第24話《月下の掃討戦》
1. 浅い森の観察と「届かない」牙
春の陽光が畑を照らし、三割の拡張を終えた境界付近は活気に満ちていた。 しかし、森との距離が縮まった副作用はすぐに出た。
芽吹いた苗や堆肥の匂いに誘われ、魔物『フォレストドッグ』の群れが畑の縁をうろつき始めたのだ。
(……設計通りに畑を広げたはいいが、森との距離が縮まりすぎている。まずは現場の脅威を正しく認識しないと)
ある日の午後、俺は今後の防衛設計のための観察として、村からほど近い浅い森へ同行した。 周囲を固めるのは、ガルドやラナを含む十人ほどの村の戦士たちだ。
彼らは鋭い嗅覚と視力で、森の奥に潜む不穏な気配を警戒している。 その時、茂みの奥から灰色の影が弾け飛んだ。
「……槍も弓も、カスりもしねぇ!」
ガルドが忌々しげに叫び、手にした槍を放つ。 だが、魔物は空中で身をひねり、木々の間へと消えていく。
ラナも即座に石弓を構えて引き金を引いたが、ボルトが届くより先に魔物は死角へと滑り込んでいた。
「陣形を崩してはなりませんわ。……下がって! そこは足場が脆くなっております!」
ラナの鋭い警告と共に十人ほどの熟練の戦士たちが応戦する。 だが、魔物の異常な俊敏さを前に、従来の武具では決定打を欠いていた。
(……当てようとするから外れるんだ。相手の『速さ』を奪い、こちらの『矢速』を物理的に引き上げる仕組みが必要だ)
2. 鋼の反発、数字の隣の熱
俺は観察記録を抱え、谷にあるドワーフのグレンさんの工房を訪ねた。
「グレンさん、石弓を強化したいんです。木を厚くするんじゃなく、薄い鋼を重ねた『板ばね』を弓体にしたい。 あと、手では引けない強さになるので、足で固定する鐙と、クランク式の巻き上げ機も付けます」
「朝っぱらから何だ。図はいい。寸法と荷重だ。どこに力が掛かる?」
グレンさんは相変わらずぶっきらぼうだが、俺の図面を注視し、仕事の切り分けを的確に判断してくれた。
さらに俺は、工房の隅にある鉄屑の山を指差した。 「それと、この廃材を叩いて『まきびし』を作りたいんです。どの方向に転がっても、必ず一辺が上を向く四面体の形状で」
「ふん、小細工を。……だが、理にはかなっている。やってやる」
村に戻り、出来上がった試作品と罠の配置図を持ってエルナを呼んだ。
「智也くん。ここ、三歩分くらい高くなってきているね。面白いなぁ、数字にすると村が生き物みたいに見えるよ」
エルナはのんびりした調子で、俺の隣で図面を覗き込んできた。 (……近い。本当にこの人は無自覚なのか)
エルナが計算に集中して半身を寄せて覗き込んでくる。 俺の腕に彼女の胸が強くあたり、抗いようのない柔らかな感触につつまれた。
「えへへ。智也くん、今日も真面目な顔」
至近距離から、その愛くるしい大きな瞳で見つめられる。 俺は心臓が口から出そうになるのを必死で抑え、罠の配置図に炭を走らせた。
「……こ、ここに『まきびし』を撒く。踏めば確実に足を貫く設計だ。 それとこっちには、紐の両端に石の重りをつけた『ボーラス』を仕掛ける。 獲物の足に絡みついて、走れば走るほど締め付ける仕組みだ」
3. 泥の裏切りと、咆哮の窓
「……じゃあ、やるか」
罠を仕掛けた夜、森から低い唸り声と共にフォレストドッグが飛び出してきた。 しかし、ここでエンジニアとしての「現場の読み」の甘さが出る。
「待って、今のままだと危ない……! いったん止めよう!」
雪解け水を含んだ春の土壌は、想像以上に柔らかかった。 魔物が踏み込む前に『まきびし』は泥の中に沈み、『ボーラス』を固定する杭も、ぬかるんだ泥からずるりと抜けてしまったのだ。
(……速すぎる。目が追いつかない)
泥の中で足を取られた俺に、一際大きな魔物が跳ねかかる。 鼻を突く濡れた獣の臭い。 暗闇で爛々と光る黄色の瞳。 喉元に届く、生温かい吐息。
(……死ぬ。ここで、終わるのか)
あまりの恐怖に心臓が凍りつき、指一本動かすことができない。 視界がスローモーションになり、魔物の鋭い牙が喉首に迫った、その時だ。
「くそっ、今は無理だ! 下がれ!」
衝突の直前、金色のたてがみが視界を過った。 ガルドが魔物の懐へ潜り込み、鍛え上げられた豪腕でその巨体を力任せに弾き飛ばした。
戦士としての圧倒的な動きで、彼は唸り声を上げる群れを次々と捌いていく。 ガルドは俺を背中に庇いながら、鋭く声を飛ばした。
「智也、下がってろ! 接近戦なら俺に任せろ。 ……よし、罠のところだけ狙って地面を固くしてみるぞ。一気に決める!」
「……土よ、今だけ牙を受け止めろ!」
ガルドの土魔法が地を走り、ぬかるんだ罠の周囲だけが、陶器のように硬く焼き固められた。 泥から露出した『まきびし』が、次々と魔物の足を捉える。
同時に、仕掛けておいたボーラスが逃げ惑う脚を確実に絡め取った。 重りに引かれた紐が複雑に巻き付き、魔物の俊敏な動きを奪っていく。
足掻くほどに紐が食い込み、やがて群れの足取りは目に見えて重く、遅くなっていった。
「智也殿、風を一度だけ通しますわ!」
ラナがグレンさんの強化した新しい石弓を構えた。 板ばねから放たれたボルトは、目にも止まらぬ速度で空気を切り裂き、足を止めた魔物を一撃で貫いた。
4. 永続する仕組みと、温かな手
翌日、俺は境界線の本格的な改修工事を行っていた。
昨夜の戦いで負傷した若者の治療をフィリオさんが的確に行っていた。 「大丈夫。呼吸を整えて。」
「ありがとうございました、フィリオさん。……本当に、助かりました」 フィリオさんの手際よい治療の声を背に、俺は「仕組み」の永続化を急いだ。
「魔法は窓だ。次からは石と構造で守る」
泥の影響を受けないよう、罠の設置箇所には平らな石を敷き詰め、その周囲に深い排水溝を通した。 杭の代わりに、地中深く横木を埋める『デッドマン・アンカー』を採用し、地盤の緩さを構造的にカバーしたのだ。
しかし、作業を進める俺の指先は、まだ微かに震えていた。
(……思い出すと、今でも震えが止まらない。罠が効かなければ、俺はあそこで終わっていた)
俺は改めて、自分の細い腕を見つめた。 十八歳の体に戻ったとはいえ、獣人戦士たちのような超人的な動きはできない。
(なにか、非力な俺でも身を守れる術を持たないと……)
「智也。準備、できた?」
背後からリュミアが声をかけてきた。 彼女は俺の作業で汚れた手を気遣うように見つめ、そっとその暖かい手を俺の手の上に重ねた。
「昨日の夜ね、お母さんが智也のこと、すごく心配してたよ。……怪我してないかなって」
彼女は俺の目を見つめ、静かに、だが力強く言った。
「……私も、隣で踏ん張る。だから、一人で迷わないで。……一緒に、考えよう」
(……ああ。守り抜いたんだな、この場所を)
月の名残に照らされた、石と鋼による新しい境界線。 それは魔法でも身体能力でもない、俺たちの「仕組み」が刻んだ勝利の印だった。
「よし。ここまでの流れはこんな感じか。……いけるところからやろう」
俺は一息つき、森の向こうを見据えた。 次は、この境界線をさらに強固にするための体制。 そして、自分自身が生き残るための「護身の知恵」が必要になるだろう。




