12
化け物にでもあったかのような呻き声だった。
ソフィアがびくりと飛び上がるのに、エリーザベトは正気を取り戻す。
そう、今何より優先すべきは娘のことである。
「お名前は、兵隊さん?」
「お――俺は兵隊じゃない。士官だ」
思ったよりハッキリした声だった。
彼は手で前髪をかき上げ、泣き声と悪態を交互に掃き出しながら自力で少しずつ身を起こした。
手と首に、火傷して赤くぐじゅぐじゅになった傷口がぱっくり口を開けている。
「俺は、ああそうだ。俺の下士官。従僕はどこだ? さっきまで一緒にいたはずなんだ。大砲の砲撃が直撃して……」
「落ち着いてね、士官さん。戦争はもう終わったのよ」
「なにっ?」
彼はぱっと目を見開いてエリーザベトを見つめた。
もし身体が自由に動けたら掴みかかられていただろう。
そのくらいの気迫だった。
「どっちが勝った?」
「プロスティア王国よ」
「そうか」
彼は目に見えてほっとする。
再び、洞穴が空いた岩に背中を預けてずるずる座り込んでしまう。
その目は青かった。
まるで夏の空のような深い青い色。
エリーザベトの首筋は強張り、徐々に身体が震えてきた。
「あなたのお名前は?」
「ぅ。――思い出せない。俺が軍人であること、プロスティア王国の士官であることは、わかるんだが……」
「モニカおばちゃと一緒! いっちょ!」
突然、ソフィアが声を張り上げた。
エリーザベトが慌てて捕まえる前に、ぱっと躍り出て負傷した軍人の真ん前に躍り出る。
彼は目を見開き、小さな少女の姿を見つめた。
「ソフィア!」
「あのね、モニカおばちゃもね、おじちゃんと一緒よぉ。サラのおかあちゃんでねえ、ママのねえ、ママの……ママー?」
「ソフィア、こっちにいらっしゃい」
引き寄せた娘の身体は興奮で熱くなっていた。
「ママ、モニカはママのともだち?」
「ええ、わかったから静かにして。ねっ?」
目の前の男性がうわああああ、と叫んだ。
エリーザベトは声も出せず、ただソフィアの身体をきつく抱きしめた。
だがてっきり怒り出したのだと思った男は、そうではなかった。
彼は泣いていた。
目線は一直線に彼女の娘に向かっている。
切なく、悲しそうに、小さな女の子を眺めてはらはらと涙を流す。
エリーザベトは驚愕した。
大人の男が子供に対してそんなふうに感情をあらわにするなんて、いや、大人の男が人前で感情を示すだなんて、老若男女に笑われても仕方ない振る舞いだった。
しかも彼は軍人で、士官なのだ。
場合によっては免職の理由にさえなるのだ、男が泣くなんて!
「名前はソフィア……?」
震える声で彼はソフィアに指を伸ばす。
彼女の娘が不思議そうに首を傾げながら紅葉のような手でそれに応えようとしたので、エリーザベトは内心悲鳴をあげながら娘の手を取り戻した。
全身で小さな身体を抱え込み、必死に男を睨みつける。
彼はびくっとして動きを止めたが、驚いたからであって威嚇が効いたわけでないのはどちらもわかっていた。
「いったいどうして泣いているの? 私の娘があなたに何か?」
「君の、娘?」
無精髭と傷口に涙が吸い込まれ、吸い込まれてもまた溢れてくる。
綺麗な涙だった。
ごしごしと手の甲でそれをこすった。
顔を上げた彼の目は理性的で、落ち着いていた。
少なくとも戦争で頭がおかしくなったわけではなさそうだ。
ではどうして、彼はソフィアにそんな反応を示すのだろう?
「ああ、ごめんなさい。不躾に娘さんに触ろうとするなんて、ちくしょう、俺はどうしちまったんだ? こんな小さい子に。――どうか許してください。奥様」
「え、ええ……」
「この子を見るとどうしてだか涙が出てくるんです。どうしてなんだろう、懐かしくて愛おしい……ソフィア、小さな娘……」
ソフィアはきょとんと男とエリーザベトの顔を見比べていたが、やがてすぐに花開くように笑い声をあげた。
男は涙を拭い、ふうっと心からの笑顔を浮かべる。
エリーザベトは腕を解いて娘を自由にしてやった。
とてとてと娘は彼の方へ、両手を突き出して歩き、伸ばされた傷だらけの黒い汚れまみれの手をはっしと握った。
娘のむちむちした手では、彼の手のひらを完全に包むこともできなかった。
「ああ、ソフィア……君の手はなんて小さいんだろう! なんて柔らかくて、温かいんだろう」
男は詩を読むように呟く。
やがて手が汚れと血で大変なことになっているのをやっと思い出した彼はソフィアを丁重にエリーザベトに返したが、その間も満面の幸福な笑みを浮かべっぱなしだった。
さあっと雲が切れて日の光が差し込んだ。
泉はキラキラときらめき、水面に風が吹いて妖精が遊ぶように光は乱舞する。
ああ――光を浴びて輝く、彼の目の色は夏空の青。
見覚えのある士官徽章の軍服、ダークブラウンの髪。
それからその顔。
その声。
話をしたときの、この、感じ!
エリーザベトは喉が干上がるのを感じた。
そんな、まさか。
ソフィアの髪を撫でながらエリーザベトは震える声で聞いた。
「あなたは何も覚えていないのですね?」
彼は重々しく頷いた。
「すみません、奥様。本当に何も、思い出せません。どうしてここで眠っていたのかも」
――彼はマティアスなのだろうか?
彼女の夫で、娘の父親?
だがマティアスは三年前に記憶喪失になり、そして……そして、エリーザベト以外の愛する人を見つけたはずだ。
そして戦場でその娘と力を合わせて幸せになっているはずだ。
そうだとばかり思っていたのに、一体どうしてこんなところにいるのだ?
「ここはレーレン修道院です。レーレン河のほとりにある、古い修道院です」
「あ、ああ。すると、奥様は修道女?」
「いいえ、私はまだ見習いです。動けますか?」
「なんとか」
「それでは、ついてきてください。傷の手当てをしてくれる人のところへご案内します」
それでそのようになった。
泉からの坂道を下る間、ソフィアは心から嬉しそうに二人の間を前後して走った。
こんな娘の姿を見るのははじめてだった。
これほど幸せそうな姿は。
ソフィアが不明瞭な幼児語で話しかけるたびエリーザベトは緊張したが、男はいらいらしたり怒鳴ったりなどしなかった。その兆候さえなかった。
彼はソフィアのどんな話にも笑み崩れて聞き入り、遮ったり否定したりしなかった。
ソフィアが生きているだけで彼は嬉しいようだった。
そして、小さな娘の小さな世界を受け止めるのが楽しいようだった。
不思議な感覚だった。
まるでここはルスヴィアで、親子三人で散歩をしているかのようだ。
エリーザベトは激しく高鳴る心臓に手をやった。
修道院が見えてきた。




