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 マティアスが帰ってきたとき、彼女は眠い目をこすりながら最後のキャラメルナッツを包装し終えたところだった。


「おかえりなさい。大変でしたね」

「寝てろって言ったのに……」

 マティアスはため息交じりに苦笑した。

 手足には泥がこびりついている。

 もう遅い時間なのでお湯は使えない。

 彼は疲れた様子で上着を剥ぎ取り、壁にかけた。


 エリーザベトは彼に駆け寄って軍服を脱ぐのを手伝った。

 もう何も言う気力もないのか、マティアスは彼女のしたいようにさせる。

 剣を取るのだけは自分でやったが、そこからどさりと椅子に座り込んでしまった。

 外した剣帯を入り口近くの棚の上に置くエリーザベトを眩しそうに眺めるばかり。


「疲れた。まだ出征もしていないってのに」

「お疲れ様ですわ。また、出立の順番のお話ですか」

 マティアスは力なく頷いた。


「誰が一番陣頭に立とうがなんだろうが、どうだっていいだろう。いずれにせよ現地に着いたら指揮を執るのは国王陛下なんだ。地域で一番にならなきゃ気が済まないだなんて、まったく!」

 彼が言うのはこの地方を管轄する司令官の元、どの土地の軍人貴族が一番最初に軍を率いて進むかについてだった。

 エリーザベトは最初それを聞いて、そんなことを気にしている暇なんてあるのかしらと思った。

 マティアスも同じく考えているようだった。

 だが一番最初に行進する軍は、一番司令官に信頼されていると軍人たちは考えるらしい。

 その名誉ある順番を巡って若い貴族たちは争っているらしいのだった。


 エリーザベトは薄めに入れたお茶をマティアスの前に出した。

 彼はそれを一気に煽った。


「お食事は?」

「いい。済ませてきた。このまま寝たいよ」

 肌着姿で彼はうつらうつらしながら呟く。

 エリーザベトは暖炉の上で湧いているやかんからお湯をボウルにうつし、柔らかい布を浸すと夫の背中を拭き始めた。

 ああ、と彼は満足げに呻いたが、

「新婚早々なのにこんなことさせて。幻滅されてしまうかな?」

 冗談半分、本気の恐れ半分でエリーザベトを仰ぎ見る。


「いいえ。疲れている人にいやだなんて思いませんよ」

 エリーザベトはつま先立ちしてその唇にキスしてやった。

 彼は満足そうに笑った。

 机の上の包装紙の山に気づいて問う。


「これは? 戦闘糧食か?」

「ナッツをキャラメルに浸したものです。くるみやレーズンも入っていますから、力が出ますよ。部隊のみなさんの分もお作りしましたから、明日、お分けになってくださいね……」

 話すうちに目が潤んできた。

 爆弾で吹き飛ばされるマティアスの映像が脳裏にちらつく。

 戦場は剣と銃と魔法の世界だ。


 彼は怪我をするだろうか?

 無事に帰ってくるのだろうか?

 エリーザベトは悲しみを悟られないよう、布を代えてくるのに見せかけて涙をぬぐった。


 二人がかりでマティアスの身体を綺麗にしてしまうと、彼はようやく力を取り戻し寝間着に着替えた。

 顔の血色もいくらかよくなったようだ。


「寝よう寝よう。明日も早い。君もよく寝ないと。大変だろう」

「はい。――あ、ちょっとお待ちくださいまし」

「ん?」

 枕元に置いていたネックレスは、こうしてみると滑稽だった。

 紐はいかにも頼りなげだし、毛羽立っている。

 父母の結婚指輪は見事な金製で、小さなダイヤが埋め込まれていた。

 実のところ、これは対になった魔道具だった。

 ――結局、エリーザベトはこれ以上のプレゼントを思いつけなかったのだった。


「今日、あなたの予定を知らせてくれた人が、教えてくれました。夫が出征するとき、軍人の妻は別れの品として何かを贈るのだと」

「レオポルドめ。気を使わせるなって言ったのに……」

 マティアスは居ずまいを正す。

 口元に浮かぶ笑みが苦笑なのか喜びなのか、ロウソクの灯りでは判別がつきづらい。

 それでもエリーザベトは自分の欲望を優先することにした。

 もし、渡さないまま別れてしまったらきっと後悔するだろうから。


「いいえ、気を使ったわけではありません。私があなたに受け取っていただきたいのです。どうかわかってください。これは――これは、私の両親の結婚指輪です」

 彼ははたと動きを止めた。

 細いリボンが通されたネックレスを見つめ、厳粛な面持ちで首を横に振る。


「思い出の品じゃないか。受け取れないよ」

「いいえ、いいえ。なんとしても受け取っていただきますわ。これは魔道具なんですの」

「なんだって? 魔道具?」

「はい。対になったダイヤに魔法がかかっていて、悪意や呪いを跳ねのけます。別々の場所にあっては効力を持ちませんが、こうして束ねると強力な結界魔法を発動しますの」

 エリーザベトはマティアスにネックレスを握らせる。

 彼の手は温かく、彼の身体も温かい。

 見上げた夏の空のように濃い青い目が、どんな感情でか揺らめいていた。

 まるで生まれて初めて何かを貰った子供のように。


「父は母が私を出産するとき、これを重ねて枕元に置いていたと聞きます。きっと、あなたを悪いものから守ってくれますから。どうかお持ちになって。お願い」

 マティアスは衝動的にエリーザベトを抱きしめる。

 彼女はくふっと息を漏らして夫の背中に縋りついた。


「――ありがとう。大切にする。これを君に返すときまで、決して死なない」

「死なないだけじゃいやです!」

 エリーザベトはその金切り声が自分のものだとは思いもよらなかった。

 耳元で叫ばれて、顔をしかめてもいいのにマティアスはそうしなかった。


「わかった。五体満足に、元気で帰ってくるよ」

「はい。必ずそうしてください……。今ここで、誓って」

 マティアスはエリーザベトの身体を放し、いつかの湖のほとりでそうだったように跪いた。

 彼女の右手を両手で捧げ持って、うやうやしくキスをする。

 まるで女王に忠誠を誓う騎士のような仕草だった。


「私、マティアス・シュヴァルツェンはこのたびの戦争に勝利し、必ず無事で、妻エリーザベトのところに帰ってきます」

 エリーザベトは彼の首に抱き着いた。

 泣くまいとするのに涙はこぼれてならなかった。

 マティアスは死を待つばかりの犬のように深い苦悶の呻き声を漏らす。


「ちくしょう、君を置いていくなんて。こんな君をルスヴィアに残して、俺は戦場で手柄を立てなきゃならない。それが俺の本分だから」

 彼が、軍人が戦場をいやがっているだなんてエリーザベトには考えつかないことだった。

 けれど、ひょっとしたらみんなそうなのだろうか?

 あれほど勇敢に見える将校さんも、狙撃手も騎兵隊も兵士も、みんな本当は家にいたいのだろうか?

 それならどうして、男は戦争なんて起こすのだろう……。


 二人、そうやって抱き合ったまま夜は更けていった。

 眠るのが惜しくて、互いの存在を確かめなければ気が済まない。


 結婚してからまだそんなに年月は経っていなかったけれど、お互いを大切に思う気持ちが急速に芽生え、心に根付いたのをよくわかっていた。


 そうしてあっという間にマティアスの出征の日が来た。

 結局、彼は東側の土地と西側の土地の貴族同士の順番争いの緩衝材にされ、司令官に続いて二番目に兵を率いることになってしまった。

 それが原因で何か悪いことが起きないか、エリーザベトは心配した。


「すぐに帰ってくるよ。俺はこれまでも何度か従軍しているんだ。何も心配せず、ルスヴィアで楽しく暮らしていればいいから」

 夫の言うことにひとつずつ頷きながら、エリーザベトの心中は荒れ狂う。


(あなたが苦しんでいるとわかって楽しむことなんてできないわ)

 と思う。

 これが結婚と言う契約を交わした相手に自然と沸き上がる妻としての感情なのだろうか。

 ほんの少し前まで何も知らなかった人に対して抱くには、大きすぎる思いである気がした。


 シュヴァルツェン家の屋敷の門の前、すでにマティアスに従う一隊の面々が街の入り口で待っている。

 あとは指揮官である彼がこの丘を下って兵士に合流すれば、軍隊は出立する。


 門の向こうで数人の下士官がマティアスを待っていた。

 彼らと彼らの馬はいずれも殺気立っており、ぴりぴりした空気がここまで伝わってくるほど。

 その中にレオポルドの姿を見つけたエリーザベトは、彼の無事も心から願わずにはいられなかった。


 いつまでも名残り惜しくしていれば、妻離れもできない軟弱者と言われてしまう。

 マティアスは大きく息を吐き、エリーザベトに最後のキスをして黒い軍馬に飛び乗った。


「それじゃあ――行ってくる」

「はい。無事のお帰りをお待ちしております」

 軍馬がぶるぶる首を振った。

 マティアスはふっと目を細めると、上半身を倒してエリーザベトの耳元に囁いた。


「猫を追いかけて水に落ちるなよ!」

「えっ……?」

 突然何を言い出すのだろう。

 エリーザベトが呆然としているうちに、彼はさっと馬の首を翻し丘を下っていった。

 下士官たちが息を飲むほど素早く一列になって後へ続き、門のこちら側、少し離れたところで様子を見守っていた使用人一同が、わあっと見送りの歓声を上げる。

 続いて丘の下からも声が上がった。

 パンパンという音とともに空に煙が立ち込めた。

 花火と空砲で街の住民たちが軍の出征を見送っているのだ。


 エリーザベトは過ぎていく隊列に向けて手を振り、声を限りに叫んだ。


「お気をつけて! お気をつけて!」

 それはメイドたちが彼女の身体をそっと撫でて、戻りましょうと声をかけるまで続いた。

 家に入り、暖かい暖炉の傍に腰を下ろしてようやく、エリーザベトは自分が泣いていることに気づいた。

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