プロローグ 海の向こうへ
万延元年二月九日(1860年)。
冬の冷たい風が品川沖を吹き抜ける中、黒船「ポーハタン号」は静かにその巨体を揺らしていた。甲板には、異国への旅を前にした使節団の面々が立ち並び、緊張と期待の入り混じった空気が漂っていた。
その中に、ひとりの若き武士がいた。
榊原清之介――二十五歳。江戸の下町に生まれ、剣術と礼法に秀でた男。今回の遣米使節団には、護衛役として抜擢された。寡黙で、任務に忠実。だがその瞳には、まだ見ぬ世界への静かな好奇心が宿っていた。
「海の向こうに、何が待っているのか……」
清之介は、遠ざかる江戸の空を見つめながら、心の中で呟いた。彼にとって、この旅はただの任務ではなかった。武士としての誇りを胸に、異国の地で何を見、何を守るのか――それを確かめる旅でもあった。
船内では、使節団の中心人物たちが忙しく動いていた。
筆頭正使・新見正興。冷静沈着で、外交交渉に長けた人物。彼の指揮のもと、使節団は条約批准書の交換という重大な任務を担っていた。
副使・**村垣範正**は、柔和な性格ながらも、交渉の場では鋭い洞察を見せる。通訳や文化交流の場面で活躍することが期待されていた。
そして、記録係として同行する玉虫左太夫。彼は旅のすべてを詳細に記録する役目を担っており、清之介とは船内でよく言葉を交わす仲となった。
「榊原殿、異国の空はどんな色をしていると思われますか?」
ある夜、玉虫がそう問いかけた。清之介は少し考えた後、静かに答えた。
「空は、どこでも空でしょう。ただ、そこに見えるものが違うのだと思います」
玉虫は笑いながら筆を走らせた。「それは、良い言葉ですね。日記に書いておきましょう」
また、通訳として同行するのは、かつて漂流しアメリカで教育を受けたジョン万次郎(中浜万次郎)。彼は清之介にとって、異国を知る数少ない日本人であり、船内ではよく英語の発音や文化について語ってくれた。
「アメリカの女性は、目が青くて、髪が金色なんだ。まるで陽の光をまとっているような人もいる」
清之介はその言葉に、どこか胸がざわつくのを感じた。だが、それが何なのかはまだわからなかった。
船は数日間、横浜に停泊した後、いよいよ太平洋へと旅立った。波は穏やかとは言えず、時折激しく船体を揺らした。清之介は甲板で刀の手入れをしながら、船酔いに苦しむ仲間たちを横目に、静かに任務への集中を深めていった。
だが、旅は順調とは言えなかった。嵐に遭遇し、石炭の消費が予想以上に早かったため、船は予定を変更し、途中の寄港地――ハワイ・ホノルルへと向かうこととなった。
三月四日。
船はホノルル港に到着した。清之介が初めて目にする異国の地。空は高く、海は青く、街には西洋風の建物が並んでいた。人々の服装も、言葉も、すべてが新鮮だった。
使節団は、ハワイ王国の国王カメハメハ四世との謁見に臨んだ。清之介は護衛として控えていたが、王の堂々たる姿と、使節団への敬意ある対応に、異国の礼節を感じ取った。
その夜、清之介は港の近くを歩いた。潮風に吹かれながら、異国の空を見上げる。そこには、江戸とは違う星の並びがあった。
「空は、やはり同じではないな……」
彼は、玉虫に語った言葉を思い出しながら、静かに目を閉じた。
この旅が、ただの任務では終わらないことを、彼はまだ知らなかった。
この海の向こうに、彼の運命を変える出会いが待っていることも――。