第22話 畑の拡張② - 牛と段々畑の一日 -
1. 朝の確認「三割の線と、播く作物」
朝の空気は、まだ冬の名残で肺に刺さる。
でも、溝の水音だけは春だ。昨日通した排水が、ちゃんと働いている。
俺は溝の肩を指でなぞって、崩れの跡がないのを確認した。枝束と石が噛んでる。魔法で一瞬だけ“窓”を作ってもらったけど、回ってるのはこっち――石と枝と勾配だ。
「今朝はここ。水が寄ってない。――通ってる」
エルナが木札を一枚、溝の始点に置いた。印。迷子防止。
この人、こういう時だけ異様に手際がいい。
「うん。じゃあ今日は、線の内側だけ。余った手は“播く場所”を勝たせる方へ回す」
ガルドが若者を見回して、声を落とす。
「聞け。今日は広げない。線の内側で片づける。無茶しそうな奴は止める」
「承知ですわ」
ラナが落ち着いた声で頷いた。足元を見て、土の乾き具合を確かめている。
リュミアは少し後ろで全体を見ていた。いつも通り静かで、でも一歩も遅れない。
(この辺は雪が安定しない年がある。秋に蒔くと冬に飛ぶか、氷でやられる。だから小麦は春に蒔く――村のやり方だ。
つまり、今の耕しと今の播きが勝負。三割を増やすなら、なおさら“今やる所”を絞って勝たせるしかない)
ラナが溝を見て、短く添えた。
「昼に流れが変わりますわ。掘るなら午前のうち。踏む道は、私が先に通します」
(助かる。あの足運び、沈まない所をちゃんと踏んでる)
俺は頷いて、作業の合図を出した。
2. 斜面の試験区「段と溜池まわりの第一段」
斜面の上。杭と縄が張られ、輪郭が“形”になっていく。
大工が縄をピンと張って、若者に合図した。
「ここが段の肩。ここは踏むな。崩れる」
土の匂いが変わる。表土は柔らかいが、少し削ると冷たい硬さが出てくる。
段を大きくしない。二段か三段。試験区。三割の中の、さらに小さい勝負。
「上は“受け”を整えます。溜池の縁は、越えた水が畑に突っ込まないように逃げを作りましょう」
大工が頷いて、石を組み始める。
越流の逃げ。吐き口の周り。浅い受け。派手じゃないけど、こういう地味な所が春の事故を減らす。
エルナが木札を並べた。
「ここ、通路。こっち、土置き場。ここは播く場所」
「助かる。迷うと、人がぶつかるからな」
「うん。ぶつかると、崩れるしね」
子どもが一人、縄の外へ出そうになって、エルナが手のひらで止めた。
「そこは、だめ。見てるだけなら、こっち」
叱ってるというより、普通に“段取り”を渡してる感じだった。
3. 牛の準備「ヨーク調整と、試し耕起」
平地に戻ると、牛が待っていた。
首の擦れを見て、俺は眉を寄せる。
(ゲームだと、牛具も馬具も細かく調整できたっけ。現実はもっと雑でも回してるけど……回ってても、牛は痛いんだよな)
ヨーク――牛の首に掛けて、犂や荷車を引かせるための道具だ。
ここが合ってないと、牛の力が逃げるし、擦れて傷になる。人間で言えば、合わない靴で走らされるようなもんだ。
「当たりが高いです。ここ、骨に当たってます。もう少し下げて、角も落としてください」
大工がヨークを持ち上げ、刃物で削る。
「布は?」
「柔らかいのを挟みましょう。皮でもいいです。擦れる所に、面で当てたいです」
ガルドが綱の位置を見て、低く言う。
「引く線、上げるか」
「うん。上げてください。牛が前に出る時、首が持ち上がりにくくなります」
調整が済むと、二頭を並べて犂を付ける。
最初は畝が曲がった。牛も戸惑う。人もぎこちない。
「歌を一曲分やったら交代」
リュミアがぽそっと言った。
言われて、若者が笑って頷く。空気が少し柔らかくなる。
「ガルド、歩幅」
「おう」
ガルドが前に出て、掛け声を揃えた。
牛の足取りが落ち着く。畝がまっすぐになる。深さが揃う。
「……前より早くないか?」
「牛が息切れしてないぞ」
ざわつきが、いい方向に広がる。
三割増やすって、数字だけだと怖い。でも“牛が楽そう”って実感は、村を動かす。
4. 鍛冶場「標準犂とハローの量産」
昼前、鍛冶場を回った。
現場を見ていて、道具の数が足りないのが分かってきた。犂もハローも、今の数と強度だと、三割分を回す途中で折れるか、順番待ちで人が余る。
犂は、土を深く起こして、上下をひっくり返す道具だ。深耕と天地返し。雑草の根を埋めて、土の中に空気を入れる。
ハローは、起こした土の塊を砕いて、表面をならす。砕土と整地。播く前の“仕上げ”だ。
グレンのところは、いつも熱と音が詰まっている。鉄の匂いが、鼻の奥を刺す。
「図はいらねぇ。寸法と荷重だ。どこに力が掛かる?」
グレンが言う。
俺は一度息を吐いてから、グレンに向き直った。
「はい。刃の角度はこのくらいにしたいです。土が返る方向が安定します。柄は、この刻みで同じ長さに揃えてください」
木工の大工が、柄に刻みを入れていく。
“標準”が生まれる音だ。これがあると、次から迷わない。
俺は木片に土を塗って、簡易模型で見せた。
「この角度だと、土がこう返ります。返りが浅いと雑草が残りますし、深すぎると牛がしんどいです」
「……ふん」
グレンは不機嫌そうに見えるけど、手は止まらない。
で、量産に入った瞬間――嫌な予感が現実になった。
一本目は良い。二本目も、まあ良い。
三本目で、刃先が欠けた。四本目は曲がった。
「おい。硬すぎだ。割れるぞ」
「こっちは柔ぇ。土に負ける」
火の具合が揺れている。炉の癖。外の風。朝の冷え。
同じ手順でも、同じ刃にならない。
胃がきゅっと縮む。
――やばい。ここで止まったら、三割の現場が“待ち”で詰まる。
その時、背後から静かな声が落ちた。
「……大丈夫。ゆっくりでいい。智也のやり方で、揃えていこ」
リュミアだ。
いつの間にか、鍛冶場の人の間に立っている。距離は近いのに、押しつけがない。
「焦ると、ばらける。揃うまで、順番にやればいい」
短い言葉なのに、背中が一段軽くなる。
俺は息を吐いて、板を引っ張ってきた。
「ありがとうございます。では、手順を揃えます」
炭で書く。
炉の温度の目安(色)
入れる順番
出す順番
水桶の位置
「ここを固定します。あと、風が当たると揺れます。炉の口も——」
言いかけて、グレンが舌打ちした。
「分かってる。だが今日は揺れる。……火、借りるぞ」
グレンが外へ声をかける。
火が得意な村人が一人、入ってきた。手のひらを炉の前にかざす。
――火の魔法。
派手じゃない。炎が伸びるわけでもない。
ただ、炉の奥の“ムラ”が静まる。熱が一枚の板みたいに整う。
「今だ。連続でいく」
グレンが言い、同じ手順で焼き入れを通していく。
俺は横で、時間と色を声に出して数えた。
「今の色です。はい、ここで引き上げ。水、いきます。次、同じです」
数分だけの“窓”。
火の魔法は、ここで終わる。
でも、残るのは手順だ。刻みだ。板に書いた順番だ。
刃が揃い始めた。欠けない。曲がらない。
鍛冶場の空気が、また前に進む。
リュミアが俺の視界の端で、ほんの小さく頷いた。
言葉はない。でも、ちゃんと「一緒にいる」って感じがする。
5. 夕方の現場「道具が揃って、三割が回り出す」
夕方。
新しい犂と、小さめのハローを担いで、段々畑の下段へ向かった。
「ここが播く場所。ここを勝たせる」
俺が言うと、エルナが木札で境目を示す。
「下段は“今日”。上は“通路と石退け”。やりすぎない」
「いいね」
ガルドが人を回す。二人一組。交代の順番。
牛は、さっきより落ち着いて歩いた。ヨークの当たりがいい。呼吸が楽そうだ。
犂が土を返す。
揃った刃の感触は、気持ち悪いくらい気持ちいい。抵抗が一定。畝が揃う。牛が変に引っ張られない。
「……同じだ」
若者がぽつりと言った。
「同じ、って大事だよね」
エルナが、にへっと笑う。
上段は、やりすぎない。
石をどける。通路を踏み固める。排水の肩を崩さない。
三割を増やすって、“全部を三割増やす”じゃない。播く所を勝たせるために、他を抑える。
日が落ちかけた頃、俺はエルナの板を覗いた。
「今日できたこと——段の下段、耕起。溝の肩、点検。犂、二本完成。ハロー、一つ。
明日やること——上段の石退け、吐き口の石追加。……こんな感じでいい?」
「完璧」
俺が言うと、エルナは照れたように鼻で笑った。
溝は、勝手に働いている。
段は、崩れていない。
牛は、息を切らしていない。
道具は、揃っている。
三割が、数字じゃなく“現場の手触り”になっていく。
俺は遠くの杭の線を見て、心の中で確認した。
(越えない。崩さない。回す)
背後で、リュミアが小さく言った。
「……進んだね」
「うん。進んだ」
それだけで、今日は十分だった。




