第73話【コモンス王国⑤】《第2次ルーン大河防衛戦②》
1. 血に染まった一週間
ルーン大河を真っ赤に染めた夕陽は沈み、夜の帳が西方戦線を重苦しく包み込んでいた。だが、そこに静寂はない。対岸から響き渡る五万の軍勢の足音と、絶え間なく続く渡河の喧騒。ラグナ帝国軍の「本気」は、夜の闇すらも熱気と殺意で塗りつぶそうとしていた。
「将軍、帝国軍の中州の第二波、渡河を完了しました! 敵先鋒、陣地へ取り付きます!」
副官の叫びに、俺――カナクは自慢の美髯を荒っぽく扱いた。 夏の夜風は湿り気を帯び、血と脂の臭いを鼻腔の奥まで運んでくる。この三百メートル地点の土塁で、俺たちは一週間持ちこたえた。泥を啜り、飛来する巨石を睨みつけ、押し寄せる帝国の波を何度も押し返した。 この一週間で、帝国の先遣隊には甚大な損害を与えたはずだ。だが、五万という「数」の前では、それすらも表面を撫でた程度の傷にしか見えない。
「……計算通りだ。野郎ども、頃合いだぞ! 全軍、次の舞台へ移るぞ!」
俺の号令と共に、一週間守り抜いた土塁を、俺たちは「放棄」した。 それは決して壊滅的な敗走ではない。軍師キャンベルから事前に届いていた指示書に基づく「計画的撤退」だ。俺たちは、追ってくる帝国兵にわざと背中を見せ、砦へと続く緩斜面を駆け上がる。
「背中を見せるんじゃねえ! 獲物を誘い込むツラをして引けッ!」
俺は殿を務めながら、足元に「仕掛け」を施させた。 撤退の足跡に撒かれたのは、フィアレル領から届いた大量の「まきびし」だ。それは王国各地から集められた鉄の廃材を叩き出し、鋭い四方の棘に加工したものだった。
「ぎゃああああっ!」 「足が! 鋼が突き刺さった!」
闇夜に乗じて追撃してきた帝国の軽歩兵たちが、地面に潜む鋼の牙を踏み抜き、次々と転倒していく。 「(……フン。フィアレルの工房からの手紙にあった『廃材利用』ってのも、悪くねえな)」 奇妙だが合理的な発想に、心の内で一瞥をくれた。
2. 獣人の「肉体」×鋼の「交換」
俺たちは砦の門前、防衛の要所となる広場まで後退した。帝国軍の精鋭が、俺たちの後退を好機と見て、一気に殺到してきた。
「野郎ども! 牙を剥け! ここからは『仕組み』の出番だ!」
俺の咆哮と共に、砦の石壁から無数のクロスボウが唸りを上げた。 放たれたボルトの穂先は、すべて『メギド鋼』で統一されている。これまでの安物の矢とは貫通力が違った。唸りを上げて飛来する黒い雨は、帝国の軽歩兵はおろか、重装歩兵の厚い盾すらも貫き、その後ろの肉を抉り取っていく。
「――ガツンッ!」 鈍い衝撃が俺の肩を叩く。帝国兵の弓が、俺の胸部装甲を貫こうとしたのだ。 だが、ひしゃげたのは俺の肋骨ではない。『モジュラーアーマー』の装甲板だった。
「将軍、一歩下がってください!」
後ろから伸びてきたのは、剣を持つ手ではなく、工具を握った工兵の手だ。
「……治りました。次はお気をつけて!」 「おうっ、助かるぜ!」
俺は再び、新品同然の防御力を手に入れ、敵の真っ只中へと踏み込んだ。 さらには頃合いを見計らい、砦の横から編成した王国の別部隊が側面を突く。
攪乱され、消耗する帝国兵。 帝国兵から見れば、何度斬りつけても、数瞬後には傷一つない装備を纏って戻ってくる獣人たちは、死を忘れた亡霊のように見えたに違いない。
3. キャンベルの智謀:『地を喰らう顎』
白兵戦が激化し、帝国の密集陣形が砦の広場を埋め尽くそうとしたその時。 砦の楼閣に立つ弓隊長が、俺と視線を合わせた。軍師キャンベルの冷徹なまでの策略は、あらかじめ俺たちの脳内に叩き込まれていた。
「……そろそろだな」 俺がニヤリと笑う。 「全弓兵、準備! 誘導を確認せよ!」 弓隊長が叫ぶ。
帝国軍が俺たちの「粘り」を崩そうと、さらに兵を殺到させる。 俺たちが「特定の踏み分け道」として事前に教え込まれていた細いライン以外、その下の土壌はあらかじめ空洞にされていた。キャンベルが、地中の支えをギリギリまで抜かせ、薄い木の板と土だけで蓋をさせていた巨大な落とし穴だ。
「な、なんだ!? 地面が――」
幾多の重装歩兵の重みに耐えかねた大地が、文字通り顎を開いた。 地鳴りと共に、地盤が沈下する。 深さ一メートル、底には鋭利な杭が並ぶ暗黒の溝へと、帝国の重装歩兵たちが雪崩を打って転落していく。 「敵の数は確かに多い。だが、ならば地面に食わせて時間を稼ぐのが最善」 キャンベルの指示書にあった乾いた論理を思い出し、俺は感心する。 折り重なるように落ちる兵士たちの重みで、さらに地盤沈下は広がり、帝国の進軍速度は物理的に停止した。
「――今だ、放てッ!」
楼閣から弓隊長の鋭い号令が飛ぶ。 身動きの取れなくなった帝国兵は、もはや防ぐ術を持たない無防備な「的」に過ぎなかった。 砦の狭間から、メギド鋼の穂先を備えたクロスボウのボルトが黒い雨となって降り注ぐ。 逃げ場のない穴の中で、鋼の雨は容赦なく帝国兵を屠っていった。 盾を貫き、兜を割り、密集した死の罠の中で帝国兵の血が泥を赤く染め上げていく。 それはもはや戦闘ではなく、冷徹なまでの「処理」だった。
4. 『煙の壁』と獣人の跳躍
だが、帝国も黙ってはいない。 混乱した後方から、再び巨大な投石器二体が前進してきた。一週間前の教訓を活かしたのか、投射アームの精度が上がっている。
「巨石、来ます! 防壁への直撃を避けてください!」
「わかってる! ……キャンベルの旦那の手紙にあった、例の『目隠し』をやるぞ!」
俺の合図で、砦の各所から不気味な煙が上がった。 それは信号弾ではない。大量の濡れた草と、智也が『煙幕として使える』とキャンベルへの手紙に記していた鉱物の粉末を混ぜ合わせ、焼き上げたものだ。 風に乗った煙は、砦と帝国の間に真っ黒なカーテンを作り出した。
「何だ、この煙は!? 前が見えん!」 「投石器の照準が合わない! どこを狙えばいい!」
煙に視界を遮られた投石器から放たれた巨石は、明後日の方向へと飛んでいき、味方の歩兵を押し潰す。 その煙の向こう側を、俺は一気に駆け抜けた。
俺は獣人特有の強靭な脚力で、砦の壁から崩落した土塁へと飛び降りた。 手にしたメギド鋼の規格槍を、支柱のように地面に突き立てる。しなり、そして爆発的な反発力を生む鋼の芯。 俺はその反動を利用し、棒高跳びのような軌道で帝国の盾の列を大きく飛び越え、投石器の懐へと飛び込んだ。
「燃えろぉっ!」
獣人の剛力を込めた火炎瓶が、投石器の心臓部を叩き割る。 油を塗り込まれた巨大な兵器が、爆発的な勢いで炎上した。俺は燃え盛る投石器から再び跳躍し、煙に紛れて味方の陣地へと帰還する。
5. 残響する軍靴と、閉ざされた門
夜が明ける頃。 甚大な損害を被った帝国軍は、一度ルーン大河の対岸へと兵を退いていった。 戦場には、ひっくり返った小舟と、陥没した大地に埋まった無数の死体、そして黒焦げになった投石器の残骸が、無残な光景を晒している。
「……閉めろ! 門を完全に閉ざせッ!」
俺の指示で、ひしゃげた、しかし貫かれなかった重厚な門が「ズゥゥゥン」と重苦しい音を立てて閉まった。
砦の外壁は投石で削られ、あちこちから黒い煙が立ち昇っている。 だが、その壁の陰で休む兵士たちの士気は、かつてないほどに高かった。
「……見たか。数がありゃ勝てるって時代は、今日終わったんだよ」
俺は、返り血で汚れた美髯を拭い、荒い息を吐きながら笑った。 砦の廊下では、兵士たちが自分の鎧の装甲をカチカチと嵌め直し、槍を研ぎ、次の戦いに備えている。
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