第3話《見知らぬ天井と、介抱してくれた猫耳の少女》
1. 木の匂いと灰色の耳
――木の匂いがする 。
鼻の奥に、乾いた木材の香りが染み込んできた。 かすかな薪の煙と、薬草のような匂いが漂っている 。
「……ん……」
ゆっくりと目を開けると、視界に映ったのは無骨な板張りの天井だった 。 体を起こそうとして、寝床の感触に違和感を覚える。 布団にしては薄く、藁のようなものが詰まっているようだ 。
「起きた?」
淡々とした声が聞こえた。 横を見ると、椅子に腰掛けてこちらを見ている少女がいた。 青みがかった黒髪に、透き通るような淡いブルーの瞳 。 そして、頭の上にあるチャコールグレーの猫耳がぴくりと動いた 。
(……耳? コスプレにしては精巧すぎる。いや、今、動いたぞ)
「水、飲める?」
少女が木の椀を差し出してきた 。
「……あ、はい」
自分の声がひどく掠れている。 椀を受け取ろうとした時、彼女の細い手首と、その向こうで揺れる長くしなやかな尻尾が目に入った 。
(……本物か。CGでも着ぐるみでもない。……嘘だろ)
2. 異世界の「普通」
少女は慎重に椀を傾けてくれた 。 水が喉に落ちるたび、じんわりと熱が戻っていく感覚がある。
「……助けて、くれたんですか」
少女は短く頷いた。
「倒れてたから」
言葉の響きは聞いたことがないはずなのに、なぜか意味だけは脳に直接流れ込んでくる 。
「ここ……どこなんですか」
「コモンス王国。獣人族と亜人族の国。ここは、その東のはしっこの方。フィアレル領、スノウィ村」
さらっと、とんでもない固有名詞が並んだ。
「……コモンス王国?」
「うん。獣人族と亜人族が多い国。人間族も、少ないけどいる」
「日本……じゃないんだ」
「にほん?」
リュミアが、不思議そうに首をかしげる 。
「大陸にはコモンス王国と、ラグナ帝国だけ。周りに小さい島はあるけど、国はない」
(猫のような耳の人が普通で、獣人と人間が一緒に暮らしている村が“普通”の世界……)
(……待てよ。さんざんゲームやラノベで見てきた『異世界転生』ってやつか? 認めたくないが、現実を無視するのはエンジニアとして非論理的だ)
精神年齢は30歳のままだが、俺の顔は18歳相当まで若返っている 。 こんな美少女と密室で二人きり。しかも相手は本物の猫獣人だ。
(やばい、興奮するな)
3. 設計者の目と、母の咳
改めて彼女の顔を見る。 よく見ると派手な美人というわけではないが、整った楔形の輪郭と、落ち着いた目元には変な安心感があった 。 骨格も肌の色も体つきも、ほとんど俺と同じ「人間の女の子」にしか見えない 。
一方で、職業柄どうしても周囲の「精度」に目がいく。
(文明レベルは西暦1500年前後、中世ヨーロッパの後半あたりか。日本なら戦国時代だ)
コップは土の匂いが残る厚手の焼き物。 机も椅子も表面はささくれ立っており、板の接合には木の楔が使われている 。
(生存難易度に直結する精度の低さだ。この村は……相当、貧しいな)
ふと床の隅を見ると、あの森で握りしめていた「先端に灰色の石が埋め込まれた棒」が立てかけられていた 。
――ゴホッ! ゴホゴホッ……!
隣の部屋から、肺を削るような激しい咳の音が聞こえた 。 リュミアの耳が、ビクンと跳ねる。
(……かなり悪いな。あんな咳、今の日本ではそうそう聞かないぞ)
リュミアが椅子から立ち上がり、仕切りの向こうへ消える。 背中をさする音と、絞り出すような苦しげな吐息 。 戻ってきたリュミアの表情には、隠しきれない「不安」の色が混じっていた 。
4. 床に描いた「図面」
「……お母さん?」
俺が小声で尋ねると、リュミアは短く「うん」とだけ答えた 。
「昔から、胸が少し弱くて。……最近、冬が近づいてから特にひどい」
耳の先端はまだ、隣の部屋の気配を探るように傾いている。
「トモヤ、何ができる?」
リュミアが尋ねてきた。居候をさせるための、現実的な問いだ 。
「……力仕事は、今の体じゃ無理そうです」
「それは見て分かる」
リュミアの言葉は短いが、どこか突き放すような冷たさはない 。
「……もともとは、工場で図面を描いたり、仕事の段取りを考えたりしてました」
「ずめん?」
俺はかまどのそばの炭を拾い、床に簡単な平面図を描いて見せた 。
「こうやって上から見た形を描いて、どうやって作るかを考える仕事です」
「へえ……」
リュミアの瞳が少し見開かれ、尻尾の先がぴくりと跳ねる 。
「すごい。村の人、そういうの描ける人、いない」
(……これだ。これなら、この世界でも価値を出せるかもしれない)
「明日、歩けそう?」
「たぶん。ゆっくりなら」
「なら、族長のところに行く。ちゃんと話した方がいい」
リュミアは立ち上がり、かまどの火を落とし始めた。
「リュミア。助けてくれて、ありがとうございます」
リュミアは振り返らないまま、灰色の耳だけをこちらに向けた 。
「死なれたら困るって言った。……また明日」
彼女はそのまま、外の光の中へ消えていった 。 揺れる尻尾が、名残惜しそうに空気をなでていた。




