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 修道女の区画の人々は突然現れた傷だらけの男に狂乱、とまではいかなかったが、好意的でない反応を示したので、彼は早々に修道士に連れられて入浴と手当をされに消えてしまった。

 ここは実質的に男子禁制の場所だから当然のことである。


 その理由としては……戦争に巻き込まれるということは、命以外の全てを奪われる場合もあるということだ。

 とくに女は。

 常軌を逸するほどひどい目にあった女性はここではなく隠された治療所にいるが、誰が心の中にどんな悲しみを秘めているかはわからない。


 水汲みを終えるともう昼時だった。

 修道女見習いの身分の女たちが集う暖炉のある部屋に向かうと、ちょうどソフィアがジュリエットにパンをちぎったのをもらったところだった。

 ソフィアはぱたぱた手を振って、母親を隣に呼ぼうとする。

 口の中がいっぱいなのでもごもごと早く飲み込もうと奮闘する。


「あはは、ゆっくり食べな。喉詰まらせるよ」

「んうー、んー」

 ジュリエットが幼女の背中を優しく背中をさすりながら片目をつぶった。

 エリーザベトは心得て、自分の分のパンとスープを炊事番から受け取った。


 分厚い石づくりの室内には擦り切れているがまだまだ使える絨毯が敷かれ、古い幾何学模様の描かれたタペストリーが下がっている。

 布製のものは何もかもが湿気を含んでじっとりしていた。

 十人以上の女と子供たちがいるのにおしゃべりは奇妙に小声だった。

 遠い空でごろごろと雷の音がして、こっちに近づいている。


 窓際にとっくに冷めたスープ皿を置いて、モニカがぶつぶつひとり言を言っていた。

 足元に六歳のサラが座ってエリーザベトに肩をすくめて見せる。


 雨が近いからだろうか、また、モニカの頭の中身が十六歳に戻ってしまったのだった。

 こうなると娘のサラを近所の子供扱いし、今いる場所を夫に出会った村の教会だと思い込んで、会話が通じなくなってしまう。


 パンを食べ終えたソフィアがエリーザベトの膝に這い寄ってきた。

 やっと自分の分を食べだしたジュリエットにエリーザベトは感謝の笑みを浮かべ、いいってことよ、と大柄な女は親指を立てる。


 ソフィアはぬいぐるみの犬を手に取って、エリーザベトの隣で遊び始めた。

 チキンスープと硬くなり始めた黒パンを手早く口に入れる母親をちらりと見上げ、

「ママー、おじちゃん、元気ですか?」

「おじちゃん?――ああ、倒れていた人のこと? 修道士様に預けたからきっとすぐ元気になりますよ」

「ソフィアね、おみあい行きたいのよ」

「お見舞い? ソフィアが行くの?」

「そう! お花持ってぇー、パンも持ってくの」

「ううーん、どうかな。修道士様のお許しがいただけないかもしれないわよ」

 修道院において男女の区分は厳格である。

 家族でもなければ見舞いすら難しいのが実情だった。

 とくにあの副修道院長は許してくれないだろう、とエリーザベトは山賊の頭のように体格のいい壮年の男のことを思い出した。

 院長先生は優しいのに、まるでその分を補うかのように副院長は厳しい。


 母親に否定されたソフィアはしばらくふてくされて口を開かなかったものの、サラが遊びに誘いにくるとすぐにぱっと顔を輝かせて応じた。


「ありがと、サラちゃん」

「いいよう。――あのね、お母さんが飛び降りようとしたら止めてくれる?」

「もちろん、そんなことがないように見ておくわ」

 繕い物を広げていたジュリエットも笑顔で胸をどんと叩いた。


「おばちゃんたちを信用しなさいって。あんまり騒ぎすぎないのよ」

 子供たちはきゃらきゃら笑って駆けていった。


 エリーザベトは食事を終え、皿をまとめてある木のタライのところへ行って水に木皿を漬けた。

 半分独白のように、ジュリエットが肩越しに話しかける。


「難儀なことだよね。子供だっていうのにさ、自分のことより大人を心配してる」

「戦争だったからよ。きっともうすぐ子供らしく戻れるわ。戦争は終わったんだもの……」

 モニカが物憂げな叫び声を上げて泣き始めた。

 エリーザベトは彼女の隣に座り、鎧戸を閉める。

 湿った風が入ってこなくなり、室内には暖炉の火の熱が充満し始めた。


 エリーザベトはモニカの頭を自分の肩にもたれかけさせ、じわじわ染みていく涙の温度を感じた。

 時々ジュリエットがやってきてはモニカの口元にパンを差し出すが、泣き続ける彼女の目には入らない。


 室内にいる女たちは何も言わず、ただモニカの状態を許容する。

 もしもここが修道院でなかったらこうはいかなかっただろう。

 村や街、あるいはシュヴァルツェン家のような名家だったら、他人に気兼ねしてモニカを閉じ込めようとする者さえ出たに違いない。

 神の名の許に治療に専念することができる修道院だからこそ、エリーザベトとソフィアだって自分の役割を得、暮らすことができるのだ。


(聖域だわ。ここにだけは迷惑をかけられない)

 とエリーザベトは思う。

 ここにいられる幸運に感謝する。

 これまで通り、静かな心とつぐんだ口でレーレン修道院に同化し、ずっとここにいたいと思う……けれど。


 どうしてだろう、泉で見つけた男のことが心から離れない。

 モニカの面倒を見、たまに駆け寄ってくる子供たちの顔を拭いてやり、身体は動くのに心の一部がそっちに取られてしまったかのよう。

 掃除洗濯や炊事番の手伝いなどの労働に手を付けてもその状態は続いた。


 彼の夏の空の青い目とダークブラウンの髪が頭から離れない。


(私……ぜんぜん思い切れていなかったのね。マティアスへの未練が断ち切れてなかったんだわ)

 ただ夫の存在を頭から締め出していただけで、気持ちはずっとあったのだ。それを知れただけでよかった、とエリーザベトは思い込もうとした。


 傷だらけの彼のことは修道士たちがなんとかしてくれる。

 修道院はソフィアを守ってくれる。

 心配することは何もない。


 彼は軍服を着ていた。

 回復したら部隊に合流するだろう。

 彼が立ち去ったら、あとに残るのはレーレン修道院が創設されて以来変わらない、静かな祈りの日々だ。


 教えと信仰心が下らない未練や恋愛感情、それからマティアスが選んだという美しい娘への想像をかき消してくれるだろう。

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