第106話《泥濘(でいねい)の進軍、あるいは「数」の呪縛》
1. 黄金の椅子と、空疎な咆哮
ラグナ帝国、前線本営。
巨大な天幕の中には、戦場の土の匂いなど微塵もなかった。
高価な香が焚かれ、贅を尽くしたワインが卓に並ぶ。
そこに座る男たちは、これから数万の命を動かす将軍である前に、自らの領地の「格」を誇示する貴族であった。
「前回の敗戦は、臆病風に吹かれた兵たちの気合が足りなんだ。余の精鋭ならば、あのような小瓶(砦)など、数で押し潰してくれよう!」
カシウス侯侯爵が、宝石を散りばめた指揮棒で地図を叩く。
彼が提示する戦略は、呆れるほどに単調だった。
「五万の兵で全方位から取り付く」。
ただそれだけだ。
戦略将校たちが、アイゼル砦の通過容量の限界や、地形の勾配による戦力減衰を説明しようとするが、カシウス侯は聞く耳を持たない。
「余の言葉に異を唱えるか?」という一喝に、将校たちは苦虫を噛み潰したような顔で黙り込む。
(……無能な働き者は、敵よりも恐ろしいな)
ユリウスは、卓上の地図を無機質な瞳で見つめていた。
初めてこれほどの軍勢を率いる立場になったが、期待していた「帝国の威光」の正体は、あまりに脆く、そして傲慢だった。
その時、背後に気配が揺れた。
沈黙の将・ゼノンだ。
「皇太子殿下。皇帝陛下より特命を預かりました。精鋭三千、これより本隊を離れ、別任務に就きます」
「……わかった。父上の意図通りに」
ユリウスは短く答えた。
父――ラグナ皇帝は、この五万の軍勢が「まともな戦力」として機能しないことを予見している。
この帝国兵とボンヌ公国軍の混成部隊は、巨大な「舞台装置」に過ぎないのだ。
2. 醜悪な災害:略奪という名の本能
進軍が始まると、そこには「軍隊」の威厳などどこにもなかった。
五万の「塊」が移動する。
それは、大地を食い荒らす巨大な蝗の群れに近い。
(……酷いな。これが、帝国兵の正体か)
馬上のユリウスの視界に、いくつもの黒い煙が飛び込んできた。
街道沿いにある村々から上がっている煙だ。
それは炊事の煙ではない。
略奪の痕跡であり、抵抗した民の家々に放たれた火の色だ。
「補給は十分なはずだ。なぜ村を襲う」
ユリウスの問いに、カシウス侯配下の騎士が平然と答える。
「兵たちも長旅で気が立っております。酒と女、そして財宝……。それらは軍の士気を維持するための『正当な報酬』ですな。わざわざ堅苦しい兵糧を食うより、奪う方が手っ取り早い」
道端には、泥にまみれた老人が一人、力なく座り込んでいた。
彼の背後では、大切に育ててきたであろう家畜が兵士たちに屠られ、なけなしの家財道具が広場にぶち撒けられている。
「……去年も、来たじゃないか」
老人は、空虚な目で通り過ぎる軍勢を見上げ、掠れた声で呟いた。
その頬には、昨年の略奪で付けられたと思われる古い傷跡が残っている。
「去年も来て、全部持っていった。今年も、また来るのか。……この国はどうなっているのだ。我々に、死ねと言うのか」
老人の叫びは、馬蹄の音にかき消されていく。
村の広場では、自軍の兵士たちがたった一個の宝飾品を巡って、互いに剣を突きつけ、奪い合っていた。
一人一人は、厳しい訓練を積んだ強い戦士だ。
だが、規律を失い、個々の欲望に身を任せた全体となれば、それはただの醜悪な災害だった。
(……この醜悪さはなんだ。だが、これも現実だ。私はこれを無くしていかなければならない。考えねば、この国が内側から腐り果てる前に)
3. ルーン大河:停滞する贅沢品
帝国軍五万の歩みは、王国との国境である「ルーン大河」で完全に止まった。
川幅は約50メートル。国境ゆえに橋は架かっておらず、五万の軍勢は舟で兵を送り出すしかない。
だが、岸辺を埋め尽くしていたのは、兵士や武器ではなかった。
「貴公! どけと言っている! 余のベルベットの長椅子に傷がついたらどうする!」
「このワインは帝国産の一級品だぞ! 振動を与えるな!」
カシウス侯ら貴族たちが持ち込んだ、戦場にはおよそ不必要な贅沢品の山だ。
金糸の刺繍が入った着替えのドレス、特注の巨大な鏡、装飾過多な木製の寝台。
兵糧や矢の束よりも、貴族たちの「快適な生活」を支えるための荷物が、優先的に舟へと積み込まれていく。
「進め! 舟を回せ!」
カシウス侯の怒声が響くが、事態は悪化するばかりだ。
輜重隊が岸辺を占拠し、兵士たちは重い荷物を運ばされる「荷役」に成り下がっていた。
(……進軍はわかっているはずだ。これほど無防備な渡河の瞬間、なぜ王国は我々を阻まない?)
ユリウスの思考がぐるぐると回り始める。
対岸の森は、不気味なほど静まり返っていた。
(……奇襲の絶好機。今、この瞬間に一斉射撃を受ければ、五万の軍勢は一歩も動けぬままこの河に沈む。だが、撃ってこない。王国に兵がいないのか? ……いや、違う)
背筋に冷たいものが走る。
(……あえて渡らせているのだ。ここで小規模な奇襲を仕掛けて我々を散らすのは、彼らにとって『非効率』なのだ。あえて五万という巨大な質量を対岸へ渡らせ、アイゼル砦という極小の入り口へ追い込んでから、一度に、確実に処理する……。その方が、掃討コストが低いと考えているのか?)
見えない何者かの指先に喉元を撫でられているような錯覚。
自分たちが「軍勢」ではなく、ただの「廃棄予定の在庫」として扱われているような、底冷えする感覚だった。
4. 騎士道という名の茶番
アイゼル砦を目前にした丘の上で、信じがたい光景が展開された。
カシウス侯侯爵と、もう一人の有力貴族が「どちらが先に突撃し、一番槍の功を立てるか」を巡って、全軍を止めて口論を始めたのだ。
「名誉ある先陣は、決闘にて決めるべきですな! 負けた方は、しんがりで泥でも啜っているがいい!」
カシウス侯の提案に、周囲の将兵たちが沸き立った。
それは戦士の鼓舞ではなく、場外乱闘を期待する観衆の熱狂そのものだった。
「おい、どっちが勝つか賭けようぜ!」
「俺はカシウス侯侯の代理人に、さっきの村で奪った金貨三枚だ!」
「なら、俺は捕まえたあの牛を二頭だ。ロランが勝つ方に賭けるぜ!」
ユリウスの視界の端で、兵士たちが略奪したばかりの財宝や家畜を「チップ」代わりに積み上げていく。
将校たちはそれを止めるどころか、自らも金貨を投じ、拳を突き上げて叫んでいる。
砦の兵が今この瞬間に打って出れば、この無防備な軍勢は一たまりもないだろう。
「カシウス侯家の名にかけて! 騎士ロラン、推参!」
円陣の中心で、カシウス侯の代理戦士ロランが剣を抜く。対する相手の戦士もまた、自らの主の面目を保つべく吠えた。
だが、その決闘もまた、賭け事の一部でしかなかった。
剣と剣が交わり、火花が散る。
一進一退の攻防に見えたが、ユリウスの目には、カシウス侯が袖の中で弄んでいる「重力負荷」の魔導具が放つ、卑怯な輝きが見えていた。
「ぐ、う……っ!?」
相手の戦士が、何かに押し潰されるように膝を突く。
その一瞬を逃さず、ロランが相手の喉元に剣を突き立てた。
「ははは! 勝負ありだ! さあ、賭け金はすべて余の軍がいただくぞ!」
カシウス侯が下品な笑い声を上げ、勝利した側の兵たちが耳を突き破らんばかりの歓声を上げる。
負けた側の兵たちは不貞腐れ、奪ったばかりの財宝を叩きつけるように差し出している。
ユリウスは吐き気すら覚えない、底冷えするような無感動な目でその光景を見ていた。
戦う前から、この軍の精神は死んでいる。
(……誇りも、規律も、目的すらない。あるのは目の前の欲と、欺瞞だけか)
これが「帝国の力」だと信じて疑わない者たちの背後に、ユリウスは静かに、だが確かな絶望を刻みつけた。
5. アイゼルの惨劇:処理される質量
ついに、カシウス侯率いる先遣隊がアイゼル砦に取り付いた。
「突き進め! 数の暴力を見せてやれ!」
カシウス侯の号令と共に、数千の兵が砦の正面へと殺到する。
だが、そこで彼らが目にしたのは、前回と同様――いや、前回以上に冷徹な「拒絶」だった。
アイゼル砦の正面幅は、わずか三十メートル。
両脇の斜面を含めても、有効な攻撃幅は百メートルに満たない。
そこに数万を注ぎ込もうとすれば、後ろから押し寄せる味方の圧力で、最前線の兵は逃げ場を失い、砦の壁に押し付けられるだけだ。
「な、なぜだ!? 矢が、なぜこれほど正確に……ぐあああ!」
智也が設計した規格化された連弩が、機械的なリズムで矢を吐き出す。
逃げ場のない密集地帯に、精密な死の雨が降り注ぐ。
RC防壁は投石器の直撃を平然と跳ね返し、兵士たちは「構造上の弱点」を一つも見つけられないまま、血の海に沈んでいった。
「こんなはずではない! 五万だぞ! なぜ余の軍が、たかが数千の守備隊に押し返されるのだ!」
本陣でカシウス侯が狼狽し、膝を震わせている。
彼は理解していない。
工学的な「処理限界」という現実を。
どれほど巨大な質量をぶつけようと、入り口が狭ければ、それは一度に戦える人数を制限される「処理待ちの列」に過ぎないのだ。
6. ユリウスの沈思
本陣の椅子に座り、ユリウスは報告を静かに聞いた。
カシウス侯の先遣隊、三千人が一時間足らずで無力化されたという。
「……カシウス侯侯の無能は計算通りだ。だが、これほどまでに見事に『処理』されるとはな」
ユリウスは立ち上がり、静かに軍装を整えた。
無能な駒の掃除は終わった。
ここからは、自ら持ち込んだ「理」の出番だ。
(……さて、名も知らぬ王国の技師よ。お前が用意した『不落』を、私がどう解体するか……見てもらおうか)
【読者の皆様へ】
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