第19話《種籾の余白と、春の境界線》
1. 「春の飢饉」という現実
炉端の小屋の中は、まだ冬の名残の冷気と炭の煙が混じり合っていた。中央の囲炉裏の火が、赤く揺れている。
年寄りたちが輪になって座り、湯気の立つ木椀を手にしていた。ほんのり茶色い粥は、麦に智也のどんぐり粉を混ぜたものだ。
「……あの年なんぞ、冬を越えてからのほうがきつかったな」
白い髭を撫でながら、一人がぽつりと言った。
「雪が消えて『助かった』と思ったのも束の間。蔵は空っぽ、畑はまだ芽も出ねぇ。春の風は気持ちいいってのに、腹の中はひゅうひゅう鳴って、立ってるのもやっとだった」
「“春の飢饉”か」と別の老人が頷く。 「冬は皆で譲り合うが、春は『もうすぐ楽になる』と自分をごまかしちまう。気づいたときには足に力が入らねぇ。草が食えるようになる前に倒れるやつが、毎年何人かはいたもんだ」
智也は、火を見つめながらじっと耳を傾けていた。
(……冬を越えたのに、春に死ぬ。現代日本なら昔話だが、ここでは地続きの現実なんだ。今年はどんぐり粉とサケの備蓄で最低限のカロリーは保てている。でも、まだ“在庫の谷”を渡りきったわけじゃない)
智也は静かに椀を置いた。
「……皆さん。今年はその『春の飢饉』、起きなさそうでしょうか」
老人たちは顔を見合わせて、少し笑った。 「今年はおめぇのおかげでな。どんぐり粉のパンなんざ、昔は“罰のパン”なんて呼ばれたもんだが……背に腹は代えられん。腹が膨れりゃ文句も出ねぇよ」 「サケもあんなに吊るした年は初めてだ。……まあ、だからって油断はできんがな」
2. 倉庫の数字と、予期せぬ「視線」
翌日、智也はエルナと一緒に村の高床倉へ入っていた。棚には麻袋が積まれ、板札には炭の印が並んでいる。
「例年なら、種に回す分を除いたら残りは数袋なんだけど……」 エルナは指で印を追い、眉を上げた。「今年は種として確保できる量、いつもの年の二倍近いよ」
智也は棚の麻袋を軽く押してみた。智也が提案した「どんぐりかさ増し」のおかげで、本物の穀物の消費が劇的に抑えられた結果だ。
「もったいないよ、ここで全部食べ切っちゃうのは」
エルナはふわっと笑って、そのまま反対側の棚の前にしゃがみ込んだ。 袋の口縄を確かめるために深くかがみ込んだ拍子、板壁の隙間から差す冬の光が、服の隙間から覗く白い胸の谷間をやけに鮮明に浮かび上がらせた。
(……うわ、目のやり場が……!)
智也は反射的に視線を逸らした。 「……どうしたの? 顔、固いよ」 「い、いや。大丈夫。……なんでもない」
智也は強引に咳払いをひとつして、膝に板を固定し、炭を走らせた。 「……じゃ、計算する。畑を増やせる種の量は二倍弱だ。でも、牛と人と農具の数は変わっていない。種の数に合わせて広げすぎると、どこかで必ず『詰まる』」
エルナがしゃがんだまま板を覗き込む。距離が近い。 「数字にすると、ここが重いね。じゃあ智也くん、順番を変えようか? 『増やす』んじゃなくて、『詰まらせない』工夫を考えようよ」
3. 春の軍議と、ラナの慧眼
夕方。族長の小屋には、ガルド、エルナ、リュミア、そして凛とした佇まいのラナが集まっていた。
「お時間をいただきありがとうございます。種籾が余っている件、畑を増やすべきかどうか相談させてください」
族長は頷き、重みのある声で言った。 「種が余った、というのは吉報だ。だが勢いで広げれば、耕すのも刈り取るのも手が足りなくなる。智也、お前の見立てを聞こう」
智也は板に描いた粗い畑図を示した。 「種の量だけなら二倍にできます。でも、牛の馬力と人の工数は限界です。拡大は二〜三割に抑え、そこに手間を集中させるべきだと考えます」
「智也殿のお考え、誠に理にかなっていますわ」
ラナが静かに口を開いた。 「ですが、春は雪解け水が地を乱す季節。水の道筋をあらかじめ見極めておかなければ、せっかく増やした畑が流されてしまう懸念がございます。智也殿、明日、よろしければ現地を共に見に行きませんか?」
ガルドも腕を組み、頷いた。 「黒土の場所なら手間をかける価値はある。だが窪地はダメだ。あそこは春になるとぬかるんで人を食う」
族長は最後に、短く結論を置いた。 「よし。拡大は二〜三割、場所は黒土に絞る。智也は『やり方』を、ガルドは段取りを考えろ。ラナは水の筋を智也と見てやってくれ。……大丈夫だ、急がん。明日見てから決めよう」
4. 現場の「力」と、エンジニアの苦悩
畑の端で、二頭の農耕牛が白い息を吐きながら反芻していた。
「こいたちが、この村のすべてだ」とガルドが鼻を鳴らす。「日は昇る前から沈むまで引かせても、今の畑でギリギリなんだ。これ以上無理をさせりゃ、牛が壊れるか、人が倒れる」
(牛も人も農具も増えていない。数字の上でできることと、現場でやりきれることの間の溝か……) 智也は、前の世界で経験した「リソース不足なのに目標数値だけが釣り上がるプロジェクト」を思い出し、胃のあたりが重くなるのを感じた。
「だからこそ、二〜三割に絞るんだ。堆肥と水と手間を、その『選んだ場所』にだけ寄せる。効率を最大化するしかない」
5. リュミアの「信じる力」
夜。家に戻ると、囲炉裏の火が小さく揺れていた。
「おかえり、トモヤ」とリュミアが言った。
「ただいま。……リュミア、計算ではいけるんだ。でも、現場は板の上の数字通りには動かない。雨が降れば遅れるし、人は疲れる。……本当に大丈夫かな、ってさ」
弱音が火の熱に溶けて落ちる。リュミアは少しだけ体の向きを変え、智也の横顔をじっと見た。
「大丈夫、トモヤ?」 「……正直、言い切る自信はない」
「うん。でも、トモヤは『止まれる』人だから」
リュミアは板の図を指で叩いた。 「トモヤには計算がある。線がある。……越えそうになったら、あなたが止めればいい。みんなには、私から伝わるように言うから」
「……分かるかな、みんな」
「分かるよ。トモヤが『ここまで』と言えば、みんな納得する」
迷いのない返事。それは根拠を超えた、信じる側の強さだった。 リュミアは立ち上がり、温かい椀を智也の前に置いた。そして、そっと彼の背中に手を置いた。重さを預けるだけの、温かい触れ方。
「……計算、当たるといいね」 「……当てにいくよ。それが俺の仕事だ」
「うん。外れても……また一緒に直せばいい」
智也は湯を一口飲み、腹の底に熱を落とした。 「明日、杭を打つ。『この線の外へは絶対に出ない』って形にするよ。それが一番安全だ」
リュミアの尻尾が、一度だけ小さく、肯定するように揺れた。




