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 ルスヴィアは確かにとても寒い土地だった。

 故郷ではこの時期まだ暖炉が必要ではなかったのに、ここでは毎朝一番に火を起こさなくては動くこともできないくらい冷え込む。

 暦の上では春だったが、まだ道のところどころに雪が溶け残っていた。


「若奥様ぁー。野菜がきましたあー」

 と、裏口で年嵩のメイドが呼ぶ声がした。


「はあーい」

 とエリーザベトは返事をする。

 質素だが仕立ての良い菫色のドレスの裾を揺らして、裏口まで駆けつけた。


 シュヴァルツェン家は長年この土地の領主として君臨してきた家系だから、食べるものも専門契約をした農家が届けてくれる。

 困ったことがあればシュヴァルツェン家を訪れて相談するし、孤児や行き場のない老人を引き取るのも責務。

 時には夫婦喧嘩の仲裁も領主の役目だという。

 領主と民の距離が近しい土地柄なのだった。


 だから君臨してきた、というのは大げさかもしれない。

 ともに歩んできた、と言った方がよさそうだ。

 寒さと痩せた土地に対して手を取り合ってきた盟友。

 その言い方の方がいい。

 ルスヴィアの人々は皆気安い人柄で、新参者のエリーザベトにも優しくしてくれる。


 エリーザベトがシュヴァルツェン家にやってきて、ひと月が経った。

 エリーザベトはこの土地がすっかり気に入っていた。


 驚いたことにシュヴァルツェン家には義父も義母もいなかった。

 二人とも信心深い人たちで、今は南大陸に巡礼の旅に出ているのだという。


「何をしても構わないが決して連絡してくるな、神のご意思に沿う旅の間に肉親の情は不要だから、と言い置かれてしまった」

 とマティアスは苦笑いしていた。

 子育てが終われば信仰に生きることが、シュヴァルツェン夫人、マティアスの母の長年の願いだったのだそうだ。


 エリーザベトは姑の目もなく、義理の兄弟もいないので誰にも煩わされずに好き勝手できる環境を手に入れたのだった。

 なんてこと。

 なんて幸運なのだろう。

 娘なら誰もが羨むはずだ。

 大きな屋敷、親切な使用人、そして夫と二人きりの日々だなんて!


 けれどエリーザベトはそこで自堕落に暮らし始めるほど恥知らずではなかった。

 彼女は毎日きちんと決まった時間に起きて、髪を結い上げ、家計簿付けやメイドたちの監督や、貴婦人としてすべきことをこなした。

 毎日帰りが遅いマティアスにゆっくりしてもらえるよう、食事や部屋の清潔さに気を配ることも忘れなかった。


 それは義務だからしっかりやらなくてはならない、という義務感を越えて、楽しい仕事だった。

 エリーザベトはマティアスが短く切った髪の毛を櫛でとかしたり、軍服をぶわりと跳ね上げて羽織ったり、アイロンを利かせたズボンにさっと足を通す仕草を見るのが好きだった。


 それから、馬。

 立派な軍馬に手ずからブラシをかけ、大麦の穂を食べさせてやり、優しく声をかけるところを家の窓から眺めるのが好きだった。

 馬と接する時の彼は少年のように見えた。


(この幸運が当たり前のことだなんて、思わないわ)

 と心に決めた。

 それがエリーザベトなりの矜持だった。

 取るものもとりあえず嫁入りしてきたエリーザベトを優しく迎えてくれた人たちに報いるためにも、エリーザベトは立派な貴婦人になりたい。


「はい、確認しましたわ。いつもありがとう。今日も寒かったでしょう」

 と、農家の男性に笑いかける。

 彼は白い髭を揺らして豪快に笑った。


「いんや、なあんも。いつものことでさ。そんじゃま、また三日後にお届けにあがりますんで」

「はあい、ご苦労様です」

 受け取り表にさらさらとサインをして、頭を下げて見送るエリーザベトに、ふと男性は声を上げた。


「そういや若奥様は、今日は街においでになるご用事はあるんで」

「なにさ、この爺いやらしいったら」

 ちゃちゃを入れた太ったメイドをねめつけて、いえね、と男性は帽子の下の額をかいた。


「変な意味じゃないんで。ただ、最近ね、また物騒な演説をする人らが増えたもんだから。女一人でお行きになるんでは、いっくらお貴族様の奥方とはいえ危ねえんじゃねえかと思ったんで」

「まあ……そうだったの」

 エリーザベトはメイドと顔を見合わせた。


「今のところ、予定はないわ。気にかけてくれてありがとう」

 農家の男性は日に焼けた顔を赤らめ、へどもどする。


「いやいや、とんだおせっかいで……」

 次の得意先を回る荷馬車に乗り込む彼の姿を遠目に見ながら、メイドはフンと鼻を鳴らした。


「あの爺、あたしらが買い物に行くってときにあんな気遣い見せたことありませんですよ」

「それはいけないわね。お前のように働き者のメイドこそが、いざというとき一番助けてくれるんだのに」

 エリーザベトはころころ笑い、メイドもはにかんだ笑みを見せる。

 何もしなくても赤らんだ顔と細い目、どっしりした体型のこのメイドのことがエリーザベトは好きだった。

 いや、シュヴァルツェン家の使用人全員が好きだった。

 ……しかし彼らも立場が変われば、エリーザベトが叔父にされていることを見て見ぬふりした実家の使用人たちのように、なってしまうのかもしれない。


 父母が相次いで亡くなったあとに仰々しく乗り込んできた叔父夫婦、それから家が乗っ取られるのに手をこまねいていた使用人たちの姿を見て、エリーザベトの内部には根深い人間不信が育った。


 平民の使用人が主夫婦に収まった貴族に何ができたというのか?

 彼らは平民だった。

 そして給金が必要な身分だった。

 仕方なかったとわかっている。

 けれど、割り切れない思いはある。


「それにしても、物騒なのは本当ですよ、若奥様。例の団体に娘さんを攫われたという人までいるんですって」

「まあ。国王様は取り締まりをしないのかしら?」

「それがね、どうもそれどころじゃないらしいんで。国境近くがきな臭いんでその対応で手いっぱいなんですってよ。ひょっとしたら若様もまた戦争にお行きになるのかもしれません。お覚悟なさってた方がよろしいかもしれませんねえ」

「えっ?」

 エリーザベトはにんじんの袋を抱えながらあやうくそれを落としそうになった。

 じゃがいもの袋を下ろすべく、地下貯蔵庫の扉を開けながらメイドは悲しげに目をしょぼしょぼさせる。


「広場で徴兵官を見かけるようになりましたから。あたしの経験上、こうなるとすぐです」

「またゼルフィア帝国と……?」

「かもしれませんですね」

「そう。また、戦争なのね……」

 エリーザベトは薄い灰色の目を伏せる。

 戦争になればマティアスは軍人だから、当然出征するだろう。

 今でもただでさえ忙しい人なのに、何年も会えなくなるかもしれないのだ。


 ここプロスティア王国は、隣国ゼルフィア帝国と長年に渡って領土問題を抱えていた。

 プロスティアとゼルフィアが互いに所有権を主張する領土はずっと二つの国を行き来しているようなものであり、どちらのものとも言えなかった。

 記録の正当性も甲乙つけがたい。

 こうなると実効支配した方が勝ちになる。


 正直、エリーザベト含め諸国民はそんな歴史的なことはどうでもよくて、プロスティア王国が小国であることをいいことに見下す態度を隠さないゼルフィア帝国に嫌気がさしているのだった。

 いつかやっつけてやる、という気持ちは国全体で共有されていた。

 とくに国王陛下が代替わりして、今は国の政策から新聞の見出しまでが、若い。

 それに伴う血気盛んさが主に若年層を中心に蔓延して火種のようだった。


「芋の貯蔵量、増やした方がいいかしら」

 考え考えエリーザベトがそう言うと、年嵩のメイドは吹き出した。


「またまたあ。それはちょっと、先走りすぎですわよ、若奥様!」

「そうぉ?」

「そうですとも」

 どっこいしょ、と浅い地下貯蔵庫ににんじんを下ろしできちんと積み上げ、メイドはにっこり笑ってエリーザベトを眩しそうに見上げる。


「たとえ戦争になったって、若様たち軍人がぱぱーっとすませてくださいますって。短期決戦でとられた土地も取り戻して、みんなで戦勝会ですとも。きっと!」

 ――だが夜に帰ってきたマティアスは浮かない顔をしていた。

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