第2話《転生早々に道端で力尽きる俺と、闇に揺れる猫耳》
1. 水面に映る「知らない」自分
右の道は、細く、暗かった。 木々が頭上を覆い、太陽の光はほとんど差し込まない。足元は湿っていて、ところどころ苔が生えている。
(……右を選んでよかったのか……?)
胸の奥がざわつく。けれど、棒が倒れた方向へ歩く以外に、今の俺には選択肢がなかった。
どれくらい歩いたか、分からない。 途中で、昨日よりも水量の多い沢が現れた。岩を伝って流れる水は冷たく、透明だった。
膝をつき、水を飲もうとして――水面に映ったものに、手が止まった。
(……え?)
そこに映っていたのは、見慣れたようで、どこか違う顔だった。 黒髪。日本人らしい平凡な顔立ち。けれど、頬のあたりが引き締まっていて、目の下のクマも消えている。
(待て。俺はこんな“フレッシュな顔”じゃなかったはずだ)
残業続きで鏡を見るたびにげんなりしていた、三十路の自分の顔じゃない。 どう見ても二十歳そこそこ――感覚的には大学生の頃に近い。
立ち上がってみると、さっきまでより足取りが軽い気がした。
(……マジで、若返ってる? 十八とか、そのくらいか……?)
場違いな興奮が、一瞬だけ胸の奥で弾ける。 だが、すぐに現実に引き戻された。
若返ろうが何だろうが、ここは見知らぬ森の中だ。遭難しているという事実は変わらない。腹は減っているし、助けが来る見込みもない。
「……とりあえず、水だ」
結局、現実的な結論に戻ってくる。手ですくい、水を飲む。
「……助かる……」
水が体を巡るたび、少しだけ力が戻った気がした。
2. 孤独という重り
時間の感覚が、だんだん曖昧になっていく。 足は重く、頭はぼんやりしてきた。
(……コンビニのおにぎり一個でいいから食いたい……)
そんなことを考えた瞬間、よだれが出そうになった。 けれど、現実にあるのは、見たこともない木の実と毒々しい色の草だけだ。
昨日の果実の痛みが、まだ体に刻み込まれている。二度と、あんな賭けはしたくない。 棒を杖代わりに握り直し、再び歩き出す。
苔に足を滑らせ、派手に転んだ。
「っぐ……!」
泥の冷たさが、顔にまとわりつく。 体を起こそうとするが、腕が震えて力が入らない。
昨日からの疲労と、腹痛の残りと、空腹。 全部まとめて、体の中で鉛になっているようだった。
(立て……立てよ、俺……)
無理やり膝を立てようとした瞬間、急に視界が揺れ、火花が散った。
(あ……だめだ……)
体が横に倒れる。頬が冷たい苔に触れた。 森の音が、少しずつ遠ざかっていく。
3. 森に溶ける意識
「……こんなところで……死ぬのか……」
うつ伏せのまま、声にならない声で呟く。
日本なら、遭難すれば捜索隊が来てくれたかもしれない。スマホも圏外だとしても、時間が経てば誰かが気づいてくれるだろう。
でもここは違う。 誰も俺を知らない。俺がここで倒れていようが、世界のどこにも通知は飛ばない。
(嫌だ……)
胸の奥の、張り詰めていた糸が切れた。目尻が熱くなり、視界がにじむ。
「……まだ……死にたく……ない……」
かすれた声が、土に吸い込まれた。
意識が途切れた。 目を開けた時には、森は深い青に沈みかけていた。昼と夜の境目。 木々の間に残ったわずかな光が、逆に不気味さを強調している。
(……足が……動かない)
もはや、這うことすらできなかった。 指先に力を込めても、土をかくだけで前に進まない。
(棒……)
さっきまで杖代わりにしていた棒は、少し離れたところに転がっていた。 手を伸ばしても、あと少しのところで届かない。
(……ここで……終わり、か)
息が白くなる。体の熱が、少しずつ地面に奪われていく感覚。 森が、口を開けて俺を飲み込もうとしているように思えた。
4. 灰色のシルエット
その時――。
かすかな足音が聞こえた。 軽い足取り。けれど、地面を跳ねるような、不思議なリズム。
(……幻聴、か……?)
耳を澄ませる。落ち葉を踏む音が、だんだん近づいてくる。 森の闇の向こうに、影がひとつ、揺れた。
「……だれか……?」
喉がひどく乾いていて、自分でも聞こえないほどの声しか出ない。 それでも、影は確かにこちらへ歩いてきた。
柔らかな足音の主が、俺のすぐそばにしゃがみ込む。 視界がぼやけていて、輪郭しか見えない。けれど、そこに“人の形”があった。
そっと、慎重に、俺の肩へ触れる感触。
「……大丈夫……?」
その声を、聞いた瞬間――体の奥が、変なふうにしびれた。
(……日本語……?)
聞いたことのないイントネーションなのに、意味ははっきりと頭に入ってくる。 疑問が形になる前に、意識がふっと暗闇に落ちた。
最後に見えたのは、揺れる影の向こうで、猫の耳のように見えたシルエット。
(……猫耳……?)
それが幻だったのか、見分ける余裕は、もう残っていなかった。




