21
エリーザベトは夢見心地だった。
彼――マティアスと抱き合い、キスをして、数年前に永遠になくしたと思っていた熱を確かめ合うことに夢中になっていた。
彼女はふと、彼の肩越しに知らない人を見つけた。
美しい少女だった。
ふわふわ金髪を背中に流し、まるでウエディングドレスのような白いドレスを着ている。
華奢な手足、潤んだ瞳。
口づけが離れ、マティアスがエリーザベトを愛おしそうに見つめて頬を包む。
彼の背後の少女ははらはらと泣き出した。
「マティアス様ぁ……!」
エリーザベトは固まった。
彼女の様子がおかしいのに気づいて、マティアスもはっと振り返った。
美しい少女はフラフラした足取りで二人に近づき、マティアスの前でぺたんと座り込んだ。
右足の真っ白なふくらはぎが膝まで露出した。
エリーザベトはぎゅっと彼の腕を握りしめ、彼もまた彼女をきつく抱き寄せた。
――予感が、あった。
たぶん、この人が。
「あっ」
とエリーザベトは気づいた。
美少女の胸元にぶら下がるネックレス。
あれは――あれは。
「そんなっ、ひどい。ひどい。全部嘘だったんですね……!」
はちみつのように濃い金髪を振り乱し、美少女は泣きながら笑った。
痛々しく可哀そうな姿だったが、どこかわざとらしい儚さがあってエリーザベトはぞっとした。
これほど完璧な美貌を持った人がこのようにすれば、すべての男は彼女の味方をするだろう。
エリーザベトはマティアスを見上げた。
だが彼は美しい少女に見とれることはなく、冷たい目で彼女を睨んでいた。
彼は舌打ちしてエリーザベトを背後に隠すと、硬い声を出す。
「俺のことを知っているのか? だが残念ながら、俺はあなたのことを知らない。誰だ?」
少女はああっと悲鳴を上げて地面にへたり込んだ。
まるきり芝居の演出のようだった。
「あたしはユリアナ!」
鈴を振るように美しい声だった。
エリーザベトは胸が痛んだ。
マティアスの背中は大きく微動だにしなかった。
だが彼はどんな顔をしているのだろう?
これほど美貌の少女に対して――見惚れていたら、どうしよう。
「だから泣いてばかりでは話が進まないだろう。言いなさい、あなたは誰だ? 何故俺を呼んだ。俺のことを知っているのか?」
「マティアス、それじゃまるで詰問だわ」
エリーザベトはマティアスの腕を押さえる。
こんな華奢な女の子相手にそんな固い声を出しては、答えるものも答えられないだろう。
マティアスは彼女を見つめ、戸惑ったように髪を撫でた。
「大丈夫だから。俺に任せてくれ、エリーザベト」
そのとき、マティアスの肩ごしに少女はばっと顔を上げた。
驚くほど歪んだ、憎しみのこもった目つきで彼女はエリーザベトを睨む。
(やっぱりこの子が、マティアスが選んだという魔法使いの女の子なのだわ)
理屈ではない部分で納得してしまうと、すうっと血が下がった。
実際に目にした驚くほど美しい少女は、金髪をふわふわさせながらゆらりと立ち上がり、エリーザベトに指を突きつける。
「この人が、あたしとマティアス様を引き裂いたんですね!」
「何を言っている?」
少女の大きな赤い目からぽろっと大粒の涙がこぼれた。
わなわな震える小さく赤い唇を、無理やり笑顔の形にする。
悲しくて仕方ないのに愛する人には笑いかけたいのだ、とでも言いたげな気取った微笑みだった。
「あたしたちは愛し合ってました、マティアス様! 戦争中、あたしたちは同じ天幕で過ごしたんです!」
「――は?」
マティアスの顎ががくんと落ちた。
彼は驚愕の目で少女を見、慌ててエリーザベトを振り返る。
「俺が君以外を愛することはない」
確信に満ちた声だった。
誠実なまなざしだった。
エリーザベトは震えながら頷く。
彼女はその言葉を信じた。
少なくとも――彼がソフィアを裏切ることは決してない。
戦争中何があったのか、エリーザベトは知らない。
知らないことより、目の前の彼を信じたい。
マティアスはエリーザベトの肩を抱き、静かな口調で少女に言った。
「記憶を失ったからといって俺が、あなたを選ぶとは思えない。あなたを見た瞬間、身体が身構えた。覚えていなくとも俺はあなたを敵として認識したということだ。あなたの言葉が真実であるという保証はどこにある?」
「嘘よォ!」
少女は泣きわめいた。
「戦争が終わるとあなたはあたしを捨てて、この人のとこに帰るって言って――でもあたし、追いかけてきたんですっ。ああ奥様、ごめんなさい。ごめんなさい。でも、この人が本当に愛してるのはあたし! 本当の意味で愛されているのはあたしだけなんですう!」
「――やめないか!」
美少女の敵意の視線がふっと逸らされた。
ランプの灯りに照らされて男性が一人、立っていた。
まっすぐな黒髪、赤い目、チュニック姿でも姿勢がいいのがわかる。
「レオポルド、貴様!」
マティアスが吠えた。
エリーザベトは肌がびりびりする怒声に呆然と彼の首筋を見上げる。
まるで一気に別人になってしまったかのようだった、あるいは戦場での彼はこんな感じだったのだろうか?
「よくも俺の前に顔を出せたな! 従僕が主人を裏切ったこと、忘れたとは言わせないぞ!」
レオポルドは明らかに顔を逸らした。
だが彼はマティアスの横を通り過ぎ、暗い路地裏の中で赤い光に照らされた美少女の元へ向かう。
「もうやめろ、ユリアナ。彼は妻を選んだんだ」
男の腕に肩を抑えられた少女は一層華奢で弱弱しく見えた。
彼女は金髪を振り乱し、エリーザベトに哀願した。
「愛されてないのにマティアス様に縋るのはやめてください、奥様! その人は記憶喪失で、混乱してるだけなんですっ」
パシンと軽い音が響いた。
レオポルドがユリアナと呼ばれた少女をぶったのだった。
赤い光は収まり、屋台の裏のささやかな空間は広場から洩れた灯りと月光の白さに満ちる。
一拍置いて、うわあああああんと少女は号泣した。
「ひどいひどい、おにいちゃんひどいよおおおお! なんでぶつの?」
兄と呼ばれたレオポルドは諦めたように重いため息をついた。
比べてみれば確かに彼らはよく似ていた。
黒髪と金髪の違いはあれど、同じ赤い目をして、顔のつくりも似ている。
レオポルドは強張った動きで二人に、マティアスに対峙した。
彼の前まで進み出てると深く頭を下げる。
「我が主人への反逆、申し開きもできません。私は責任をもって、妹と共に姿を消します。シュヴァルツェン家にもマティアス様にも、もう二度とご迷惑をおかけいたしません。誓います」
「……まずは説明しろ。俺は覚えているんだ。断片的だが。お前が俺の記憶を奪った。何故だ? お前は長年俺の従僕だった。何故反逆したんだ?」
「違いますうう、あたし、あたしが悪いのお」
ユリアナはレオポルドの背中に隠れて叫んだ。
「あたしの治癒魔法がちょっと違う方に作用しちゃったの! あたしはマティアス様を治そうとしたのに、それであなたは記憶をなくしちゃったの。おにいちゃんは悪くない! 悪いのは――」
彼女はギロリとエリーザベトを睨む。――お前のせいだ、とその赤い目が雄弁に言う。
「悪いのはあたしなの! ごめんなさいっ、あたしドジだから、いつもみんなに迷惑かけちゃうの。でもみんな最後には許してくれるんだけどねっ。うふふ」
男たちは彼女を無視した。
これほど美しい顔の少女の言うことに耳を傾けないなんて。
レオポルドは片腕でユリアナと呼ばれた彼女を引っ張り、手で口をふさいだ。
その拍子にネックレスが揺れ、エリーザベトは確信を深めた。




