第36話【フィアレル領③】《西風の重圧と、揺れる守護者》
1. 領都の静寂と、驚愕の書状
領都フィアレルの中心に位置する城。その一室で、領主フィアレルは届けられた報告書を前に、何度も目をしばたたかせていた。
「……信じられん。あの『新緑の王』を、一人の犠牲も出さずに討ち取ったというのか?」
彼はカバの血を引く亜人だ。穏やかで人当たりの良い顔には、驚愕と、それ以上の期待が入り混じっている。報告書には、村を襲う伝説の怪物を知恵と仕組みで封じ込め、さらに収穫量を三割も向上させた『人間』の名が記されていた。
「レオンの話では妙な男だという噂だったが、これは『妙』どころの話ではないな。三割の増産……それがこの領全体で実現できれば、どれほど救われるか」
フィアレルは深く椅子に背を預けた。彼の脳裏には、現在この領地が抱える、あまりに重苦しい現実が浮かんでは消えた。
2. 忍び寄る鉄の色、積み重なる難題
フィアレル領は今、静かな「窒息」の危機に瀕している。彼は卓上の地図を指でなぞり、山積する問題を数え上げた。
食料生産の低迷: 土地のポテンシャルを引き出せず、古くからの農法では領民の腹を満たすのが精一杯。
衛生環境の悪化: 都市部では排水やゴミの問題が深刻化し、小規模な疫病が頻繁に発生している。
工業化の停滞: 魔法への依存度が高く、効率的な道具の量産や技術革新が止まっている。
ラグナ帝国の圧力: 経済的な締め付けに加え、国境付近での軍事演習が常態化。
西の平地での紛争: 既に小規模な小競り合いが始まっており、防衛リソースは限界に近い。
「南の帝国は、魔石を動力に使った大規模な工房を稼働させているという。我々は武力でも経済でも、巨大な影に飲み込まれようとしているのだ……」
善良な領主であるフィアレルには、その荒波を押し返すための「武器」が、決定的に欠けていた。
3. 騒がしい宝石と、不器用な願い
「お父様! いつまで難しい顔をして座っていらっしゃるの!」
執務室の重い扉を蹴り開けるようにして、一人の少女が飛び込んできた。フィアレルの愛娘、アリアだ。彼女は亜人の特徴をほとんど継いでいない、小柄で勝気な美少女だった。
「アリアか。今は大切な仕事の最中なんだが……」
「わかっていますわ! スノウィ村の『人間』の話でしょう? 街の噂でもちきりですもの。なんでも、巨大な弓で魔物を串刺しにしたとか」
アリアは腰に手を当て、ツンと上を向いた。だが、その瞳は隠しきれない好奇心で輝いている。
「……ふん、どうせ運が良かっただけですわ。でも、お父様がそんなに困っていらっしゃるなら、その人間をここに呼んで、私の前でその『知恵』とやらを証明させてあげてもよろしくてよ?」
「呼ぶ……。その人間を城に、か?」
「そうですわ! 領主の招待を断るはずがありませんもの。お父様がぐずぐずしている間に、帝国に引き抜かれたらどうするつもり? ……勘違いしないで、私はただ、その者が本当に役に立つのか見定めてあげたいだけなんだから!」
娘の強引な、それでいてどこか必死な物言いに、フィアレルは思わず苦笑した。
4. 決意の招待状
「……そうだな。スノウィ村の奇跡が本物なら、彼こそがこの領地の地盤を固める鍵になるかもしれない」
フィアレルは執筆用具を手に取った。丁寧な、だが領主としての重みを持った招待状を記すために。
「よし、スノウィ村の一行を城に招待しよう。アリア、お前の言う通りだ。今は一刻を争う」
西から吹く冷たい風の中に、微かな変化の予兆が混じり始めていた。フィアレルは、窓の外に広がる、まだ貧しくも愛おしい自分の領土を静かに見つめた。




