第54話【コモンス王国②】《不動の盾、五万の残響》
1. 牙を剥く大河、不気味な静寂
西方の軍事境界線、大河ルーン。 その激流を挟んだ対岸を埋め尽くすラグナ帝国の軍勢は、数日前までの「威力偵察」とは明らかに一線を画していた。
「……目測で五万。冗談じゃねえな」
最前線、『灰色の牙』砦の天守。猛将カナクは、凍てつく風に髭を揺らしながら対岸を睨みつけた。 これまでは散発的な渡河を繰り返すだけだった帝国軍が、今は整然と陣を敷き、巨大な攻城兵器を組み上げている。
「報告です。現在まで砦の防壁に損傷なし。兵の損耗も、これまでの小競り合いによる軽微なものに留まっております。……ですが、奴ら、本気でここを落としに来ています」
副官の短い報告に、カナクは大剣の柄を強く握りしめた。 砦を守る王国軍は一万。精鋭ではあるが、波のように絶え間なく押し寄せる「数」の圧力が、まだ本格的な交戦前だというのに、守備隊の精神をじりじりと削り始めていた。
2. 戦略会議の「数字」と、軍師の乾いた予測
同じ頃、王都の作戦本部。 重厚な円卓を囲むのは、王国の存亡を双肩に担う者たちだった。席の中央に座るヴァレリア王女に対し、軍師キャンベルが指示棒を動かし、現在の戦況を淡々と説明する。
「現状、西方の砦は一点の陥落もなく維持されています。兵の損耗率も低水準。ですが、今後の推移を予測するに、楽観視できる要素はありません」
キャンベルの声には感情がなく、事実のみを羅列していく。
「ラグナ帝国は、春先の耕作期を前に一旦は兵を退くでしょう。あちらは穀物生産のために農民兵を戻す必要がありますし、泥濘の中での攻城戦は、帝国にとっても非効率だからです」
その言葉を受け、アストリア大将軍が深く頷いた。
「そうだな、まずは春先まで耐えて撤退を待つことだな。そこまで持ち堪えれば、我が軍にも立て直しの余地が生まれる」
しかし、キャンベルは冷静に言葉を継いだ。
「ひとまずはそうです。……ですが、あちらの損亡は、徴兵によって夏までには完全に回復します。夏にはまた新しい五万、あるいは十万が揃うでしょう。……対して、こちらは違います。我らの一万は代えの利かない熟練兵。一人失うたびに、この国の『根』が削られていく。撤退と再侵攻を繰り返されるだけで、我が国は戦う前に枯死します。よって、抜本的な対策を取らなければなりません」
会議室に、刺すような緊張が走った。
3. 竜姫の問いと、カバの領主の面影
「……各領地からの供出はどうなっていますか」
ヴァレリアが、キャンベルの言葉を裏付けるように問いかけた。背に生えた竜の翼は、不安を隠すように鋭く閉じられている。
「左様ですな。各地からの供給はだんだんと細くなってきました」
宰相が、一枚の報告書をヴァレリアの前に置いた。
「ただ、フィアレル領だけは例外です。あそこからの供出は、この一ヶ月、一度も途絶えておりません。回を追うごとに量が増しているのです」
「……フィアレル領が? あそこは北東で鉱山が中心の、そこまで豊かではない土地のはずだが?」
ヴァレリアが不思議そうに首を傾げた。 彼女の脳裏にあるのは、幼い頃に会った、忠義に厚く優しいカバの獣人である領主の顔だ。あのがっしりとした、しかし穏やかな領主が、これほどの物量をどこから捻出しているのか。
「はい。あそこの領主は実に律儀な御仁だ。届く荷箱はすべて寸法が揃えられ、中身の穀物も製粉済み。おかげで現場での手間がなく、すぐに利用できると、カナク将軍からも感謝の報せが届いております」
ヴァレリアは、その報告書を指先でなぞった。 (……フィアレル卿。あなたが、この絶望的な冬に、王国の息の根を繋いでくれているのね) 幼い自分をあやしてくれたあの優しい瞳を思い出し、彼女は一瞬だけ表情を和らげた。
4. 広大な国境線と、生命線の危機
「アストリア。中央軍の展開はどうなっていますか」
ヴァレリアは大将軍に向き直った。軍事の詳細は、信頼する将に委ねている。
「はい。現在、帝国の同時侵攻に備え、機動力を重視した再編を行っております。ですが……」
アストリアの言葉を引き継ぐように、軍師キャンベルが地図を指し示した。
「大河ルーンを国境線として、約一千キロメートルと広大な防衛が必要となります。王国軍は西側の平地地帯には十分な防備を固めていますが、中央の湿地帯や東方の高山地帯は手薄となっています」
キャンベルの指示棒が、フィアレル領の近くを叩く。
「現在のところ、そちら方面での帝国の軍事行動は聞いていませんが、いつ別動隊が来るかは分かりません。各領主に防備を急がせる指示は出していますが、特にフィアレル領内の鉱山を狙われると、王国の武器生産と経済はきつい状況に追い込まれます。帝国が次に狙うのは、西方の砦の攻略をしながら、この『生命線』の切断である可能性が高いのです」
ヴァレリアの顔が険しくなる。国の命運が、北東の一領地にかかっているという事実に背筋が冷えた。
「……では、手を打たなければなりませんね」
「左様です。北西のスラン領から、前線へ五千の増援を出しましょう。あそこの兵は冬の行軍に慣れている。また、中央軍の再編成を急ぐとともに――」
アストリア大将軍が、重厚な声で提案を締めくくった。
「念のため、フィアレル領にある高山の関であるアイゼル砦の増強を検討すべきでしょうな。あそこが抜かれれば、フィアレル領全域が帝国の脅威にさらされることになります」
5. 決意の夜
「……わかりました。増援の派遣とアイゼル砦の補強、進めてください」
ヴァレリアの決断に、居並ぶ将官たちが一斉に頭を下げた。
会議が終わり、独りで作戦室に残ったヴァレリアは、バルコニーに出て冷たい夜風を吸い込んだ。 西の空、遠くルーン河の方向を見つめる。
「……立派になられた、か」
アストリアが漏らした言葉を思い出し、彼女は自嘲気味に微笑んだ。 民に死を強いる王女。土地を捨て、物資を回すために神経を削る日々。
「私は……、もうあの頃のようには笑えないのね」
暗い空から、一筋の雪が舞い落ちてくる。 フィアレル領から届く、完璧に整えられた物資の箱。その「秩序」だけが、今の彼女にとって、唯一「明日」を信じさせる、見えぬ忠義との絆だった。
夜の闇の中、王都の静寂だけが、嵐の前の残酷なまでの美しさを湛えていた。
【読者の皆様へ】
最後まで読んでいただき、心より感謝申し上げます。
日常の忙しさの中で、数分でもこのファンタジーの世界を楽しんでいただき、現実から離れてリラックスできる一助となれば幸いです。
今回は王国側のスタッフが続々登場しました。猛将カナクは三国志の髭の人と燕人をまぜたイメージです。アイゼル砦は自由惑星同盟の魔術師がいた場所です。
そして、主人公が登場しない回でもあります。
彼が作った「規格化された木箱」や「完璧に製粉された穀物」が、最前線の兵士の胃袋を支える。
そんな「間接的なチート感」を感じていただければ幸いです。
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