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「とても綺麗だ」

 彼の顔に浮かんだ小さな笑みが、からかうつもりなのか本気なのかわからない。

 だがその楽しそうな弾んだ声が答えだった。

 エリーザベトは腕を絡めた彼のがっしりと太い腕をぶんぶん振りたいくらいだった。


「モニカが……前に話しましたでしょ、旦那さんにひどいことされた人よ。昔のドレスを貸してくれたの。サイズが合って、よかったですわ」

 と早口に言った。頬がカッカと熱かった。

 真っ赤になったみっともない顔を見られたくなく、ついつい足取りも早くなる。

 だが彼のゆったりした速度にすぐ引き戻されてしまう。


 彼の愛おしむような優しい視線を常につむじか頬か耳に感じていた。

 道が永遠に続いたら、ずっとこの目に見つめてもらえるのだろうか?


 エリーザベトはふと怖くなった。

 自分の戸籍はまだシュヴァルツェン家にあるのだろうか?

 もしこの彼と結婚したいなら、マティアスとの結婚はどう扱われるのだろう。

 考えなければならない難しいことがたくさんあった。


 だが彼女は夏祭りを楽しむと決めていた。

 今日ばかりは現実を忘れ、すでに恋をしたことを認めなければならない男とのひとときを楽しむのだと。


(だめだめ、すぐ暗いことばかり考えて。 彼に失礼よ)

 そんな彼女の緊張を察したかのように、彼はふとあたりを見回す。

 広場までの大通りは小さな出店で賑わっていたが、そろそろ夕暮れとあって店じまいの時間だった。

 だが、まだ何か買えそうだ。


「広場に行く前に屋台を見て回ろうか? 何か食べたい? 何が好きだ?」

 エリーザベトは顔を上げる。

 ぱっと目に付いたのは果物に飴をかけて固まらせた菓子だった。


「あれ……懐かしいわ」

「どれ? あれか。寄っていこう」

 彼は笑った。

 優しさと愛情を煮詰めて飴に溶かしたら、きっとこんな風だろうというまなざしと声。


 手を引かれて立ち寄った店の台の上、赤い夕陽を反射して飴は輝いた。

 エリーザベトはすみれの砂糖漬けを振りかけたプラムの実を選んだ。

 プラムの白いなめらかな表皮の上に、すみれの花弁が踊る少女のスカートのように固まり、固まったあとに浮いてきた砂糖の粒が雪の層のように全体を彩る。


 彼も同じものを選んだ。

 串に刺された小さな飴を二つ、購入し、ひとつを手渡されるとき指が触れ合った。


 エリーザベトはもう上も下もわからないくらいだった。

 若い男女が会計より互いを見つめることの方に夢中なのを見て、毛むくじゃらの髭面の店主はため息をついたが、こんな日に店を出すなら彼も覚悟しておくべきことだった。


 小袋にわけて詰められた土産用の飴をエリーザベトはみんなへのお土産に購入した。

 手にした串と同じものと、りんごと薔薇の花、カモミールの花と蜜、三種類のベリーの飴だった。

 彼はお金を出そうとしたが、彼女は頑として受け取らなかった。

 本当にささやかだが、修道女見習いとしてもらえた手間賃を全額持ってきたのだった。


 道のあちこちに置かれたベンチのひとつが運よく空いた。

 広場から聞こえる音楽に誘われ、若者たちは娘たちを引き連れてそっちに向かっていく。


 飴に口をつけると気持ちが落ち着いた。

 エリーザベトが舌を出したり、飴に噛み付いたりするのを彼はじいっと見つめている。

 自分の分の飴の存在を忘れたようだった。

 エリーザベトはとうとう自分を抑えきれなくなり、くすくす笑った。


「何を笑っているんだ? さっきまで黙りこくって俺のことを無視していたくせに」

「無視なんて。無視してないわ。ふふふっ――楽しいわ。そう思わないこと?」

「ああ。楽しい。なんでかな。何もしてないのにな。歩いただけなのに」

 彼は目をすがめて彼女の全身を許容する。

 体温と体温が混じり合う距離で、けれど衣服同士が触れ合わないまま。

 時間が止まればいいのにとエリーザベトは思う。


 やがて彼もくすくす笑い出した。

 男にしては軽やかな、娘じみた笑いだった。

 そうすると目の下のクマが取れて顔つきが爽やかになった。

 眉にかかるダークブラウンの髪をかき上げる仕草、膝がエリーザベトの膝に触れないよう背筋を伸ばしている様子、きっとあの手は的確に馬の世話をしてきびきび働く。

 エリーザベトはそれを知っている。


 ああ――彼がマティアスだったらどんなにいいだろう?

 魔法使いの娘から離れて、エリーザベトと運命的な再会を果たしたマティアスだったら。

 そしたらエリーザベトは生涯をかけて彼を愛すると誓うのに!


 飴を食べ終えると二人は広場へ手を繋いで歩いた。

 汗をかかないかエリーザベトはひやひやしたが、彼の笑顔を見上げているとそんなことは気にならなくなった。

 二人は広場にもつれこんだ。


 円形の広場はすでに文字通りお祭り騒ぎだった。

 中央に巨大なかがり火が焚かれ、すでに酒のにおいが充満し、お祭りのごちそうの残り香と腐ったキャベツ、たくさんの香水が入り交じった悪臭がした。

 だがそれ以上に感じるのは芳香だった。

 花と飴と水と化粧と太陽に当てた衣服の香り、すべてが鼻の奥が痛くなるほど濃厚で、頭がくらくらする。


 ろれつの回らない声や嬌声じみた笑い声が響く。

 音楽は絶え間なく、竪琴、縦笛、横笛、太鼓、そして歌声が次々に生まれては次の曲が始まり、始まっては別の曲に変わった。


 普段なら気遅れするエリーザベトだったが、今は彼がいるので怖くなかった。

 手を取り合ってくるくる踊るたくさんのペアの間に混じり、二人は踊り始めた。


 広場の上空、背の高い建物同士に張り巡らされた縄にも灯りがぶら下がっていた。

 それらは魔法で光らせた蝶々やガラスの飾りを入れたランプで、さまざまな色に光り輝いて幻想のように美しい。


 たくさんのペアたちと同じように、二人は音楽に合わせてステップを踏み始めた。

 彼のリードは自然だった。

 エリーザベトの動きはぎこちなかったが、彼に合わせていれば大丈夫だった。

 背中に軽く触れている彼の手の熱さ。

 もう一方の手は彼女の手をしっかりと握っていた。

 二人の動きは次第になめらかに、大胆になった。


「最近、あまり踊っていなかった?」

 彼はからかうように彼女に微笑みかけた。


「そうね。三年ぶりだわ」

「俺もだ。そもそも踊りの経験も、あるのかないのか。だが身体は踊れるらしい」

「足を踏んだらごめんなさい」

「こちらこそ。君をぶん回してしまうかも」

 音楽がしっとりしたワルツに変わり、エリーザベトはつま先立ちして彼の胸に頭を預ける。

 彼は笑い、彼女も笑った。

 周囲の人々も一緒に笑い合った。


 時折ステップを変えてみたり、少し大胆な動きを試してみたり。

 あらゆる音が重なった音楽が広場にいるすべての人々の心を一つにした。

 人間から立ち昇る匂いと熱気で霧が出ないのが不思議だった。


 ランプの光とかがり火の熱。

 夜空には満月と星が輝いていた。


「こんなふうに踊るのは初めてだ……」

 彼は呻くように呟き、その痛みをこらえる顔はエリーザベトの胸を掻き毟る。


「ずっと戦争に行っていたんだものね」

 と、そっと呟いて彼の胸に手を当てた。

 彼の苦痛を分かち合いたかった。

 彼が彼女の知らないところで怪我をして、苦しんでいたなんて。


 手のひらの下でドクドク脈打つ心臓を彼女は撫でる。

 戦場で泥と血にまみれていた男が日常に、普通の世界に戻ってこられるように。


「悲しいことがあったら思い出せるように、私はこの日のことを覚えていようと思います。あなたの今の様子のことも」

「わかった。俺もそうしよう。君が美しいこと、寄り添ってくれたことを忘れない」

 楽士が何か揉めたらしい、音楽が一瞬だけ止まった。

 次の曲が始まるまでの間、二人は目をつぶってお互いの匂いと体温だけを感じた。

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