎧を纏わぬ戦士たち――戦略局の各戦線担当官たちだ。 彼らの手元には、前線から届いた膨大な報告書と、使い古された算盤(アバカス)がある。パチパチという乾いた音が、怒号の合間に響く。


中央の巨大な地図の上には、赤(帝国)と青(王国)の木駒が乱雑に置かれていた。 青の駒は、広大な国境線に対してあまりに頼りなく、数も少ない。


「兵站の限界を考えろ。十万の兵を動かすのに、一日にどれだけの穀物が必要だと思っている? 」


「だからこそアイゼルだったんだろう! だがそこを塞がれた。ならば帝国は、力技で『道』を広げてでも来る。奴らにはそれを可能にするだけの兵と、工兵の数がある」


議論は一向に出口を見出せない。 担当官たちは、自分たちの予測が外れた瞬間に、数万の同胞が死に追いやられることを知っている。その重圧が、彼らの言葉を鋭く、攻撃的にさせていた。




2. 西方:十万の「飽和攻撃」シナリオ


「静粛に」


低く、だが室内を支配するような声が響いた。 西方担当官の長が、震える手で一つの木札を地図の最西端、カナク将軍が守る砦の付近に叩きつける。


「最悪のシナリオを提示する。帝国が、これまでの『様子見』を捨て、全力での強行突破を選択した場合だ」


彼は地図の上に、赤い駒をこれでもかというほど並べていく。


「まず、カナク閣下の守る第一防壁に対し、三万の重装歩兵を投入。これは落とすための攻撃ではない。閣下の主力を砦に完全に釘付けにするための『封鎖』だ。そして――」


担当官の手が、残りの赤い駒を扇状に広げる。


「残る七万を、一万規模の機動部隊に細分化する。これらを西方の全拠点、小さな関所や砦に至るまで、同時に叩かせる。……『飽和攻撃』だ」


室内が凍りついた。 それは、王国軍が最も恐れていた戦術だった。


「我が国の騎士団は精鋭だが、数が足りない。一箇所の救援には向かえても、七箇所同時に火の手が上がれば、全てをカバーできない。援軍が機能しなくなるのだ。帝国は、我々が最も手薄な一箇所を食い破るだけでいい。そこから雪崩のように王都へ向かうだろう」


「数の暴力……。騎士道も何もない、ただの算数ではないか」


誰かが力なく呟いた。だが、それこそが帝国の本質だった。




3. 東方と中央:静かなる「仕組み」の恐怖


議論の焦点が、地図の反対側、東方へと移る。 中央の湿地帯については、造船や木材集積の兆候がないことから「大規模侵攻の可能性は低い」と、半ば希望的観測を込めて切り捨てられた。


そこで立ち上がったのは、戦略局特使ヒルダ・キャンベルだった。彼女の視線は、父であり軍師であるキャンベル卿に向けられ、それから地図へと落ちた。


「東方、アイゼル砦について報告を継続します」


彼女の声は、男たちの怒号に比べて驚くほど冷静だった。


「アイゼル砦の正面戦において、帝国が投入できるのは最大で二万規模。あの隘路あいろの地形を考えれば、それ以上の力押しはかえって彼らの動きを鈍らせます。……そして今のアイゼルには、フィアレルの知恵者が築いた『ことわり』がある。適切な援軍さえあれば、二万の正面突破は跳ね返せると確信しています」


「だが、ヒルダ特使」


一人の担当官が口を挟む。


「アイゼルは落とせぬかもしれんが、帝国がアイゼルを『避ける』としたらどうだ?」


ヒルダは頷き、細い指でアイゼル砦の背後に連なる、険しい山脈の稜線をなぞった。


「それこそが、私の真の懸念です。……高山の細い急斜面を迂回し、アイゼルの背後を突く隠密行軍。通常、このルートは兵站の維持が不可能なため、進軍ルートからは除外されてきました。険しい山道では、馬車も通れず、人力での搬送は雪解けの泥に阻まれる。……ですが」


彼女は、懐から一つの小さな物体を取り出し、円卓に置いた。 カラン、と乾いた音がして転がったのは、見慣れた鉄のボルト。だが、その表面は滑らかで、溝の刻みは驚くほど正確だった。


「もし帝国が、フィアレルの知恵者のように、根性や魔法ではなく『仕組み(システム)』で物資を運ぶ術を見出していたら? 軽量化された規格台車、雪上での摩擦を計算したソリ、あるいは――」


ヒルダの瞳に、アイゼルで見たあの若き技術者の背中が浮かぶ。


「――隘路すら補給路に変える、物流の規格化。それに気づいた時、帝国軍は我々の想像を絶する速度で背後に現れるでしょう」




4. 軍師キャンベルの自問:王都こそが獲物


円卓の末席。 軍師キャンベルは、組んだ指の上に顎を乗せ、深い思考の海に沈んでいた。 担当官たちの議論は、もはや背景の雑音に過ぎない。彼の頭の中では、帝国の参謀たちが弾いているであろう算盤と同じ音が響いていた。


(……私が帝国側なら、どうリソースを配分する?)


キャンベルは自問する。 東方のアイゼル。確かにそこは喉元に突き刺さった棘だ。だが、そこを抜くために二万を費やし、険しい山脈を越えて王都を目指すのは、あまりに効率が悪い。


(山を越えても兵は疲弊する。補給線は細く長く伸び、そこを叩かれれば全滅だ。……プロの戦略家なら、そんな博打は打たない)


彼の視線は、自然と地図の左側、平地が広がる西方へと吸い寄せられた。


(やはり、西方だ。平地を突き、一気に王都を落とせばこの国は終わる。西の方が、兵站も遥かに維持しやすい。帝国が本気なら、狙いはここだ)


だが、問題はその先にある。 十万の飽和攻撃。それをされれば消耗戦となり、生産力の低い王国は、例え一戦一戦で勝利しても、国力そのものが尽きて崩壊する。


(戦略だけでは足りない。兵站、そして生産力……。我々には、何が欠けている?)


キャンベルは、卓上で転がるボルトをそっと手に取った。 アイゼル砦を作り替えた、あの若き知恵者の影が、鉄の表面に反射している。


(高瀬智也……。フィアレルの知恵者ならば、この『十万』という絶望的な数字を、どう計算して対策を練るだろうか?)


キャンベルの脳裏に、ヒルダから報告された「規格化」という言葉が浮かぶ。 一本のネジ、一個の部品。それを「誰でも、どこでも」交換できるようにするだけで、軍隊という名の機械は、どれほど効率的に回転し始めるだろうか。


(実に……美しい解答を出す男だ)


キャンベルは、今すぐその若者に会ってみたくなった。 彼が持つ「工学」という名の算盤が、この国の袋小路をどう切り拓くのか。それを見届けたいという衝動が、彼の胸を叩いていた。




5. キャンベル邸:親子が守る「知恵の苗」


軍議が解散し、夜風が吹き抜ける頃。 キャンベルは自宅の書斎で、娘ヒルダと向き合っていた。 部屋には古い兵法書が並んでいるが、今、机の上に広げられているのは、智也がフィアレルで描き上げたという「排水ポンプ」の図面の写しだった。


「お父様。……今日の軍議、お父様は一度も発言されませんでしたね」


ヒルダが静かに茶を差し出す。キャンベルは図面から目を上げ、愛おしげにボルトを転がした。


「議論することなど、もう何もないからだ。来夏の十万……これを今の王国軍が真正面から受ければ、三月みつきも持たずに崩壊する。それは算盤を弾くまでもない現実だ」


「では……やはり彼を。トモヤ殿を、王都へお呼びするべきでしょうか」


ヒルダの問いに、キャンベルは少しの間を置いてから、深く頷いた。 これまでの「時期尚早」という迷いは、もはや消えていた。


「ああ。招こう。……今日、あの円卓で必死に数字を弾いていた担当官たちを見たか? 彼らは皆、善良で、誠実だ。国を愛し、己の職務を全うしようと必死に足掻あがいている。だが、彼らの算盤には、もう『正解』が残っていないのだ」


キャンベルは、智也の図面の隅に書かれた小さな計算式を指でなぞった。


「彼らのような善良な人々が、絶望の中で摩耗していくのは見るに耐えん。……ヒルダ、トモヤ殿は単なる兵器の製作者ではない。国家という巨大な機械の、壊れた歯車を一つずつ『正しい形』に作り替え、皆に希望の回し方を教える修理工なのだ」


キャンベルの瞳には、かつての自分にはなかった、新しい時代への高揚感が宿っていた。


「私はあきらめてなどいない。それどころか、今ほどこの国の未来に期待したことはないよ。……彼のような異物の知恵を、今の王国は必要としている。彼が描く一本の線が、担当官たちの絶望を『仕組み』という名の武器に変えてくれるはずだ」


「……智也殿が知れば、『また面倒なことを押し付けられた』と顔をしかめるでしょうね。でも、きっと最後には『やるか』と笑ってくださるはずです」


ヒルダが、誇らしげに、そして少しだけ悪戯っぽく微笑む。 その笑顔を見て、キャンベルもまた、深く椅子に身を沈めた。


「それでいい。英雄になりたがらない男こそが、最も確実な仕事を成し遂げる。……アイゼルを造り替えたあの知謀。そして、この一本のボルト。これこそが、王国が未来へ繋がるための唯一の鍵だ」


キャンベルは筆を執り、紙に向かった。 それは命令書ではない。一人の「算盤を弾く者」から、未来を託すべき「設計図を引く者」への、切実なる招待状だった。


「明日、ヴァレリア様へ内命ないめいを乞う。……彼を、この王都へ。王国の未来を、共に描き直すために」


卓上のボルトが、ランプの光を反射して鋭く輝いた。 それは、来たるべき十万の軍勢を迎え撃つための、王国で最も鋭い「論理の刃」だった。

【読者の皆様へ】

最後まで読んでいただき、心より感謝申し上げます。

日常の忙しさの中で、数分でもこのファンタジーの世界を楽しんでいただき、現実から離れてリラックスできる一助となれば幸いです。


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