第75話《スノウィ村の長い夜、リュミアの誓い》
1. 黒油の道の先にある「呼吸」
馬車の車輪が、滑らかに回転を刻む。 アイゼル砦から領都フィアレルへの帰還中、物資調達と休息を兼ねて一年ぶりにスノウィ村へ立ち寄った。懐かしの山道。 鼻先をくすぐるのは、冷たい山の空気と――微かな「黒油(重油)」の匂いだ。
「……あ」
隣に座るリュミアが、小さく声を上げた。 灰色の猫耳がぴんと立ち、驚きに震えている。 俺も窓から身を乗り出した。
(……舗装が、伸びている)
かつて俺が村の入り口に数メートルだけ試験的に敷いた「全天候型舗装路」。 それが今や、村の防衛柵の遥か手前まで、真っ黒な帯となって力強く延伸されていた。 路面には「溝」が掘られ、水はけを考慮した絶妙な「勾配」がついている。
「トモヤ……。これ、村のみんなが、自分たちでやったんだね」
「……ああ。手順を教えたとはいえ、ここまで綺麗に仕上げるとはな」
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。 エンジニアが一番嬉しいのは、設計図が完成した時じゃない。 自分の手を離れた「仕組み」が、現場の人々の手で勝手に成長し、愛されているのを見た時だ。
2. 視界を埋める「未知の豊穣」
村の入り口を抜けた瞬間、俺たちはさらなる衝撃に包まれた。
かつては「冬を越せるかどうか」の瀬戸際で、必死に三割の拡張を目指していた畑。 そこには今、かつての倍に及ぶ広大な「黄金の海」が広がっていた。 だが、驚いたのはその面積だけじゃない。
「智也殿……あの緑の壁は、一体なんですの?」
ラナが窓の外を指さす。 小麦の黄金色の合間に、人の背丈ほどもある「緑の槍」が整然と並んでいた。 トウモロコシだ。 そしてその足元には、力強く葉を広げるジャガイモの山。
(……輪作が、完全に機能している)
小麦、豆類、そして俺が持ち込んだ新種の芋とトウモロコシ。 それらが俺の教えた「三圃式農業」の枠を超え、この土地独自の最適解として組み上げられていた。 土は黒く、よく肥えている。 そこには「堆肥管理」という地道なクラフトが、村の『伝統』として根付いた証拠が刻まれていた。
3. 灰色の耳が震える時
馬車が止まると、村中から人々が駆け寄ってきた。
「おかえりなさい! 智也さん!」 「リュミアちゃん、元気だったかい!?」
賑やかな声の中、一際足取りの早い一人の女性がいた。 リュミアの母親だ。 かつて肺炎の後遺症で、呼吸のたびに胸を苦しませていた面影は、もうどこにもない。 彼女は今や村の「衛生管理」のリーダーとして、ハキハキと皆に指示を飛ばしている。
「トモヤ……。お母さん、あんなに元気に……」
リュミアの瞳に涙が浮かぶ。 俺はそっと彼女の隣に立った。
・・・・・
広場には、既に巨大な焚き火が用意されていた。 族長が、威厳に満ちた足取りで前に出る。
「みんな。よくぞ戻った。アイゼル砦での活躍、そして救国の知恵……我がスノウィ村の誇りだ」
族長は一度深く頷き、周囲の村人を見渡した。
「今宵は収穫を祝い、英雄たちの凱旋を祝う! 懸念は不要だ、蔵には智也のくれた知恵で蓄えた『黄金』が溢れている。……。皆、宴の準備だ!」
族長の力強い宣言に、村中が歓声で揺れた。 彼は俺の隣に歩み寄ると、小さな声で付け加えた。
「お前の知恵は、この村の『根』を強くした。……礼を言うぞ、智也」
俺は深々と頭を下げた。 「……ありがとうございます。でも、この景色を作ったのは、村の皆さんの努力です」
夕暮れに染まるスノウィ村。 そこには、俺が去った時よりもずっと強く、温かい文明の灯が灯っていた。
4. 命のジャガイモ、黄金のトウモロコシ
宴の席に、出来立ての料理が並ぶ。 大皿の上には、湯気を上げる丸ごとのジャガイモと、香ばしく焼かれたトウモロコシ。
「智也さん、見て。この芋、本当に凄いのよ」
リュミアの母が、一つのジャガイモを割って見せた。 ホクホクとした断面から、甘い匂いが立ち上る。
「でも、トモヤさんが残してくれた『木札』の教えは、全員で守っています。芽が出たところは決して食べない、緑色の皮は削る。……子供たちにも、これは『命を守る約束』だと教えているわ」
(……知識の継承。これが最大のインフラだ)
ジャガイモの芽という毒の知識。 それが迷信ではなく、工学的な「安全管理」として定着していることに、俺は深く安堵した。 一口かじったトウモロコシは、驚くほど甘い。 アイゼル砦での鉄と血の臭いに満ちた日々が、その一口で遠ざかっていく。
5. 湯気の向こうの「家族」
宴の喧騒を離れ、俺たちは一年ぶりに、あの懐かしいリュミアの家へと戻ってきた。 室内には、かつて俺が設計した「無煙竈」が静かに熱を湛えている。 以前のような、目に染みる煙も、重苦しい空気の淀みもない。
「……ふぅ。やっぱり、ここが一番落ち着くね」
リュミアが、大きな木皿を抱えて土間に座った。 皿の上には、先ほどお母さんが割ってくれたジャガイモと、黄金色のトウモロコシ。 俺も隣に腰を下ろすと、お母さんが手慣れた手つきでハーブティーを淹れてくれた。
「智也さん、リュミア。今日はゆっくり食べて、疲れを癒してちょうだい」
お母さんの声は、驚くほど澄んでいた。 かつての、絞り出すような咳は一度も聞こえない。
(……ああ。守りたかったのは、この時間だったんだな)
俺はジャガイモに、ほんの少しの塩と家畜の脂を乗せて口に運んだ。 ホクホクとした食感と共に、大地の力が身体に染み渡る。 続いてかじりついたトウモロコシは、噛むたびに甘い汁が弾け、脳を「平和」という名の快楽で満たしていった。
「トモヤ、そんなに夢中で食べなくても、逃げないよ?」
リュミアが、口元に粒をつけながらくすくすと笑う。 俺はその様子を眺めながら、不意に、アイゼル砦で見たあの凄惨な光景を思い出した。 鉄と血の臭い。崩落する攻城塔。絶叫。
それらが、この一本のトウモロコシの甘さによって、遠い過去の出来事のように塗り替えられていく。 工学が産み出した「豊かさ」は、腹を満たすだけでなく、人の心をも修復する力があるのかもしれない。
6. 湯気の消えた後の熱
「さて、智也さん、リュミア。夜も更けたわ。そろそろ寝ましょうか」
「あ、はい。そうですね。……俺は、以前からのお父さんの部屋へ――」
俺が立ち上がろうとすると、お母さんはそれを手制止するように、ふわりと微笑んだ。 だが、その瞳の奥には、村のリーダー格らしい「有無を言わせない意志」が宿っている。
「リュミア。あなたのベッドはそちらに用意しておいたから、ね」
「えっ? あ、でも……」
「いいから。アイゼル砦の疲れも残っているでしょう? さあ、行った行った」
ど強引。文字通り、背中を押し切られる形になった。 俺とリュミアは顔を見合わせ、戸惑いながらも案内された奥の部屋へと足を踏み入れた。
部屋に入った瞬間、俺は自分の視覚情報を疑った。
「…………これ」
「……う、うそ」
リュミアの耳が、見たこともない角度でぴくりと震える。 綺麗に掃き清められた板床の上には、二つ分の『新調された藁の寝床』が並べられていた。 いや、「並んでいる」のではない。 それはまるで一枚の大きな布のように、隙間なく、完璧に密着して敷き詰められていた。
「さあ、疲れたでしょ。横になって。おやすみなさい」
入り口でお母さんがランプの芯を落とす。 暗闇が部屋を満たし、有無を言わさない流れるような段取りに、俺たちは為すすべがなかった。
(……この包囲網、完璧すぎる。設計図があったとしても、これほど隙のない配置はできないぞ)
俺とリュミアは、磁石に吸い寄せられる鉄片のように、促されるままその「至近距離の寝床」へ潜り込むしかなかった。
7. 暗闇の中の鼓動
鼻先をくすぐるのは、新調された藁の香ばしい、どこか懐かしい匂い。 そして、すぐ隣から漂うリュミアの体温。 彼女が使っているのは、一年前に俺がクラフトした『石鹸』の、あの清涼な香りだ。
(……近すぎる。呼吸の音まで、すぐ隣にある)
暗闇の中、リュミアの呼吸が、調整の狂った機械のピストンのように不規則に聞こえてくる。 俺もまた、自分の心臓の音がうるさすぎて、寝返りを打つことすらできない。 全身の神経が、わずか数センチ隣にある「彼女」に集中してしまっていた。
「……トモヤ」
蚊の泣くような声だった。 布団の中で、何かが俺の右手に触れた。
「っ……!」
熱い。 火傷しそうなほど熱い、彼女の指先だ。 その細い指が、迷いながらも、俺の掌を一本ずつ探り、絡めるようにして強く握りしめてきた。
「……トモヤ。私、本当に決めてるから....出会ったころから...」
リュミアの声は、震えていた。 最後の方はあまりに小さすぎて、窓の外を吹き抜ける秋の風にかき消された。
(……何を、決めているんだ)
彼女の掌から伝わってくる、言葉にできない重い「想い」だけが、俺の心臓をさらに激しく叩いた。
重なり合う二人の影が、窓から差し込む淡い月明かりの下で一つに溶けていく。 繋いだ指先から伝わる彼女の震えが、俺に一つの「真実」を突きつけていた。
(……この村の平和。そして、隣で震えている彼女の肩。……絶対に、壊させない。帝国にも、誰にもだ)
エンジニアとしての冷徹な計算ではない。 一人の男としての、泥臭いまでの決意が胸の奥で燃え上がる。
俺は、繋いだ手を離さないよう意識しながら、天井の向こうの夜空を仰ぎ見た。 そこには、明日からまた始まる救国改革の、過酷な道筋が星々の瞬きのように描かれていた。
ふと視線を外に向けると、俺が作った無煙竈の煙突から、一筋の白い煙が真っ直ぐに昇っていくのが見えた。
スノウィ村の夜は、これまでになく静かで、そして。 何よりも、温かかった。
【読者の皆様へ】
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日常の忙しさの中で、数分でもこのファンタジーの世界を楽しんでいただき、現実から離れてリラックスできる一助となれば幸いです。
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