第23話 畑の拡張③ -水と豆が土を変える-
1. 札の芽、畑に名を呼ぶ
朝の光が、畑の端の木札に引っかかって白く跳ねた。
先週まで“ただの畑”だった場所に、木札の絵と名前が生えている。
文字が読めない人にも分かるよう、まず絵を大きくしたのだろう。
穂の刻み+「麦」
豆の丸い刻み+「豆と根」
草の刻み+「草(休ませる)」
字は読みやすい。角が丸くて、主張が強すぎない。エルナの手だ。妙に腹が立つくらい仕事が早い。
「うん。これで迷いにくいね」
本人はのんびり言って、札の位置を少し直した。風で倒れないように根元に小石も添える。
年長の男が札を見て、鼻で息を吐いた。
「畑に名前など付けずとも、土の匂いで分かる」
言葉は反対じゃない。自負だ。長く畑に立ってきた人の、当たり前。
俺は、ちゃんと敬語で返す。
「はい。匂いと色で決めてきたのは、村の強さです。札は、それを変えるためではありません。誰が見ても同じ向きに回せるように、目印を増やしたいだけです」
年長者は少し黙って、札の影を見た。
「……子どもでも分かる、ということか」
「そうです。誰が畑に立っても、同じ判断ができるように」
その横で、ガルドが短く言った。
「引き継ぎが楽になる」
言い方が実務だ。年長者はふっと笑った。からかいじゃない、納得の笑い。
「なるほどな。土の匂いは消えん。札が増えても困らんか」
エルナが、うんうんと頷く。
「迷ったら札を見ればいいし、札が古くなったら彫り直せばいいよ。板もあるしね」
“板”。
溝の位置、順番、やり方――村の知恵が、いまは木に残る。消えにくい形で。
2. 土のごはん、匂いの約束
堆肥舎の扉を開けると、むっとした甘い匂いが押し寄せた。腐ってるんじゃない。ちゃんと熟れた匂い。土が喜ぶやつ。
子どもが鼻をつまんで逃げようとしたのを、エルナが笑って止める。
「これ、畑のごはん。逃げない逃げない」
「くさっ」
「うん。くさい。でも効く」
荷車に堆肥を積みながら、エルナが板に簡単な決め方を書いた。数字じゃない。見て分かるやつ。
痩せたところ、増やしたところ:厚め
豆のところ:控えめ
草で休ませるところ:家畜糞中心
「豆は、やりすぎると葉ばっか伸びるって、前に言ってたよね」
「うん。豆が“元気すぎる”と、肝心の実が薄くなることがある。土の方は良くなるけどな」
ガルドが堆肥袋を担いで、短く頷いた。
「じゃあ、豆畑は薄く。麦の方を勝たせる」
「そう。土の機嫌を揃えると、収穫の当たり外れも減る。……はず」
最後の一言を飲み込む。
“はず”の部分は、現場が殴ってくる。だから今日も、手を動かす。
3. 段の縁に、麦と豆の列
段々畑の下段は、朝のうちに少し乾いていた。
犂が返した土の粒が、前より細かい。ハローでならした跡が残っている。昨日の仕事が、今日の手触りになる。
「通る所、ここね」
エルナが木札じゃなく、足跡の線を指でなぞった。人が通る線を固定する。それだけで、畦が踏まれない。
下段に、春小麦と大麦を播く。
段の端――畦には、豆を一列。
子どもたちは豆を握って、しゃがみ込む。
「ここ、俺の!」
「こっちは俺!」
「通る所は、足跡の内側。畦は踏まない」
俺が言うと、ガルドがすぐ重ねた。
「畦を踏むな。踏んだら、土が固まる」
短い言葉が効く。子どもは一斉に足を引っ込めた。
分かりやすい“線”があるだけで、人は守れる。
ラナが段の肩を見て、小さく頷く。
「崩れておりませんわ。石の置き方が良い」
褒め方が実務だ。俺は照れずに受け取れる。
「ありがとうございます。……このまま、上段は“通路と石退け”で止めます。播くのは下だけです」
「よろしいかと存じますわ」
やりすぎない。それが続く。
4. 溜池の鏡、水番の拍
昼を過ぎると、水の顔が変わる。
溜池の水位は静かに上がって、吐き口の石に小さな泡がつく。
水番の板は、畑の入り口に立っていた。
今日の担当が、栓を少しだけ開ける。
水は段の端をかすめて、溝に落ちていく。
勢いは強すぎない。溝が働いている。枝束と石の音が、鈍く返る。
「今日はここまで」
年長のひとりが、空を見て言った。
雲の厚みと、風の向き。経験で止める。ルールと経験が、喧嘩せずに並んでいる。
子どもが溜池の縁に集まって、覗き込んだ。
「いる!」
「ちっちゃい!」
小魚が、きらっと光って逃げた。
食うためじゃない。水が“生きてる”印だ。村の目が、少し柔らかくなる。
泥だらけだった低地は、いま――
水が通るのに、溜まりすぎない。乾きすぎない。
その“ほどよさ”が、じわっと広がっている。
5. 灰の薄雲、虫の影
夕方、豆の葉の一角がざわついた。
よく見ると、穴。虫食い。根の畑の方にも、同じような傷がある。
「……きたか」
喉の奥が苦くなる。
前に一回、灰水をやりすぎて葉を焼いた。やりすぎると終わる。でも、放っておくと広がる。
「乾いた灰で、薄く。夕方だけ。株元中心」
俺が言うと、エルナがすぐ頷く。
「うん。薄くね。薄く」
ところが、今日の空気は妙に重い。
湿りが残ってて、灰が舞わない。ふるっても、ふわっと落ちずに、だまになって落ちる。
薄く撒いたつもりが、一部だけ濃くなる。
濃い場所は、葉が痛むかもしれない。
設計は簡単だった。
“薄く均一に”。
でも現場は、空気と湿りで平気で裏切る。
「……このままだと、ムラが出ますわ」
ラナの声は静か。でも判断が速い。
「風がない。灰が落ち方を選べない」
ガルドが土を指で触って、短く言う。
「湿ってる。だまになる」
俺は一瞬だけ迷った。
魔法でやれば早い。でも、“魔法で全部”はダメだ。次も同じ天気が来る。次も魔法を頼るのか? それじゃ回らない。
じゃあ――今だけ、条件を整える。窓を作って、あとは道具で回す。
6. そよぎを借りて、粉は舞う
「今だけ、風を借りますわ」
ラナが一歩前に出た。
派手な構えじゃない。呼吸を整えるみたいに、指先を軽く上げる。
風が来た。
強風じゃない。畦の豆の葉が、さわ、と一斉に揺れる程度のそよぎ。
灰が、ふわっとほどけた。
だまが崩れて、薄く広がる。“均一”に近づく。
「今です。撒いて」
ラナの声に合わせて、俺たちは一列に並ぶ。
布を張った簡易の衝立を、枝束で支える。風が抜けすぎないように。
灰は、布のふるいを通して落とす。粒を揃える。濃淡を減らす。
そよぎは、すぐ止んだ。
魔法は終わり。ここからは、衝立と布と並び方で回す。
その時、灰がふっと舞って、俺の頬と睫毛に乗った。
「……動かないで」
背後から、リュミアの声。
返事をするより先に、体が固まった。近い。熱じゃないのに、背中の皮膚だけが先に反応する距離。
ふっと、指先が顎を軽く持ち上げた。
次の瞬間、頬に触れた指が、灰を“払う”んじゃなくて――撫でるみたいに、ゆっくり滑った。
目の端で、リュミアの睫毛が揺れるのが見える。息が、ほんの少しだけ当たる。
俺は、息を吸うのを忘れていた。
(……やばい)
最後に親指が、頬骨のあたりで止まって、もう一度だけ小さく拭う。
そこでようやく、指が離れた。
「……取れた」
「……あ、うん……ありがとう」
声が変にならないように言ったつもりなのに、喉が変に乾く。
リュミアは何事もなかったみたいに一歩下がって、また灰と葉の方へ視線を戻した。
――畑だ。段取りだ。
分かってるのに、頬だけがしばらく熱いままだった。
エルナが、ちょっとだけ笑って板に刻む。
「灰:薄く/夕方/無風は衝立/ふるい布/並んで撒く。……風は“借りる程度”」
「うん。次は魔法なしで行ける」
俺が言うと、ラナが小さく頷いた。
「よろしいかと存じますわ。今のは、条件を揃えただけですもの」
その言い方が、嬉しい。
“魔法で勝った”じゃない。“やり方が残った”。それが大事だ。
7. 回りだす畑、夕暮れの手応え
日が落ちて、畑の色が一段深くなる。
丘までは登らない。今日は、畑の縁からで十分だ。
増やした三割の区画は、荒れていない。
溝は働いている。
水番は揉めていない。
道具の順番待ちは減った。
通路が決まって、畦が残っている。
“回ってる”。
その感覚が、体に入ってきた。
ガルドが畑を見て、ぽつりと言う。
「土が、前より素直だ」
「堆肥と豆と水。あと、踏まない線」
俺が言うと、エルナがのんびり相槌を打つ。
「うん。順番もあるしね。明日も迷わない」
リュミアが、少し後ろで言った。
「……今日は、止まらなかった」
「うん。止まらなかった」
板の文字を見た。
札と、溝と、衝立と、ふるい布。
魔法は“窓”で、残るのは手順。
それなら、次の天気が来ても、村は回れる。
そう思えたから、今日はちゃんと眠れる気がした。




