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 エリーザベトのお腹の中で小さな命が跳ねた、気がした。

 彼女は遠くなる視界の中、レオポルドの後悔に塗れた表情を見、心の中で悲鳴を上げていた。

 そんな――ことが、あるのだろうか?


「若奥様、若奥様?――誰か! 誰かいないか!」

 と叫ぶレオポルドの声を耳にしながら、彼女は意識を失った。


 目が覚めたときにはすでにレオポルドはいなかった。

 一日も休むことなく戦場に復帰したのだった。

 天蓋を見つめたままほろほろと涙をこぼすエリーザベトを、年嵩のメイドは何くれとなく世話を焼いてくれた。


「若奥様、さあ、スープをどうぞ。料理番がいい出来だって、言ってましたよ」

「いらないわ。何もいらない……」

 エリーザベトは身体を丸め、彼女に背を向けて泣き続ける。

 年嵩のメイドはため息をつきながらスープ皿を残して部屋を出て行った。


 ひとしきり泣きながらエリーザベトは思う。

 いったい何が悲しいのだろう?


 結婚の誓いは永遠であり、神が結び付けた男女を分かつことは誰にもできないとされる。

 だがそれはあくまで建前で、貴族社会、とくに中堅層に位置する軍人貴族の社会では事実上の離婚がまかり通っていた。


 男の子を産めない妻を若い妾に挿げ替えるため、不倫した妻を罰するため、教会に金を払って結婚の事実を記録から抹消してもらうのである。

 ひどい場合は男同士の取り決めにより、何も知らない妻を金で売り渡すことさえあった。


 エリーザベトも最初からある程度覚悟はしていた。

 結婚を神の前で誓ったときから、彼女は彼の所有物だった。


 たとえばこの先何十年かしてマティアスが年老いた妻に嫌気が差したとき、彼女を家から追い払い、次の人を妻にすることが可能だった。

 彼がしようと思えば。

 そうする権利があり、そうする手段があるならば、あとは男の胸三寸で未来が決まってしまう。

 いやだと思っても、エリーザベトの意思になど何の価値もない。

 神の名の許に、王国は不平等な社会だった。


 エリーザベトはお腹を抱えてすすり泣いた。

 ドアの外でメイドたちが聞こえていないと思ってひそひそ話をするのが聞こえた――いったいどういうこと?

 わけがわからないよ。

 レオポルド様は何を言ったんだろう。

 あの人は長年若様の忠実な従僕だったのに、まるで人を殺してすぐここにやってきたみたいな有様で。

 オーガのようだったよ。


 そのうち涙は収まった。

 エリーザベトは寝台の上に起き上がり、すっかり冷めたスープを啜った。


(もうここにはいられない)

 と思った。


 彼女は使用人たちがどれほど優しく、親切であっても、結局のところ家の主と土地に縛られた存在であることを知っていた。

 父が亡くなり我が物顔の叔父が当主の座についたとき、抵抗しようとした使用人は解雇されてしまった。

 かわいそうに、生活が立ちいかなくなって困窮した者もいたと聞く。


 エリーザベトは何もしてやれず、そして使用人の方も、彼女の扱われ方を見て見ぬふりするしかなかった。

 同い年のノーマや数少ない大人はそれとなく助けてくれたけれど、それだって叔父夫婦に見咎められたらそこで終わりになる親切だった。


 いつか来るかもしれなかった日が、突然来ただけだ。

 悲しいけれど、嘆いても仕方のないことだった。


 エリーザベトはまだ膨らみのないお腹をさする。

 心配がふつふつと沸き上がってきた――彼女はマティアスが子供を欲しがっていることを知っていた。

 男なら誰でもそうであるように。

 彼が妻にすると決めた若い娘を伴って帰って来て、そして妻を名乗るエリーザベトに子供がいることを知ったら……知ったら。


 彼はおそらくその子を欲しがるだろう。

 血のつながった子供が欲しくない親なんているだろうか?

 エリーザベトは子供を取り上げられ、何の価値もない離婚された女、ただそれだけになる。


 いや、状況はもっと悪いかもしれない。

 たったひと月で身籠った子供の血統を、彼は疑うかもしれない。

 教会に訴えられては証明する手立てがない。……妊娠初期のあやふやな精神状態は、どんどんエリーザベトに悪い想像を抱かせる。


 マティアスと知らない女性によって、夫以外の子を家に入れようとした女と糾弾される自分の姿。小さな手でスカートの裾にしがみついて泣く子供。


 泣くばかりの無力な子供。

 誰も助けてくれない家の中で、血のつながらない叔父夫婦とその子供たちに見下されながら小さくなって暮らす子供……。ひとりぼっちの……。


 彼女の胸の中で、その子供の顔は自分自身だった。

 白髪頭の瘦せっぽち。

 親なし。


 エリーザベトはスープを食べ終えた。

 そして使用人たちが寝静まるのを待ち、父の古い革鞄に荷物を詰めた。


 彼が戻ってくる前にエリーザベトはここを去り、そして自分の生活を確立しなければならない。

 シンプルな衣服を何枚も、それから母の金の鎖の懐中時計と父母の小さな肖像画をその間に詰めた。


 自分にも、子供にも、何も悪いことしていないのに糾弾される惨めさをもう味わわせないために。


 せめてものマティアスにもらったものは置いていきたかったが、路銀がなければどうにもならないことくらいはさすがのエリーザベトにもわかった。

 換金できそうな貴金属をいくつかと、小銭をもらった。

 気分は最悪だった。

 盗みを働いているように思えた。


 夜明け前にエリーザベトはシュヴァルツェン家を出て、誰にも気づかれず街道に向かった。


 街はひそやかな眠りについており、がさごそと音がしたところを見ると野良猫が不機嫌にごみを漁っている。

 朝もやが出てドレスの裾がしっとりした。


 気持ちを奮い立たせながら彼女は歩き始めた。

 行く当てはいくつか見当をつけてある。

 特に戦争期間中、夫に死に別れた女性や戦地となった地域の住民が修道院に保護を求めることはよくあることだった。

 もし入れてもらえるなら、なるべく大きな修道院がいいだろう。

 人の間に紛れ込めるような。


 胸の中に涙の卵が渦巻いていたが、エリーザベトは顔を俯けなかった。


 

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