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 この家にエリーザベトの居場所はなく、ここはすでに彼女の帰るところでもなかった。

 エリーザベトは若者の手を取った。


「はい。参りましょう」

 背後で叔父が大きく安堵の息を吐くのが聞こえた。

 若者は頷き、そうしてエリーザベトは馬車に乗り込み、生まれた土地を離れた。


 馬車はがたごと街道をゆく。

 若者は騎馬で並走する。

 もう一騎、同じくらいの若さの眼鏡をかけた青年が後ろからついてくる。


 何度か同じような旅連れとすれ違い、エリーザベトは知っている街が小さくなり、知らない街が見え、次の村、次の集落が過ぎ去るのを見た。

 目に映るなにもかもが新鮮で楽しかった。


「ご存じの通り、シュヴァルツェン家は代々軍人貴族です。軍人である父親が国から土地を賜り、軍人となる息子をその土地で育て上げる。我らの名誉は常に任務と共にあります」

「は、はい」

 その会話があったのは小休憩のときだった。

 小さな湖のほとりにささやかな雑貨店と、牛を飼う家があって、若者は彼らに小金を渡して場所を貸してもらった。


 道中、ただ黙って景色を眺めていたエリーザベトの舌はまだよく回らない。


 御者と眼鏡の青年が雑貨屋のおかみとのんびり世間話をする傍ら、特別に出してもらえた小さなテーブルと椅子に座って、若者と向かい合っている。

 男性と実質二人きりで会話するというのも生まれて初めてである。

 緊張しっぱなしで、お茶もうまく喉を通らなかった。

 エリーザベトは細心の注意を払って、黒い服に何もこぼさないようにすることに集中した。


「行先はルスヴィアと言うところです。北の国境線に近いところにありますから、あなたはまずルスヴィアの気候に慣れる必要があるでしょう。何、シュヴァルツェン家の面々は朴訥ですが気のいい連中ばかりです。もし何か困りごとがあればすぐ私に言ってくれればいい――」

「あ、あの!」

 若者は菓子をつまみつつ話し続ける。

 エリーザベトは一番聞きたかったことを聞くことにした。


「何か?」

 彼の青い目は夏の空のようで、射すくめられると吸い込まれてしまいそう。

 いいえ、何もと反射的に言いかけたが、これまでもそうしてきたからといってこれからもそうしなければならないとは限らない。

 エリーザベトは勇気をかき集め、言った。


「あの、あなたはどなたなんですの」

「……は?」

「だって、名乗ってくださいませんでしたもの。叔父も何も言いませんでしたし……」

 気まずさにエリーザベトはカップの中を覗き込む。

 底にたまった茶葉がゆらゆら揺れる。


 御者と青年が顔を見合わせた。

 ダークブラウンの髪の若者は、狭いところに入り込んで困った子猫みたいな声を出した。

 エリーザベトはびくっとして、そろそろと上目遣いに彼を見つめる。

 彼は整った顔立ちを真っ赤にして、がしがしと短い前髪をかき上げた。


「お、俺が誰か知らない……?」

「は、い……すみません……」

「……こちらの落ち度だ、すまない。謝らなくていい」

「い、いいえ。あの、あとそれと、旦那様のお名前も知りませんの」

「は?」

「私、シュヴァルツェン家の、なんという方に嫁ぐことになっているんでしょう?」

 ひゅう、と冷たい風が吹いた。

 湖面がざあざあ波立って、きらきらして、それは美しい眺めだった。

 だが二人にそっちを見る余裕はなかった。

 若者は、今度は足にとげが刺さった犬のように唸った。


「わかった。やり直そう――エリーザベト嬢」

「はいっ」

 エリーザベトは顔を上げ、行儀よくお返事する。


 若者は立ち上がり、彼女の前に跪いた。

 エリーザベトは悲鳴を喉の奥で押し潰した。

 男性が女性の前に跪く、それは、プロポーズの姿勢だからだ。

 心臓が踊り上がってざあざあ頭に血が上った。

 雑貨屋のおかみと御者たちが、わあっとざわめくのも聞こえない。


「エリーザベト・マリア・ヴィッテルスバッハ嬢。改めて申し上げる。私はマティアス。マティアス・フランツ・フォン・シュヴァルツェン。あなたに結婚を申し込んだ男だ」

「……ひええ」

 エリーザベトはとうとう泣き声を上げた。

 だって、それじゃ自分のしてきたことは。

 態度は。

 あんまりだった。


「名乗るのが遅れて申し訳ない。私はあなたと結婚したくてあなたの家を訪れた。私の花嫁になってほしい。いかがか?」

 抜けるように青い目が、きらきら光る湖面を反射して星空のよう。

 エリーザベトは顔を真っ赤にしながら彼の手を取り、ぱくぱく口を開き、閉め、やがて半分泣きそうになりながら言葉を紡ぐ。


「私、私は――はい。マティアス様」

 こくこくと頷いた。

 拒否するだなんて考えられなかった。

 そのくらい彼は男前で、真摯で、まっすぐだった。


「はい。選んでいただけて、嬉しいです」

 マティアスはうやうやしくエリーザベトの手にキスをすると立ち上がり、満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう、エリーザベト。必ず幸せにする!」

 男の大声なんて叔父の怒鳴り声か厩番たちの言い争いくらいでしか聞いたことはなかった。

 だがこのとき耳にしたマティアスの声はエリーザベトの耳にじいんと響き、心まで届いた。

 とても力強くてうっとりするほど深く響く声だわ、と彼女は思った。

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