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第21話 畑の拡張① -丘から始まる三割計画 -

1. 杭の線を作る


 炉の火がぱちりと鳴った夜のことが、まだ手のひらに残っている。

 「大丈夫だ。急がん。――明日、見てから決めよう」

 あの短い言葉が、肩の力を抜く合図みたいで。


 翌朝。畑の端は白い息で満ちていた。

 二頭の農耕牛が反芻し、背の筋肉がゆっくり盛り上がって沈む。くびきの跡は、去年の秋の疲れをそのまま固めたみたいに硬い。


「……人。多いか?」


 隣で腕を組んだガルドが、畑の方を顎で指した。

 若者が数人、鍬と杭を抱えて集まっている。増やす年、って空気に当てられて、目が妙に明るい。


「多い方がいいけど、勢いで越えるのはダメだな」


 俺は牛の首元に手を伸ばし、古い擦れの跡を見た。今日じゃなくても、どこかで直さないとまた痛む。


「まず、線を作る。数字で揉める前に、目で分かる線だ」


 言いながら、板切れに炭で印をつける。

 今の畑を“十”だとしたら、増やすのは“三”。――畑の横幅なら、今の幅を十歩と見て、三歩ぶん足すくらい。

 それ以上は、今年は触らない。


「承知しました」


 声がして振り向く。ラナが、外套の裾を握ったまま立っていた。漆黒の毛並みは朝の光を吸い込み、目だけが澄んでいる。


(……妙だな。ラナが立った場所、沈んでない。俺らがぐにっと踏み抜く所を、最初から避けてる。あの足運びを“通路”にしたら、みんなの足が取られにくいんじゃ——)


「水の筋、見ておきますわ。今の流れと、午後の流れが同じとは限りません」


 言われて、さっきの思いつきがただの感想じゃなくなる。

 観察が上手い人の足運びは、そのまま地面の答えだ。通路の目安にするだけで、作業が一段軽くなる。


「助かる。……じゃあ、ラナは流れを見る。ガルドは杭と人の段取り。エルナは——」


「うん。板、持ってきたよ」


 のんびりした返事と一緒に、エルナが木札の束を揺らす。

 近い。気づいたら、俺の肘に当たりそうな距離で札を抱えている。木札がこつんと俺の肘に触れて、妙に心臓が跳ねた。


(……落ち着け。たかが木札だ)


 本人はいつも通り、何事もない顔で札を整える。ずるい。


「今日、みんなが不安に思ってること——これだけあるよ」


「……助かる。あとで整理する」


 最後に、リュミア。

 いつの間にか俺の後ろにいて、視線だけで「朝の段取り」を確認してくる。言葉は少ないけど、手が止まらない人だ。


「今日聞いた心配は、これ。明日までに直せそう?」


 不意に、昨日の夜の椀の湯気がよぎる。肩甲骨に置かれた、短い触れ方。

 ——外れても、直せる。

 その言い方が、今も胸の奥で支えになってる。


「一回、手順を整理する。いけるところからやろう」


 俺は杭を一本取り、地面に突き立てた。乾いた音じゃない。湿った土が、ぐに、と受け入れる音。

 春は水が気まぐれだ。長老の言葉が、いきなり足元から現実になってくる。


2. 丘の上の「畑診断」


 丘へ登る道は、まだ冷たい。地面は硬いのに、表だけぬるぬるしている。

 丘の上に出ると、村と畑が一望できた。低い場所の色が濃く、細い光の筋みたいに雪解け水が走っているのが分かる。


 俺は棒で地面をならし、簡易地図を描いた。

 黒土の帯。去年よく実った場所。そこを、少し横に伸ばす。

 反対に、春に水が溜まって足を取られる窪地は、広げない。


 その「広げない」を、図に太く書く。勢いが出るほど、禁止線が必要だ。


「今年は、今の畑に“三割ぶん”足すところまでにする。越えない線も、先に作る」


 口に出して、自分にも言い聞かせる。

 数字が苦手な人もいる。だから数字だけじゃなく、越えない線を先に作る。


「状況を整理いたします。苦しくなる所と、役目を分けましょう」


 ラナが、地図の水の筋に指を落とした。

 その指は迷いがない。視線が低地へ滑る。


「この筋は、午前と午後で変わりますわ。太陽が当たると、上の雪が溶ける速さが変わる。……まず午前の流れを見てから、溝の位置を決めるのがよろしいかと存じます」


「うん、いいね。じゃあ午前は観察、午後に掘る」


 エルナが軽く頷く。

 余計な言葉を足さずに、「じゃあ、こうしよ」で手を揃えていく。村の空気が散らばりそうな時、エルナの言い方は不思議と効く。


 リュミアが地図の端を指先でなぞった。


「『増やす』じゃなくて、『詰まらせない』。……それ、みんなに伝える」


 声は小さいのに、言葉が真っ直ぐだ。


「助かる」


 丘の上の風が、まだ冬の匂いを残していた。


3. 地面に描く「三割の線」


 俺は黒土の帯の横に、細長い長方形を描いた。そこが“増やすぶん”だ。

 エルナが木札を並べる。今耕してる場所の札を置いて、横に同じ向きで札を三枚足す。


「今が十なら、増やすのが三。——これで『三割』、だね」


「そう。ここまで。線の外は、今年は手を出さない」


 ガルドが短く頷く。


「越えそうなら止める。俺も見て回る。……無茶はさせない」


「頼む。勢いで“もう一畝”が一番怖い」


4. 斜面の試験区「段と溜池と、回し方の共有」


 地図の斜面を指し、俺は小さく区切った。


「ここは、いきなり大きく作らない。試験区だ。上に小さな受けを作って、下に二、三段だけ段を切る」


 雪解け水が一気に走ると、畑の端が削れたり、ぬかるんで作業が止まったりする。

 受けて、落ち着かせて、逃がす。——それができれば、春の水で畑が荒れる回数を減らせる。


 それから、畑の使い分けの話に移る。

 ただ、ここは“新しいルール”を押しつけるつもりはない。村は昔から、ちゃんと回してきた。


「畑の回し方は……みんな、もうやってる。土が痩せたら、豆を多めにしたり、草を挟んだり。匂いと色で判断してるでしょう」


 年長の顔が、少しだけほどけた。

 “知らないことをやれ”じゃなくて、“やってることを言葉にする”なら、受け止められる。


「俺がやりたいのは、その経験則を“みんなで同じ向き”に揃えることです。

 この畑は今年は麦が多い、とか。ここは豆と根の年、とか。草を伸ばして休ませる年、とか。名前をつけて、札で見えるようにする。そうすれば、引き継ぎでも揉めにくい」


 エルナが札を指で弾いて、うん、と頷く。


「経験は、消えないけど……人の頭の中だけだと、ずれるんだよね。板に残そ」


「そう。板に“今の決め方”を残す。新しい決まりじゃなくて、今の知恵の写しだ」


5. 雪溶け水の「排水クラフト」


 午前。ラナが水の筋を追い、低地の縁で止まった。


「……変わりますわ。流れが、寄ってきています」


 細い筋が太くなって、黒土の帯の縁へ刺さろうとしている。

 放っておけば、増やすぶんどころじゃない。今の畑まで荒れる。


「排水、先にやる。畝を作る前に、逃がす」


 俺は棒で溝の予定線を引いた。浅く、足首まで。深くしない。深くすると崩れる。

 枝束ファシーンと石で底を押さえて、杭と板で入口を細くする。


 ——が。


 掘ったそばから埋まる。水が湧き戻り、泥が崩れて流れ込む。

 「掘る→崩れる」のループ。焦ると深掘りして、事故るやつだ。


「待って、今のままだと危ない……! いったん止めよう!」


「下がって! そこは折れます!」


 ラナの制止が重なる。


 その瞬間、俺の足元が滑った。溝の縁が崩れ——


「待って。足元、危ない……!」


 リュミアの声。手首が強く掴まれて引かれる。

 泥に落ちずに済んだ。


「……大丈夫?」


「……助かりました。ありがとうございます」


 心臓が一拍遅れて追いつく。手首に残った熱が、妙に生々しい。


「水、いま脇に逃がす。……長くは無理」


「お願いします。その間に、形を残す」


 リュミアが指先を上げる。空気が冷たく震える。

 水の勢いが“細く”なる。完全に止まらない。でも作業できる窓が開く。


「ガルド! 溝底、締められる? 表面だけでいい!」


「分かってる」


 ガルドが掌を土に当てる。土が“落ち着く”。盛り上がらない。造成しない。ただ崩れにくくなる。


 枝束。石。薄い土。勾配。杭で高さの目印。

 魔法が切れても回るように、俺は手順を急がせた。


 視界の端で、リュミアの襟元が濡れているのが見えた。跳ねた水が布を重くして、胸のあたりに張り付いて——


(やめろ、見んな。段取り)


 目を溝へ戻す。

 でも、妄想してしまう。濡れた布の冷たさと、その下の肌の温度を。


「……終わった?」


「あと少し。出口を石で固める」


「うん」


 リュミアが指先を下ろす。水が戻る。

 でも溝は崩れなかった。水は溝を選び、黒土の帯の縁を避けて流れていく。


「……通った」


「通ったね。じゃ、板に残す?」


 エルナの声で、ようやく“仕組み”になった気がした。


「残す。溝の位置、杭の数、枝束の量。全部」


 エルナはすぐ木札を引き寄せ、刻む内容を口に出して確認する。


「溝の始点は、杭ふたつ分外。枝束は、束で六。石は——重いのは端に。軽いのは底。……うん、これで次が迷わない」


 リュミアは溝の流れを見て、短くまとめた。


「魔法は、今日の一回で十分。次からは……この溝が働く」


「そうする。……ありがとう、リュミア」


「うん」


 それだけ。

 でも、その短い返事が、俺には妙に大きい。


6. 線を刻む約束


 夕方、丘にもう一度だけ登る。

 朝の地図に、溝の線が増えた。禁止線が太くなった。三割の枠が、ただの数字じゃなくなった。


 三歩ぶん。たったそれだけのはずなのに。

 線が増えると、畑が本当に“広がった”ように見える。頭の中の計算が、地面の現実に追いついてくる。


 ラナが地図を覗き込み、しばらく黙っていた。

 それから、ほんの小さく息を吐く。


「……すごいな、と存じますわ」


「え?」


「増やすと言っても、ただ広げるのではなく——先に“詰まる所”をほどいて、線で人を迷わせない。……それで、三割が現実になりますのね」


 村一番の美貌と、すっと通った姿勢。言葉も所作も隙がなくて、目が合うだけで妙に背筋が伸びる。

 そのラナに、真っすぐ褒められて嬉しくならない男がいるなら、逆に会ってみたい。


「……褒めるな。咳払いしとく」


 俺はわざとらしく咳をして、棒を持ち直した。


 ガルドが短く言う。


「……筋は通ってる。やるなら、崩さずいこう」


「うん。崩さない」


 エルナがくすっと笑う。


「じゃ、板には“越えない線”も刻んでおこ? 忘れないように」


「頼む」


 村へ戻る道すがら、リュミアが俺の横に並んだ。

 

(……外れても、直せる)


 胸の奥で、その言葉をもう一度だけ転がして、冷たい空気を吸い込んだ。


「……じゃあ、やるか」


 小さく言うと、リュミアの尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。

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