第13話《銀の遡上と、風の来訪者》
1. 川の前兆と、古老の「ほどほど」
川の音は、石臼のゴリゴリという音とは違う。 絶え間ないざわめきが、腹の奥にまで響いてくる。
朝の作業をひと段落させて、俺たちは村外れの川まで出てきていた。 岸近くには丸太と枝を組んだ簡易的な簗がいくつかあり、水面で銀色の小魚が時折跳ねている。
「ほら、入った」
リュミアがしゃがみ込み、簗の端に括りつけた小さなカゴを持ち上げた。 中で指二本分くらいの魚がぶるぶると震えている。
「今日の汁ものの具にはなるね」 「うん。……でも、こういうのを、もっと“積み上げて”いかないとな」
(どんぐり粉の生産は回り始めた。でも、冬を越すにはそれだけじゃ足りない。身体を維持するための肉と脂……タンパク質が決定的に要るんだ)
少し離れた岩の上に、元漁師の古老たちが腰を下ろしていた。 下流側の村から移り住んできた人も混じっているらしい。
「そろそろじゃな、若いの」 「何がですか、ご隠居」
俺が尋ねると、古老はゆっくりと笑った。
「サケの遡上よ。山の方から、でっかいのがようけ戻ってくる。 年によっちゃ、川底が見えんくらい“銀色”になることもあるわい」
「そんなに……」
「網を投げりゃ、重さで肩が抜けそうになる。 じゃがな、よう欲張って簗を組みすぎると、大水にまとめてさらわれる。 人も折れる。木も折れる。……何事も“ほどほど”が一番なんじゃよ」
“ほどほど”。それは長年の経験から導き出された、自然との折り合いなのだろう。 だが、それで毎年同じように冬に飢えるのだとしたら。
「古老さん。大水のとき、簗はどこから壊れましたか? 流れはどっちに強くなって、流木はどこに溜まりやすいのか……教えていただけませんか」
「ほう?」
古老たちの目が、少しだけ鋭くなった。
「それが分かれば、壊れにくい簗と堰を、試しに作れるかもしれません」
2. 『線』を作る設計
午後。川辺にいつもの現場メンバーが揃った。 鍛冶屋のグレンさんは腕組みで川を睨み、エルナは帳簿板を抱え、ガルド、ラナ、リュミアもそこにいる。
「それで、智也くん。今日はここで何を描くの?」
エルナが、もう“設計モード”の目で笑う。
「今ある簗が壊れる原因を整理したいんです。流れが全部ぶつかる位置に柱が立っているから、そこが折れると連鎖的に崩壊する。だから……“全部は止めない”設計にします」
俺は砂の上に棒で図を描いた。 本流を少しだけ曲げて、魚が通りやすい『道』を一本だけ作り、外側は『逃がし水』で水圧を逃がす仕組みだ。
「理屈はわかりますわ。……ですが智也殿」
ラナが川の流れを指差し、冷静に言葉を継いだ。
「この地盤の緩さでは、本流の勢いに耐えきれず根元から持っていかれる恐れがあります。 石床をもっと厚くして、杭を打つ角度を工夫するのがよろしいかと存じますわ」
さすがは現場を預かる戦士だ。具体物としての強度を誰よりも敏感に察知している。
「その通りです。だから最初は、この穏やかな場所で試作品を組みましょう」
グレンさんが鼻を鳴らした。 「ふん。言うだけならタダだ。……だが、筋は通るな」
3. 設計の穴と、転びかけた一瞬
作業が始まった。ガルドが丸太を担ぎ、グレンさんの指示で杭を打つ。 流れが変わり、魚道側に『筋』ができる。小魚が面白いようにカゴ罠に溜まっていくのを見て、ガルドが感嘆の声を漏らした。
その時、水音の調子がふと変わった。
「……水位の上がり方、変じゃない?」
エルナの声と同時に、上流から巨大な影が水面を割って現れた。 濡れた鱗。黄色い縦長の瞳。魔物、シーサーペントだ。 太い身体を試作簗の柱に絡みつかせ、ギリギリと嫌な音を立てる。
「そこ、あと一回ぶつかったら折れる! 離れろ!」
俺が叫ぶ。ガルドが跳び退き、ラナが斬り込んで注意を逸らす。 その混乱の最中。予備の杭を抱えて走っていたリュミアの足元で、未完成の石床がガクンと沈んだ。
(……やばい! 基礎が薄すぎた!)
「っ——!」
リュミアがバランスを崩し、水際へよろめく。 その瞬間、シーサーペントの黄色い目が、明確に獲物として彼女を捉えた。 水面を滑るように突進してくる。
「リュミア!」
間に合わない、と思った刹那。 風を切る音が響き、矢が一本、シーサーペントの目元に突き刺さった。
蛇体が苦悶にのけぞる。俺はその隙に駆け出し、彼女の手首を強く掴んだ。
「大丈夫か!?」
ぐいっと引き上げた拍子に、水を吸った彼女の下半身の服が肌にぴたりと張り付いた。 腰からお尻にかけての柔らかなラインが露わになり、俺は心臓が跳ねるのを感じて慌てて視線を逸らした。
(……いかん、今はそれどころじゃない。落ち着け、俺)
4. 風の来訪者
「やれやれ。間に合ったかな」
のんびりした男の声が、上流の岩場から降ってきた。 褐色の肌に長い弓。そして背には、畳まれた大きな翼があった。
「レオン……!」
ガルドが叫ぶ。彼は翼を一振りすると、風を踏むように鮮やかに降りてきた。
「怪我はない? リュミア」 「あ……うん。助かった、ありがとう。レオン」
リュミアの耳が、安堵で少し落ち着きを取り戻す。ラナも剣を収め、小さく会釈した。 レオンは試作簗を眺め、口笛を吹いた。
「へえ。こんな山奥で面白いもの作ってるね。全部止めてないし、逃がし水がある。……悪くない考えだ」
レオンの好奇の目が俺に刺さる。俺は居住まいを正し、彼に向き直った。
「高瀬智也です。俺がこの簗を設計しました。……でも、基礎が甘かった。そこは俺の見落としです」
「そうか。俺は隣村に住むレオンだ。よろしくな、智也」
レオンは軽く手を挙げ、それからリュミアの隣に自然な仕草で立った。 「川の流れは怖いけど、方向を決めてやれば案外素直だよ。……俺に手伝えることがあれば、言ってよ」
仲が良さそうに見える二人の姿に、胸の奥が少しだけ、ちくりとした。
5. 保存の設計図
その日の作業を終え、俺は焚き火のそばで板に新しい図面を写していた。
魚道の補強。石床を厚くし、地盤を固める工夫。 魔法でも倒せない自然の猛威に対して、俺たちはこの『クラフト』で立ち向かう。
(獲る仕組みの目処は立った。だが——)
現代の知識が、次の難題を突きつけてくる。 大量に獲れた魚を、どうやって冬の間まで持たせるか。 塩は貴重だ。そのままでは数日で腐ってしまう。
(必要なのは、保存の仕組みだ。干場を高く作り、煙で燻し、水分を抜く。……燻製小屋が要るな)
火の粉が夜空に昇っていく。冬の匂いはもう、すぐそこまで来ている。
「……次は、燻製だな」
俺は板を強く握り直した。 どんぐり粉と、銀色の魚。二つの歯車が噛み合えば、きっとこの村は、今度こそ安心して冬を迎えられるはずだ。




