第66話《静寂を裂く巨象の咆哮》― 鋼の拡声器(メガホン) ―
1. 戦略局特使の困惑
アイゼル砦を包む真夏の風は、どこか鉄と油の匂いが混じっていた。 北側の城門をくぐった戦略局特使、ヒルダは、馬を止めて呆然とその光景を見渡した。
「……これが、アイゼル砦? 私の知っている記録とは、あまりに違いすぎるわ」
そこは、古びた勇壮な石積みの要塞ではなく、不気味なほど滑らかな「灰色の壁」と、見たこともない巨大な歯車が組み込まれた防御兵器の数々だった。
その後、ミラージュ将軍に謁見した。
「……アイゼル砦守備隊長、ミラージュ将軍とお見受けします。コモンス王都戦略局より特使として参りました、ヒルダ・キャンベルです」
ヒルダが深々と一礼すると、巨大な象の獣人、ミラージュは静かに目を細めた。
「…………戦略局か。……遠路、苦労だった」
地響きのような低い声。ヒルダは父から、この将軍がいかに無口で、同時に誠実な武人であるかを聞かされていた。
「バランタイン領からの増援一千名は、到着まであと一ヶ月は要します。……それまで、この五百の兵で持ち堪えねばなりません。将軍、勝算は?」
「…………仕組みは、できている。……あやつが、作った」
ミラージュが太い指先で示したのは、砦の中庭、一段高くなった砲座付近だった。
2. 異質の「知恵者」
ミラージュ将軍の指差す先、図面を広げた数人の兵士たちに囲まれ、熱心に指示を出している青年がいた。
「(……人間族?)」
ヒルダは思わず目を凝らした。 黒髪で中肉中背。二十歳そこそこに見えるその若者は、どこにでもいるような、なんの変哲もない外見をしていた。戦士のような猛々しさも、高名な魔導師のような威圧感もない。街ですれ違えば、一分後には顔を忘れてしまいそうなほど「普通」の青年だ。
だが、近くにより、彼と兵士たちのやり取りを耳にした瞬間、ヒルダは微妙な違和感に襲われた。
「いいか、誤差は一ミリ以内に抑えてくれ。この角度がコンマ五度ズレるだけで、三〇〇メートル先では一メートル以上の着弾誤差になる。……計測器の目盛りをしっかり合わせるんだ」
「了解です、智也さん! 水準器の気泡、中央固定しました!」
兵士たちが、まるで熟練の職人のような手つきで金属製の定規や奇妙な目盛りを覗き込んでいる。
「(……なにかしら、あれは? なぜ兵士たちが剣も持たず、紙切れと目盛りを睨んでいるの……?)」
ヒルダの知る「軍隊」とは、指揮官の怒号と兵の練度、そして個人の武勇で成り立つものだ。しかし、このアイゼル砦を支配しているのは、それらとは全く異質の、冷徹なまでの『精度と秩序』だった。
「……ヒルダ様。あの方が、フィアレル卿が全幅の信頼を置く知恵者――高瀬智也殿だそうです」
随行員の言葉に、ヒルダは息を呑んだ。 あの何の変哲もない、技師みたいな青年が、父キャンベルをして『戦の形を変える可能性のある存在』と言わしめた人なの???。
3. 空からの凶報
その時、空を裂く羽音が響き、斥候のレオンが展望デッキに舞い降りた。
「――来たぜ。帝国のお出ましだ。ルーン河を渡りやがった」
レオンは自らの翼で低空飛行し、山々の影に紛れて敵軍の鼻先まで肉薄してきたのだ。その瞳には、隠しきれない憎悪の火が宿っていた。
「数は……目測で五千。あと三日で、この崖の下まで届きやがる」
五百対五千。十倍の兵力差。 報告を聞いた兵士たちの間に、波紋のように動揺が広がった。
(五千。十倍の兵力差。 父、キャンベルなら即座に「放棄」か「決死の遅滞戦闘」を選択する絶望的な数字。私の頭の中では、砦が蹂躙されるシミュレーションしか出てこない。
智也と呼ばれた青年を見る。彼は表情ひとつ変えず、懐から取り出した紙にさらさらとペンを走らせると、即座に伝令へ渡した。
「領都フィアレルへ。敵主力、アイゼルに到達。作戦通り、最終防衛態勢に移行する」
智也の淡々とした、まるで事務作業をこなすような声が、パニック寸前の空気を不思議と繋ぎ止めていた。
4. 黒き波と、弛緩した敵陣
三日後。 地平線を黒く染めて現れたラグナ帝国の先遣隊五千。噂通り、彼らの防具や武器は全て漆黒に塗られ、這い寄る影のように大地を埋め尽くしていく。
防御陣地の構築をはじめ、やがて三台のトレビュシェット(大型投石器)が組み立てられていく。
だが、砦から三〇〇メートルの地点で陣を敷く彼らの様子を見て、私は眉をひそめた。
「……どうも弛緩している」
敵陣には、緊張感が欠けていた。 防御陣地の構築は雑で、兵士たちは笑いながら焚き火を囲んでいる。彼らにとって、このアイゼル砦は「数日で踏み潰せる小石」に過ぎないのだろう。圧倒的な物量差が生んだ、傲慢なまでの怠惰。
そこへ、帝国軍から降伏勧告の使者が現れた。ミラージュ将軍は会うことすら拒否したが、使者たちは砦の門前で声を張り上げ、罵倒を浴びせかけた。
「おい、家畜同然の獣人ども! 象のウスノロに守られて、穴倉に閉じこもる気分はどうだ!」 「無駄な抵抗はやめて、早くその首を差し出せ! そうすれば、女子供だけは奴隷として生かしてやるぞ!」
下卑た笑い声が崖の下から響き渡る。 帝国軍全体に、「勝負は既に決まっている」という、慢心が漂っていた。
5. 静寂を裂く「巨象の咆哮」
罵倒を繰り返す使者が引き下がった時、ミラージュ将軍が静かに立ち上がった。 その手には、智也殿が製作した鋼の拡声器という器具が握られている。
「…………智也。……やるぞ」
将軍が拡声器を口元に当てた瞬間、私の耳が潰れるかと思うほどの、圧倒的な大音量が轟いた。
「アイゼルの戦士たちよ、聞け!!」
地響きのような、魂を震わせる声。 三〇〇メートル先の帝国兵たちが、驚きに肩を跳ねさせたのがここからでも分かった。
「帝国は我らを数で潰せると信じている! 我らを、ただの穴倉の鼠だとなめている! だが、この砦を見ろ! 智也殿の手によって、この壁は『鋼の芯』を持つ不落の盾となった! 崖を流れる黒き油、空を穿つ連弩、そして死角なきロジック……。これらはお前たちが、家族を守るために手に入れた『牙』だ!」
将軍の声は、空を、大地を、そして兵士たちの心に溜まっていた泥を洗い流していく。
「背後の道を見ろ! 領都からは今も絶えず食糧と鋼が届いている! 我々は孤立などしていない! そして何より……お前たちの家族は、すでにユンタ盆地へと疎開させた! だが、ここを抜かれれば、あそこにあの黒い連中が雪崩れ込む! そんな暴挙を、このミラージュが許すと思うか!!」
「「「オォォォォォォォォッ!!!」」」
五百の兵士たちの絶叫が、五千の軍勢を気圧した。 帝国軍の陣地から、笑い声が消えた。
私は、熱狂する兵士たちと、その横で静かにバリスタの照準器を再点検する智也殿を見た。 勇気と、ロジック。 この二つが噛み合った時、本当にお父様の言う通り、戦の歴史が塗り替えられるのかもしれない。
嵐の前の、最後の静寂。 私は初めて、この「普通」の青年の背中に、抗いようのない神々しさを感じていた。




