第7話《母を守るための改築計画 ―石と勾配の知恵―》
1. 峠越えの朝と、震える肩
山の天気のように荒れていた夜が過ぎて、村には肩透かしのような静けさが戻っていた 。 かまどの火が、小さくぱちぱち鳴っている。 土間の湿った匂いを、わずかな熱が温めていた。
「……峠は、越えたと思います」
治療師のフィリオさんが額の汗を拭い、穏やかにそう告げた 。 その一言で、張り詰めていた部屋の空気がふわりと緩んだ。
「ありがとうございました、フィリオさん。……本当に、助かりました」
俺が深く頭を下げると、彼は少しだけ表情を和らげた。
「いえ。火加減や水の量を、あそこまで気にしてくださったのは智也さんです。……無理はしないでくださいね。仕事ですから」
部屋に残されたのは、俺とリュミア、そして眠るお母さんだけだ。 リュミアは母さんの手を握りしめたまま、糸が切れたようにふらりと膝をついた 。
「おっと……大丈夫か、リュミア」
俺は咄嗟に横から彼女を支えた。
「……うん。ごめん。ちょっと、力抜けちゃって」
細い肩を抱き寄せた瞬間、彼女の体温が直に伝わってきた。 看病の熱気と湯気のせいで、彼女の薄い麻の服が肩や背中にぴったりと張り付いている。 透けた肌の白さと、首筋に滲む汗の匂い。 触れている手のひらから、彼女の心臓の鼓動が早まっているのが分かった。
(……やばい、意識しすぎだ。今は母さんのことだろ)
俺は慌てて視線を逸らし、彼女を椅子に座らせた。
2. 暮らし方の治療と、『線』の約束
静けさが戻ると、それまで気づかないふりをしていた劣悪な住環境が目に付く。 黒ずんだ天井、薄いカビ、そして室内に滞留する煤煙。 この家のつくりそのものが、呼吸器に悪い影響を与えている事実に、俺は胸を痛めた 。
俺はリュミアに向き直った。
「お母さんのために、家と暮らし方を変えたいんだ。……同じことを繰り返したくないから」
原因を短く、噛み砕いて説明する 。
「煙が逃げ切れていないんだ。湿気も熱も、寝る場所に溜まってしまうのがきついんだよ」
断言はできないが、黙っているほうが怖かった。
「……そう、かもしれない」
リュミアは母の手を握りしめ、拳をぎゅっと固めた。
「お母さんを守るためなら、家だって変える。……もう、前と同じは嫌」
俺は床の土の上に、炭で簡単な図を描いた。
「煙がちゃんと外へ抜けるように『煙道』を作る。寝床を煙と湿気から遠ざけるんだ」
「トモヤ。……本当に、あなたは“すごい人”だと思う」
彼女の真っ直ぐな視線に、俺は照れを隠すように作業の準備を始めた。
3. 工事現場と、黒豹の称賛
翌日、族長の家での話し合いを経て、リュミアの家の改築が村の正式な仕事として始まった 。 「決める。責任はわしが持つ。では動いてくれ」という族長の一言で、棟梁やガルドが資材を運び込んでくる 。
そこに現れたのは、黒豹系の戦士、ラナさんだった 。 光を拾って艶めく黒髪と、黄金色の瞳。 彼女は俺の図面を覗き込むと、上品に顎を引いた。
「智也殿……ただ穴を開けるのではなく、空気の熱を利用して煙を『吸い上げる』のですね」
「その妙な思いつき、状況を劇的に良くすると存じますわ。素晴らしい『知恵』ですわね」
戦士としての直感で、俺の狙いを瞬時に理解してくれた彼女に感謝する。
資材管理には、帳簿係のエルナも来ていた 。
「うん。ちゃんと見ておくね。えへへ、智也くん、今日も真面目な顔」
彼女はのんびりと板を抱え、資材の数を手際よく記録していく。 小柄な体格に似合わず、動くたびに強調される身体のラインに、俺はまたしても目のやり場に困った。
4. 腐った梁と、一度きりの『風』
改築は順調に見えたが、壁を外した際に、屋根を支える重要な『梁』の芯が腐りかけていることが判明した。
「……まずいな。このまま支えを外したら、屋根が落ちるぞ」
棟梁が厳しい顔で首を振る。
(物理的な固定をするまでの“時間”が足りない。設計の穴だ……)
「待ってください、今のままだと危ないです! いったん止めましょう!」
俺の制止で全員が退く中、ラナさんが静かに一歩前に出た。
「智也殿、風を一度だけ通しますわ。……その隙に、支えを!」
彼女が手のひらをかざすと、風の圧力(魔法)が屋根をわずかに押し上げた。
「今だ、ガルド! 石を!」
その数秒の間に、俺とガルドで堅い石の台座を滑り込ませ、**『楔』**を打ち込んだ。
「……よし、固定できた」
魔法による補助は最初の一瞬だけ。 あとは俺が計算した、石と木による物理的な安定――**『クラフト』**の世界だ 。
「感謝いたします、ラナさん。助かりました」
「いいえ、当然の務めです。……ここからは、あなたの『仕組み』を完成させてください」
5. まっすぐ昇る煙
夕暮れ時、ついに新しい『煙道』が完成した。 屋根の穴の周囲には石を積み、雨を逃がす正確な**『勾配』**をつけた 。 隙間は粘土と枝束で丁寧に埋め、熱を逃がさない構造に整えてある。
最初のかまどに火を入れると、煤けた煙がスッと空へ吸い込まれていった。 部屋の中に滞留していた重苦しい空気が、嘘のように消えていく。
「……あ。本当、息がしやすいわ」
寝台の上でお母さんがゆっくりと息を吸い、穏やかに微笑んだ。
リュミアは隣で、真っ直ぐに昇る一筋の煙を黙って見上げていた。 その淡いブルーの瞳には、かつての恐怖ではなく、確かな安堵が灯っている。
(……じゃあ、やるか)
俺は煤で汚れた手を眺め、小さく息を吐いた。 冬の足音はすぐそこまで来ているが、この家の中を流れる空気は、これまでで一番澄んでいた。




