第72話【コモンス王国④】《第2次ルーン大河防衛戦①》
1. 牙を剥く大河、五万の残響
夏の湿った熱気が、西方『灰色の牙』砦を包み込んでいた。 ルーン大河から吹き付ける風は、涼を運ぶどころか、泥の匂いと鉄錆、そしてこれから始まる流血の予感を孕んで重く沈んでいる。
砦の天守。俺――カナクは、手摺りに置いた拳を強く握りしめた。 その視線の先、対岸を埋め尽くしていたのは、ラグナ帝国の黒い軍勢だった。
その数、およそ五万。 前回は散発的な渡河を繰り返すだけだった帝国軍だが、今回は明らかに士気が違う。 整然と掲げられた漆黒の軍旗が風に踊り、腹の底まで響くほど力強く打ち鳴らされる行軍の太鼓。 その音は、今日この地を蹂躙し、王国の喉元を食い破るという、揺るぎない確信に満ちていた。
「……五万、か。相変わらず、数だけは揃えてきやがる」
俺は自慢の美髯を一撫でした。 鋼のように硬く、見事に手入れされたこの髭は、俺が歩んできた戦士としての誇りだ。
俺、カナクは今年で三十五になる。 ここ『灰色の牙』砦があるシチリー領の、名もなき村の平民出身だ。
シチリー領は王国でも指折りの大穀倉地帯だが、その南端にある俺の故郷は、帝国との国境であるルーン大河に近すぎた。 幼い頃から、聞かされてきたのは帝国の恐ろしさだ。 あちら側の人間どもが、獣人や亜人をどれほど蔑んでいるか。 略奪、放火、そして「家畜」のように扱われる同胞たちの悲鳴。
(……あいつらに、二度と故郷の土は踏ませねえ)
守る力が欲しくて、ただがむしゃらに剣を振り、軍に入った。 盗賊退治から始まり、森を荒らす大型モンスターの討伐。 泥にまみれて戦績を積み上げ、気づけばこの髭を称えられるほどの将軍にまで上り詰めた。
「カナク将軍! スラン領からの五千、配置完了。我が領兵一万と合わせ、計一万五千、準備万端です!」
副官の報告に、俺は短く鼻を鳴らした。 五万対一万五千。 数倍の兵力差。まともにぶつかれば、王国軍は巨大な石臼に放り込まれた小麦のように粉々に挽き潰されるだろう。
だが、俺たちの瞳に絶望はない。 俺たちの手には、異世界の知恵者がもたらした「新しい力」が握られているのだから。
「報告! 帝国軍、渡河を開始! 夥しい数の小舟がこちらへ向かってきます!」
合図とともに、対岸の岸辺から無数の影が水面に滑り出した。 魔導師の術による「道」などという小細工ではない。 ただひたすらに資材を投じ、数千の舟を連ねて強引に距離を詰めてくる。 数という名の物理量で圧倒せんとする帝国の意志が、水面を埋め尽くす舟の列となって迫っていた。
「野郎ども、計算通りの場所だ。……喉元に食らいつくぞ!」
俺の咆哮が、砦の壁を震わせた。
2. 鋼の革命、金属の嵌合音
「今だ! 吐き出せッ! 奴らを一歩も土に上げさせるな!」
俺の合図と共に、堤防の陰に潜伏させていた王国軍が一斉に躍り出た。 急襲を受けた帝国兵の驚愕の悲鳴が、ルーン大河のせせらぎを掻き消す。 本来、これほどの兵力差を相手に、防御を捨てて突撃するのは正気の沙汰ではない。 だが、今の俺たちには「折れぬ牙」がある。
「――っ、この槍……すげぇ、折れねえぞ!」
最前線で槍を振るう王国の獣人兵が、歓喜の声を上げる。 彼が手にしているのは、フィアレル領から届き始めた最新鋭の『規格槍』だ。 以前の槍なら、帝国の重装歩兵が持つ分厚い盾を、力任せに突けば容易く穂先から折れていた。
だが、智也という知恵者が持ち込んだ「メギド鉄」の槍は違った。 均質な強度としなやかな粘り。 盾の縁を弾き、鎧の継ぎ目を易々と引き裂き、その奥にある肉を確実に貫く。
「突き抜けろ! そのまま川底へ叩き落とせ!」
一方で、帝国兵の反撃を受けた俺たちの身体も、これまでにない頑強な「皮膚」に守られていた。
「がはっ……!」
一人の帝国兵が振るった剛剣が、獣人兵の胸部を直撃する。 並の鎧なら、衝撃で骨が砕け、内臓が破裂していてもおかしくない一撃だ。 だが、その兵士が纏っていた『モジュラーアーマー』の装甲板は、大きくひしゃげながらも、その奥にある命を確実に繋ぎ止めていた。
「おい、下がれ! 交代だ!」
後方から飛んできた支援兵の声に応じ、傷ついた兵士が数歩下がる。 そこで行われたのは、かつての戦場にはあり得なかった光景だった。 支援兵は慣れた手つきで、ひしゃげた装甲板の固定具を「カチッ」と外し、背負っていた予備の鋼板をそこに嵌め込んだ。
「治りました、次はお気をつけてください」 「助かる! まだまだ行けるぜ!」
わずか数十秒。 以前なら致命的な損壊として後送されていた兵士が、新品同然の防御力を取り戻して、再び戦列へ復帰していく。
俺は血飛沫の中で大剣を振るいながら、その光景を横目で捉えていた。 以前の戦いなら、鎧が壊れれば、それは一人の兵士の死か、長期の離脱を意味した。 だが今は、武具が「維持可能なシステム」として機能している。
(あの知恵者は、戦を『算術』に変えやがった。兵の命を、一秒でも長く使い回すための仕組みにな……!)
戦場に響く、装甲が嵌まる小気味よい音。 それは、泥臭い勇猛さを、新しい「規格」という秩序が塗り替えていく産声だった。
3. 三百メートルの死線、キャンベルの策略
だが、個の装備がどれほど優れていようとも、帝国の「五万」という重圧はあまりに冷酷だった。
「カナク将軍! 左翼が押されています! 敵の数が多すぎる、これでは……!」
副官の叫び通り、一千を倒せば、背後から新たな二千が舟で押し寄せてくる。 夏の湿った熱気の中で、獣人の強靭な肉体を持ってしても、絶え間なく続く「数」の圧力に、疲労がじわじわと体力を奪っていく。
「全軍、予定通りに退け! キャンベルの旦那が用意した、防御陣まで引くぞ!」
俺の指示により、王国軍は秩序だって後退を開始した。 砦からちょうど三百メートルの位置。 そこには、王都の軍師キャンベルの智謀が凝縮された「防御陣地」があった。
土塁と馬防柵、そして複雑に入り組んだ空堀。 それは単なる障害物ではない。 敵の密集陣形を強制的に分断し、側面を晒させるための計算し尽くされた殺戮場だ。 「三百メートル」という距離は、砦からの矢の援護がもっとも正確に届き、かつ、敵が砦に取り付く前にその足を完全に削り取れる限界線だった。
「ここが俺たちの本当の『牙』を剥く場所だ! 一歩も下がるな!」
王国軍は、この狭い防衛線で帝国軍を迎え撃った。 数倍の兵力差という暴力を、キャンベルの陣は「地形」でいなす。 帝国の先遣隊は、この「魔の三百メートル」に足を取られ、隘路に押し込まれ、上空からの矢の雨に晒されて次々と磨り潰されていく。
だが、それでも帝国の波は止まらない。 死体を踏み越え、盾を並べてじりじりと距離を詰めてくる。 俺の額から、汗と血が混じった雫が、自慢の髭を伝って滴り落ちた。
4. 巨人の咆哮、出現した巨影
防衛戦が最高潮に達し、戦場に鉄の匂いが充満したその時、空気を引き裂くような異様な音が響いた。
「――っ、伏せろぉッ!」
俺の叫びが届くより早く、巨大な岩が空から降って沸いた。 「ドォォォォォンッ!」 空気が爆ぜるような衝撃音。 キャンベルが心血を注いで築いた三百メートルの防御陣地、その最前面にある土塁の肩が、無残にも削り取られた。 一瞬で崩壊したわけではない。だが、防壁としての厚みは失われ、明らかに防御力は落ちた。
砂煙が舞う中、上空から翼の音を立てて一人の鳥人族の斥候が急降下してきた。 「カナク将軍! 報告です! 帝国軍側、巨大な投石器を確認! 現在、一台が稼働、後方でさらなる数台を急ピッチで構築中とのことです!」
俺は砂塵を払い、天を仰いだ。 一台の岩弾を受けただけで、強固だったはずの土塁の形が崩れている。 このまま継続的に叩かれれば、陣地は崩壊するだろう。
俺は、報告を終えて再び飛び立とうとする鳥人の肩を、大きな手で叩いた。 「報告、助かったぜ。……おい、お前も弓兵には十分に気をつけろよ。眼が潰れちゃ報告もできねえからな。無茶すんじゃねえぞ」 「はっ……! ありがたき幸せ! 将軍もご武運を!」
ねぎらいの言葉をかけ、俺は前を向いた。 次に放たれたのは、火炎瓶を詰め込んだ籠だった。 それは砦ではなく、今まさに抵抗を続けている三百メートルの防御陣地へと着弾した。 弾けた籠から粘り気のある炎が溢れ出し、柵を舐めるように広がっていく。
「将軍、このままじゃ陣地が焼き払われます!」
「わかってる! ……野郎ども、俺についてこい! 決死隊だ、あのデカブツの喉笛を掻っ切るぞ!」
俺は被害を恐れず、自ら先頭に立って炎上する陣地を飛び出した。 美髯を火の粉に焦がしながら、最短距離で投石器へと肉薄する。
「燃えろぉっ!」
獣人の剛力を込めた火炎瓶が、稼働中の一台に直撃した。 油を塗り込まれた木材が、爆発的な勢いで炎を上げる。 俺たちはそのまま足を止めず、後方で組み上げられていた構築中の二台にも火を放った。 「これで……当分は静かになるだろうよ!」 立ち昇る火柱を見届け、俺たちは再び矢の雨の中を駆け抜けて、土塁の内側へと戻った。
5. 残響する軍靴、夜の帳
やがて、太陽が地平線の向こうへと沈み、戦場を紫色の不気味な薄闇が包み込んだ。 帝国軍は、投石器三台を失ったことで一旦の撤退を告げる太鼓を打ち鳴らす。
「……引いた、か」
俺は、焼け焦げた土塁の跡に腰を下ろした。 周囲では、凹んだモジュラーアーマーを外し、荒い息をつく兵たちがいた。 彼らの全身は煤と血で汚れ、夏の夜の熱気に曝されて顔を赤く上気させている。
「将軍……被害報告を伝えます」
副官が、震える声を抑えながら報告書を広げた。 「本日の戦死傷者、計六百名超。防御陣地、第一層の土塁が損壊。投石の一撃により、第二堀の杭が一部露出しています。……予備の装甲板も、本日の戦闘だけで全体の二割を消費しました。このままの頻度で攻撃を受ければ、明日の日没まで持ちません」
俺は、事実のみを羅列した報告を、静かに受け止めた。 「……わかった。土塁の修理を急げ。杭が足りなきゃ、そこら中の木を伐り倒してでも埋めろ。明日の朝までには、形だけでも戻しておくんだ」
俺は足元に転がっていた、ひしゃげた規格槍を拾い上げた。 穂先は欠け、軸も歪んでいる。 だが、その芯は折れていなかった。
対岸を見れば、依然として数万の篝火が、怪物の眼のようにこちらを睨みつけている。 そして不気味なことに、渡河中の帝国軍後方からは、未だに新たな小舟が次々と水面に送り出される音が、闇夜に響いていた。
五万の軍勢。 未だに尽きぬ物量。
「……耐えろ。俺たちの牙が一本残っている限り、ここは抜かせねえ」
【読者の皆様へ】
最後まで読んでいただき、心より感謝申し上げます。
日常の忙しさの中で、数分でもこのファンタジーの世界を楽しんでいただき、現実から離れてリラックスできる一助となれば幸いです。
~もしよろしければ、ブックマークや評価で応援いただけると、執筆の励みになります!~




