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第一章 鉄の獣

ホノルルの港を離れた「ポーハタン号」は、南の海を静かに進んでいた。


空は広く、雲は低く、波は穏やかだった。


榊原清之介は甲板に立ち、遠ざかる島影を見つめていた。


ハワイ王国での謁見は、彼にとって異文化との初めての接触だった。


カメハメハ四世の堂々たる姿、王宮の装飾、そして王族の礼儀――すべてが新鮮で、驚きに満ちていた。


「異国の礼節も、侮れぬものだな」


清之介は、玉虫左太夫と並んで歩きながらそう呟いた。


「ええ、まったくです。記録に残すべきことが多すぎて、筆が追いつきませんよ」


玉虫は笑いながら日記帳を抱えた。


彼の筆は、使節団の旅のすべてを記録する使命を負っていた。


船はさらに南下し、数週間の航海を経て、パナマの港に到着した。


蒸し暑い空気が肌にまとわりつき、ジャングルの匂いが鼻をついた。


清之介は、刀の柄を握りしめながら、周囲を警戒した。


「ここが……地峡か」


パナマ地峡。太平洋と大西洋を隔てる細長い陸地。ここを越えれば、アメリカ本土への道が開ける。


使節団は、港から鉄道駅へと案内された。


そこに待っていたのは、清之介がこれまで見たことのない“鉄の獣”だった。


「これは……何だ?」


清之介は思わず声を漏らした。


巨大な鉄の塊が、煙を吐きながら地面に鎮座していた。


蒸気機関車――パナマ鉄道の主役である。


「蒸気の力で動く車両です。火を焚いて、水を沸かし、その圧力で動くのです」


ジョン万次郎が説明する。


彼はアメリカで教育を受けた経験があり、こうした技術には詳しかった。


「火で……鉄が動くのか」


清之介は、信じられないという顔で機関車を見つめた。


車体にはリベットが打ち込まれ、巨大な車輪が並び、煙突からは黒煙が立ち上っていた。


「まるで、鬼の乗り物だな」


玉虫が冗談めかして言うと、グレイスが微笑んだ。


「でも、これが文明の力です。アメリカでは、これが人々の生活を変えました」


「榊原様ですね? 国務省外交部のグレイス・エリザベス・グレイと申します」


澄んだ声が耳に届いた瞬間、清之介は言葉を失った。


陽光を受けて輝く金髪、深い湖のような蒼い瞳――だが、その美貌よりも、流暢な日本語に驚かされた。


その整った顔立ちに、知性と気品が漂い、微笑むだけで周囲の空気が柔らかくなる。


「……日本語を、お話しになるのですか?」


「ええ。あなた方の文化を理解することが、私の使命ですから」


微笑む彼女の表情には、外交官らしい自信と、どこか柔らかな温かみがあった。


清之介は胸の奥で何かが揺れるのを感じたが、それを悟られぬよう、視線を逸らした。


「あなたの国では、馬が主な移動手段なのですね?」


「そうだ。馬は、我らの足であり、友でもある」


清之介は、機関車の無機質な姿に、どこか冷たさを感じていた。


だが、その力強さには、抗えぬ魅力もあった。


「任務の詳細を伺いたい。護衛の配置について、こちらで調整を」


「承知しました。ですが、危険は……?」


「あります。パナマ鉄道の移動中、強盗団の噂がある。油断はできません」


彼の声は硬い。


だが、グレイスは怯むどころか、真剣な眼差しで頷いた。


「では、私も同行します。あなた方を守るのが、私の役目ですから」


その言葉に、清之介は思わず彼女を見つめた。


蒼い瞳がまっすぐに自分を射抜く。


使命に生きる者同士――その瞬間、心の奥に小さな灯がともった。


だが、彼はまだ知らない。


この灯が、やがて炎となり、二人の運命を焼き尽くすことを――。


乗車の時間が近づき、使節団は指定された車両へと乗り込んだ。


清之介は、窓際の席に座り、グレイスと並んで外を見た。


「走り出すと、風がすごいですよ。初めて乗ったときは、帽子が飛びました」


グレイスが笑う。


清之介は、刀の鞘を膝に置きながら、静かに頷いた。


「風か……それも、異国の風だな」


汽笛が鳴った。


機関車がゆっくりと動き出す。車輪が軋み、蒸気が唸り、鉄の獣が目を覚ました。


清之介は、体が前に引かれる感覚に驚いた。


馬車とは違う、滑るような動き。


窓の外の景色が流れ始め、ジャングルの緑が線となって過ぎていく。


「速い……これは、馬よりも速い」


「ええ、そして長距離を休まずに走れるのです」


グレイスの声に、清之介は目を細めた。


文明の力――それは、武士の世界とは異なる価値観だった。


車内では、玉虫が筆を走らせていた。


「やがて蒸気盛んになれば、今や走り出んとかねて目もくるめくやうに聞きしかば、いかがあらんと舟とは変わりて案じける内、凄まじき車の音して走り出たり」


清之介は、窓の外を見ながら、心の中で言葉を紡いだ。


「鉄が走る。火が力となる。これは、我らの知らぬ世界だ」


グレイスが彼の横顔を見つめた。


「あなたは、何でも吸収しようとする目をしていますね」


「目は、剣よりも先に動くものだ」


その言葉に、グレイスは微笑んだ。


蒸気機関車は、ジャングルを抜け、川を渡り、丘を越えた。


清之介は、鉄の力に驚きながらも、どこか心を奪われていた。


この旅が、ただの任務では終わらないことを、彼は少しずつ感じ始めていた。


そして、この鉄の獣が運ぶ先に、さらなる運命が待っていることも――。

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