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第108話《摩耗する知覚と、豪雨の盲点》

1. 知将の懐中時計:摩耗する『心』の計算


深い山影に溶け込むように、ゼノンは立っていた。


手にしているのは、帝国製の質実剛健な懐中時計だ。

その秒針が刻む一定のリズムだけが、豪雨の音に消されまいと抗っている。


「……交代まで、あと二十七秒」


ゼノンはここ数日、智也が構築した哨戒網を、執拗に秒単位で観察し続けていた。


(実に見事な設計だ。鳥人族の視域と、象人族の振動感知を組み合わせた『センサー・フュージョン』。理論上、死角は存在しない)


だが、ゼノンの瞳に映るのは「無敵の要塞」ではない。

そこにあるのは、限界まで引き絞られた「弦」のような危うさだ。


「効率的だ。だが、運用しているのは『心』を持つ獣人だ。完璧な仕組みであればあるほど、一度生じた『摩耗』は加速度的に全体を蝕む」


ゼノンは時計の蓋をパチンと閉じた。


彼が狙うのは、人間のバイオリズムが最も低下する深夜2時から4時の“空白の刻”。

さらに、帝国軍気象班が20年間蓄積した山岳気象データ——。


(今夜、この山域を襲う降水量は、一時間あたり80ミリを超える。真夏の超大型スコールがピークを迎えるその瞬間……。物理的な『ホワイトノイズ』が、彼らの耳を潰す)


自然の猛威すら、ゼノンにとっては設計図の一部に過ぎなかった。




2. 亡き父の幻:雨音という名のデッドウェイト


アイゼル砦、西側監視拠点。


「……はぁ、はぁっ……」


レオンは翼を激しく震わせながら、泥まみれの岩場に着地した。

雨が羽毛に染み込み、その自重は通常の三倍以上に膨れ上がっている。


(重い……。翼が、鉛みたいだ……)


視界は真っ白に塗りつぶされていた。

鳥人族の優れた動体視力も、この豪雨の前では「情報のオーバーフロー」を引き起こす。

レオンは震える手で、防水処理を施した哨戒ログに『異常なし』と書き込んだ。


その時だ。


雨のカーテンの向こうに、ぼんやりと人影が浮かぶ。


「……父さん……?」


レオンの父は、10年前、帝国への偵察任務で消息を絶った。

雨音が、不意に父の低い掠れた声に聞こえる。


『レオン……逃げろ……帝国の闇に、近づくな……』


「わかってる、父さん。でも、俺はもう……」


レオンは木箱に崩れ落ち、頭を抱えた。

極限の疲労が、脳内に蓄積された古い記憶の断片を、幻覚エラーとして出力し始めている。


(ダメだ。智也が言ってた……『疲れは判断力を奪う、ただの物理現象だ』って。でも、この声が止まらないんだ……)




3. ホワイトノイズ:周波数の海に沈む象の足


同じ頃、監視拠点の地面に膝をつく者がいた。

象人族のパドだ。


彼の巨体は、小刻みに、だが激しく震えていた。


「……重い……。地面が、重すぎるんだ……」


パドの役割は、智也が設計した『ミスリル針の振動増幅装置』を用い、地面を伝わる敵の歩法を特定すること。

だが今、彼の知覚は地獄と化していた。


(雨だ……。数兆の雨滴が岩盤を叩く衝撃が、低周波から高周波まで……すべてを塗りつぶしている)


これは工学で言うところの『ホワイトノイズ』。

全周波数帯域に及ぶ巨大な騒音が、敵の鎧が擦れる微かな『シグナル』を完全に遮断していた。


パドは地面に指先を押し当てる。


(……待て。今、0.5ヘルツ付近に、周期的なパルスが……? いや、これも岩盤の共振か? 俺の感覚が……壊れたのか?)


疲労とノイズ。

その二重苦が、パドの自信を粉々に砕いていく。

彼は自分の指先を疑い、歯を食いしばった。


「智也さんに……相談、しなきゃ……」


ふらつく足で、彼は指令室へと這い出した。




4. すれ違う救い:設計者エンジニアの不在


「智也さん……! いますか、智也さん……!」


パドが泥まみれで指令室の扉を叩いた時、そこに智也の姿はなかった。

対応したのは、疲弊した伝令兵だ。


「智也さんは今、麓の村の工房です。昨日から、リュミアさんやグレンさんと……」


その頃、標高差500メートル。


麓の臨時工房では、智也がランプの灯りの下で図面と格闘していた。


智也の頭の中は、これから行おうとしている作戦の物理的整合性で一杯だった。


(……みんな、もう少しだけ持ち堪えてくれ)


(俺がこの『仕組み』を完成させれば、この雨も、後のリスクも、すべて制御下コントロールに置けるんだ)


皮肉なことに、設計者が「必勝の仕組み」をブラッシュアップしているその瞬間。


その仕組みの前提条件である「索敵網」というインフラが、音を立てて崩壊していた。




5. 侵攻開始:沈黙の刃と蜜蝋のコーティング


午前二時。


雨脚はついにピークを迎えた。


アイゼル砦、背後の絶壁間道。


鳥人族ですら夜間は見張らない、垂直に近い断崖。


そこを、漆黒の影たちが這い上がっていた。


ゼノン率いる、帝国精鋭二千。


彼らの装備には、智也も驚愕するであろう「工学的な細工」が施されていた。


「……音が、消えている」


ゼノンは暗闇の中で、一振りの剣を抜いた。


甲冑のすべての接合部には、帝国産の高純度な『蜜蝋ワックス』が厚く塗り込まれている。


金属同士の摩擦を殺し、潤滑と防振の役割を果たす「サイレンサー」だ。


さらに、彼らは豪雨の叩きつけるリズムに合わせ、一歩ずつ歩法を同期させていた。


岩を叩く雨音という「環境ノイズ」の中に、自分たちの歩法を完全に埋没させる手法——。


「センサーが磨耗した今、ここはもはや不落の砦ではない。ただの、巨大な棺だ」


石積みの防壁に、最初の帝国兵が手をかける。


レオンは父親の幻影に涙し、空を見上げることを忘れていた。


パドはノイズの海に溺れ、指先の震えを「気のせい」だと自分に言い聞かせた。


最後の瞬間。


パドの巨体が、わずかに震えた。


「……来てる……」


それは、自分にすら聞こえないほどの微かな呟きだった。


次の瞬間、空を切り裂く雷鳴が、その声を無残にかき消す。


麓の工房で、智也が「完成だ!」と声を上げ、最後のネジを締め上げたその時。


砦の北側、暗闇の壁から——


雨に濡れた鋼の刃が、沈黙を切り裂いて現れた。

【読者の皆様へ】

最後まで読んでいただき、心より感謝申し上げます。

日常の忙しさの中で、数分でもこのファンタジーの世界を楽しんでいただき、現実から離れてリラックスできる一助となれば幸いです。


~もしよろしければ、ブックマークや評価で応援いただけると、執筆の励みになります!~


!!!皆様のおかげで、チラッとですがランキング入りしました。本当にありがとうございます。


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