第44話【フィアレル領⑦】《竜姫の親書と領主の決断》
1. 官的な「宣告」と、私的な「悲鳴」
フィアレル領主、ガルス・フィアレルの執務室。その重厚な机の上に置かれたのは、西の王都から早馬で届いた一通の親書だった。鮮やかな朱色の封蝋には、王家の象徴である「守護竜」の紋章が刻まれている。
傍らに控える娘のアリアは、父がその封を切る様子を、息を呑んで見守っていた。
「……やはり、来たか」
ガルスの呟きは、諦念と覚悟が入り混じった重いものだった。
封書のなかには2通の封書が入っていた。
一通は公的な「緊急供出命令」だ。
領民が冬を越せる「ギリギリのライン」を見極め、それを超えるすべての食料、資材、武器を差し出せという非情な要請が記されていた。
傍らに控える娘のアリアがその過酷さに息を呑む中、ガルスはもう一通の、紋章のない質素な手紙を手に取った。
「……こちらは、ヴァレリア様個人からの親書のようだな」
その封を切ると、そこには公文書の硬い筆致とは異なる、乱れ、震えるような手書きの文字が並んでいた。
『……ガルス卿。不徳な私を許してほしい。南方の平原には難民が発生し、飢えと寒さで子供たちが命を落とすのも時間の問題だ。兵たちの剣は欠け、盾は割れ、それでも彼らは空腹のまま泥を啜って戦っている。父上は今も平和を祈っておられるが、祈りだけでは腹は膨らまず、鉄は打てない。私は、なんとしてでもこの国を繋ぎ止めねばならない。卿に死を命じるに等しいこの供出を、どうか、どうか……救国のために聞き届けてほしい』
誠実で、切実。王国を一人で背負おうとする十九歳の少女の、血を吐くような「真実」がそこには綴られていた。
2. 幼き竜姫の背負った業
ガルスは書状を置き、遠い目をして窓の外を見つめた。
「アリア、覚えているか。ヴァレリア様がまだ幼く、この領を訪れた時のことを。……あの御方は、誰よりも周囲の顔色を窺い、誰かが傷つくことを何より恐れる、繊細で優しい娘だった」
アリアの脳裏にも、かつての王都での記憶が蘇る。 今の国王は、民を愛する善良な御方だ。だが、それゆえに争いを避け、武事にはあまりに疎い。そんな父王を支えるため、十九歳になったヴァレリア様は、自らの優しさを心の奥底に封印し、王国を背負う「鋼の皇太子」となる道を選んだ。
「あの方が『ギリギリまで出せ』と仰るのだ。それがどれほどの苦渋に満ちた決断か……。ヴァレリア様は、己を殺してこの国を繋ぎ止めようとしておられる」
ガルスは分かっていた。この命令は、領地への搾取ではない。崩壊の縁に立つ王国を救うため、彼女が自らの魂を削って放った「悲鳴」なのだと。
3. 応急処置としての承諾
フィアレル領主、ガルスの執務室。王家からの緊急供出命令を前に、領の重臣たちが集められた。重苦しい沈黙を破り、ガルスが力強く宣言した。
「……供出は行う。ヴァレリア様の要請通り、冬を越せる最低限を除いた余剰のすべてを王都へ送る。これは決定だ」
「しかし、領主様! それでは我が領の蓄えは底を突き、来春の種籾さえ危うくなります!」
一人の重臣が声を荒らげるが、ガルスは静かに首を振った。
「断れば王都が先に倒れる。王都が倒れれば、帝国はこの辺境へ雪崩れ込むだろう。そうなれば供出どころの話ではない。……だが、これだけは言っておく。ただ物資を差し出すだけのやり方は、今回が最後だ。このままではいずれ、この国は必ず詰む」
4. 根本的な欠陥
ガルスは地図の上に、帝国の領域を指し示した。
「我々が血を吐く思いで集めた食料や武器を、ヴァレリア様は戦場という名の『底の抜けた桶』に注ぎ続けておられる。帝国の圧倒的な量産体制に対抗するには、個人の忠義や精神論ではもう限界なのだ。我々は、この国そのものの『仕組み』を変えなければならない」
アリアは父の背後で、その言葉を噛み締めていた。父はただ王女への同情で動いているのではない。冷徹な戦略家として、現状の「点」の支援では未来がないことを悟っていた。
「では、どうなさるおつもりですか、領主様。根本から変えるなどと……」
ガルスは懐から、一通の紙束を取り出した。スノウィ村から定期的に届く収穫報告書の、最終的な集計結果だ。
「これを見ろ。昨日届いたばかりの、スノウィ村の最終報告だ」
最前列にいた重臣がそれを受け取った。彼は、智也が村に入って以来、その奇妙な「改革」を注視してきた者の一人だ。
「……やはり、ここまでの数字が出ましたか。例年の二倍……。途中の経過報告でも信じがたい伸びでしたが、まさか最終的に二倍を叩き出すとは」
報告書が重臣たちの間で回されていく。彼らはすでに、智也という青年が持ち込んだ「旋盤」や「三圃式農業」の存在を知っていた。当初は半信半疑だった彼らも、夏を越え、秋の収穫が順調に進む様子を耳にするたび、その「仕組み」の力を認めざるを得なくなっていたのだ。
「あの青年の言う通り、職人の勘ではなく『数値と管理』で大地を支配した結果ですな。……単なる豊作ではない。これは、誰がやっても同じ成果を出せる『再現性のある仕組み』の勝利だ」
重臣たちの瞳に、沈痛な色とは異なる「熱」が宿り始めた。彼らが今まで見てきたのは「一村の成功」だったが、この確定した数字を前に、それが「領地全体の希望」へと変わった瞬間だった。
5. 「救国の心臓」への飛躍
ガルスは立ち上がり、背後の壁に掛けられた巨大な王国全図を力強く指し示した。そこには、西から黒い影のように迫り来るラグナ帝国の侵攻ルートと、防衛線の脆弱さが冷徹に描き込まれている。
「今回の供出は、あくまで当座の時間を稼ぐための応急処置としかならないだろう。だが、このまま手を打たねば、帝国の圧倒的な生産力との差によって、我が国はいずれ蹂躙されてしまう」
重臣たちは息を呑み、ガルスの言葉の重さに表情を強張らせた。
「私は、スノウィ村の奇跡を参考に、このフィアレル領を王国最大の『精密工業・農業拠点』へと作り変える決意をした。これは、我々が豊かになるための計画ではない。フィアレル領を守り抜き、帝国の侵攻を食い止めるための……王国を救う唯一の『盾』を作る戦いだ。帝国に奪われるのを待つだけの辺境で終わるか、王国を救う心臓部として立ち上がるか。今、我々はその瀬戸際にいる」
ガルスの拳が、防衛の要所である領地の地図を叩く。
「職人の一振り、農民の一汗を、智也殿の『仕組み』によって十倍、百倍の成果へと変える。これこそが、ヴァレリア様が渇望している『数』の暴力に対抗し、この国が生き残るための唯一の手段なのだ」
6. 総責任者の任命
ガルスの瞳には、領民を、そして祖国を蹂躙させないという鋼の決意だけが宿っていた。
「アリア、すぐに智也殿へ使いを出せ。いや、お前が直接向かえ」
「……父様」
傍らで聞いていたアリアが、背筋を伸ばして父を見つめる。
「これより、スノウィ村の『仕組み』を領地規模へと拡大する。一村の成功を囲い込む時ではない。智也殿には、この救国改革の総責任者として、私と共に戦ってもらわねばならん。彼に伝えろ。『フィアレル領の、そしてこの王国の未来を、その知恵に託したい』とな」
父の決然とした命令に、アリアは胸の高鳴りを抑えきれず、力強く頷いた。
「畏まりました。……必ずや、彼を連れてまいります」
窓の外には、冬の気配が迫る厳しい景色が広がっている。吹き付ける風は冷たく、王国の情勢は依然として絶望的だ。だが、執務室に集まった重臣たちの瞳には、もはや「蹂躙されるのを待つだけ」の諦念はなかった。
智也という青年がもたらした「精密」という光を、帝国の牙を撥ね退けるための巨大な防壁へと変える。救国の歯車が、いま重々しく、しかし確実に回り始めた。




