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第五章 沈黙の回廊

夜明け前のワシントン。


鉄と煙の匂いではなく、凍えるような冬の空気が通りを覆っていた。


清之介たちは馬車で市街地を駆け抜ける。


背後には、炎に包まれたホテルと、勝之進をはじめとする護衛武士たちの半数が討死したという重い報せがあった。


グレイスの顔は蒼白だったが、懐の批准書に触れ、かろうじて正気を保っていた。


「我々が宿泊しているホテルがなぜわかったんだ!?」


馬車の揺れに耐えながら、団長の新見が呻いた。


清之介は右肩の傷を押さえながら、低い声で答える。


「ワシントン到着後、我々の宿舎に届け物を持って入った者がいた。あれが目印にされたか、あるいは…」


清之介は言葉を切り、視線を鋭くした。


「米国側の誰かが、我々の動きを監視していた可能性が高い」


新見が眉をひそめる。


「監視…?」


「使節団の行程は本来秘匿のはず。それを突き止めたということは、彼らはどうしても批准書を交換させたくないらしい。」


清之介の声は低く、確信に満ちていた。


やがて馬車は、静かな高級住宅街に滑り込んだ。


目的地は、厳重な塀に囲まれた邸宅。国務省次官補、ジョン・W・グレイの私邸だった。


門扉は開かれ、父が立っている。


彼の顔には、安堵と、この国の闇を見た者の深い怒りが刻まれていた。


「ここなら、誰も手出しはできない。外交官の私邸への襲撃は、国際問題だ」


「だが父上、相手は国際問題を恐れるような輩ではないはずです!」


グレイスは父の元へ駆け寄りながら、言葉を絞り出した。


彼女の蒼い瞳には、まだ火薬の匂いが残っていた。


「批准書は?」


「無事です。ですが、父上。彼らはホテルの場所を知っていた。そして、鉄道襲撃の際の武器も、ただの強盗団のものではない…」


清之介は刀を静かに鞘に収めた。この屋敷が、次の戦場になることを直感していた。


邸宅の書斎。


父ジョン・W・グレイは、娘に一通の公文書を手渡した。


「これが、陸軍省への一時的な通行証だ。今日一日の出入りを許可する。大統領直下の軍需部門は、私の手が及ばない。だが、補給課なら手がかりがあるはずだ」


父の顔は厳しく、疲労の色が濃い。


「深入りはするな。もし何かあれば…すぐに戻ってこい。私は後で国務省の執務室へ行く。」


グレイスは公文書を握りしめた。


夜明けが迫る時間帯。敵の警戒が緩むのはこの瞬間しかない。


「必ず、戻ります」


彼女は書斎を出た。


廊下の隅、影になった場所に清之介が立っていた。


右肩の傷は痛々しいが、その目は研ぎ澄まされている。


「行くのでござるか」


「ええ。このままでは、屋敷も安全ではない。ホテルの情報を漏らした者が、必ずワシントンの中にいる。それを突き止めなければ」


清之介は一歩踏み出し、彼女の肩にそっと手を置いた。


「もし、危険を感じたら、すぐに逃げろ。伝票の一枚よりも、そなたの命の方が、この国の未来よりも重い」


その言葉に、グレイスの瞳が揺れた。彼の言葉は、彼女の決意をさらに強くした。


「心得ています。あなたは、父と皆を守っていてください。必ず、日の出前には戻ります」


彼女は振り返らず、夜の闇へと飛び出した。


冷たい夜風を切って、馬車で陸軍省前に到着したグレイスは、警備の兵士に公文書を見せ、重厚な扉をくぐった。


廊下の空気は鉛のように重い。


制服姿の兵士たちが時折無言で行き交うが、彼らの視線は常にグレイスの動きを追っているように感じられた。


(補給課は建物の奥、窓のない記録室…)


彼女は補佐官としての威厳を纏い、足音を殺して進む。


だが、石造りの廊下に響く自分の足音が、やけに大きく、焦りを生む。


その時、背後から一定の、迷いのない足音が近づいてくるのを察知した。


グレイスは振り返らない。


(…警備兵か?それとも…追跡者?)


彼女は意図的に歩調を速め、すぐに廊下の角を曲がった。


曲がった瞬間、背後の足音は止まった。


彼女は冷や汗を拭い、建物の奥へと急いだ。


補給課の記録室は、建物の最奥、換気口のない一角にあった。


鉄製の扉の取っ手が、冷たく彼女の手を拒む。


記録室の扉を開けると、そこは帳簿と伝票の山だった。


油の匂いと古い紙の匂いが混ざり合う。


周りの音を遮断するような静寂の中、グレイスは懐中時計を確認した。


ターゲットは、襲撃の前日、3月14日の「特別搬入」。


彼女の指先は震えながら、埃を払って帳簿をめくる。


一冊、また一冊。焦りが視線を乱す。


そして、棚の最も奥、他の帳簿に意図的に隠されるようにして置かれていた一冊の下から、目的の伝票を見つけ出した。


「1860年3月14日 弾薬・火薬類 特別搬入 目的:訓練用 搬入先:第3倉庫

 弾1000発、マスケット銃50丁、火薬実包1000袋」

「承認:Ernest Hargrave Lieutenant General」


(訓練用?嘘よ。これは、昨夜の襲撃で使われた銃と弾薬の数に、あまりにも近すぎる…)


グレイスはその伝票を急いで懐の内側に忍ばせた。


その直後、記録室の扉が静かに開いた。


「補佐官、何かお探しですか?」


補給係の下士官だった。


彼は微笑んでいるが、その目は伝票を見つけたグレイスの指先に向けられていた。


「ええ、国務省からの照会で、緊急の報告書のために確認を」


「…なるほど。ですが、補給課の記録は機密扱いです。上官の承認なしに、閲覧どころか、ここにいること自体が問題です」


彼は一歩、室内へ踏み込んだ。距離が縮まる。


「私も急いでおります。この部屋はすぐに施錠し、上官に報告いたしますので」


「感謝します、軍曹」


グレイスは冷静さを保ち、静かに部屋を出た。


扉が閉まる瞬間、下士官が背後で小さく微笑んだように見えた。


それは、「逃げても無駄だ」と告げているように思えた。


記録室の扉を背に、グレイスは歩き出した。


しかし、彼女の耳には、下士官がベルシステムのボタンを押すカチリという微かな音が聞こえた。


(通報された。猶予はない!)


彼女は歩調を速める。廊下の角を曲がり、出口へと向かう通路に入った瞬間、背後で警備兵の怒声が響いた。


「待て!止まれ!」


走れ。


もう威厳を装う余裕などない。


ここで立ち止まれば、すべてが終わる。


彼女はヒールの音を響かせながら、廊下を全速力で駆け抜けた。


ドォン!


背後で銃声が轟き、跳弾が石壁を削って火花を散らす。


「止まれ!」


怒号が飛ぶが、彼女は耳を貸さない。


(出口まであと数十メートル…!)


廊下の窓から一瞬だけ外を見た。


夜明け前の闇の中、警備兵が数名、建物の外側に回り込んでいる。


だが、彼女の速度に追いつける距離ではない。


扉が視界に入った瞬間、グレイスは肩で押し開け、冷たい外気に飛び出した。


門まで一直線。


背後で再び銃声が響くが、狙いは甘い。


彼女の足は止まらない。


門の前に警備兵が二人いた。


驚愕の表情を浮かべるが、彼女の勢いに圧され、反応が遅れる。


「止まれ!」


叫び声と同時に腕が伸びるが、グレイスは身をひねってすり抜けた。


次の瞬間、彼女は陸軍省の門を抜け、夜明け前の大通りへと飛び出した。


夜の冷気が、火薬と汗の匂いを洗い流す。


「グレイス殿!こっちだ馬車に飛び乗れ!」


低い声が闇の中から響いた。


清之介だった。彼は陸軍省の門から少し離れた場所に、馬車を準備して待っていたのだ。


グレイスは考える間もなく馬車に駆け寄り、飛び乗った。


「清之介!」


「掴まれ!」


清之介は手綱を乱暴に引き、馬車は急発進した。


警備兵が門から飛び出し、銃を構える。


パァン!パァン!


弾丸が馬車の後部を叩く。


清之介は体勢を低くし、手綱をさらに強く握りしめた。


「グレイス殿、何か手に入れたのか?」


グレイスは息を切らしながら、懐の伝票を握りしめた。


「訓練用と偽られた、襲撃のための武器の調達記録よ!これで、使節団を狙っているのが、軍の内部の人間であることが証明できる!」


馬車は闇の中を猛スピードで走り抜ける。


だが、彼らが逃げ込んだグレイ邸も、もはや安全な隠れ家ではないだろう。


ワシントンという街全体が、巨大な陰謀の渦となり、彼らを飲み込もうとしていた。

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