61.天上天下唯我独尊
第三者視点。上位存在ズ再び。
「……御前よ、見えていますか」
「うむ。実に愉快な光景であるな!」
「……見えていませんでしたか」
あいも変わらず、白い女と袞冕の男は彼女の姿を見つめている。
「……御前よ」
「何であろう?」
「……あれは、とうとう壊れましたか」
其れらの見つめる先で、彼女は全く同じ顔の存在を殴り倒している。……彼女の方がやや血色が良いから、全く同じとは言えないかもしれないが。
「壊れた!御前はあれが壊れたように見えるか!」
「……御前にはどう見えるのですか」
「うむ。あれは実に正気である。極めて強靭な精神をしているな」
「……御前よ」
「何であろう?」
「……とうとう壊れたのは、御前の方やも知れませぬ」
もはや男は呵々大笑している。こらえるのを諦めてしまったのかもしれない。
「いやはや。もはや我より御前の方が常人らしいやもしれぬな」
「……いかがなさいましたか」
「いや?御前にはあれが壊れたように見えると言うからな」
男が笑うたびに、冕冠の玉飾りも音を立てる。
「人の正気とは、何を以て保たれていると思うか?」
「……自己を見失ったものは、正気ではないでしょうね」
「では御前よ」
「……なんでしょう」
「あれは、己を見失ったように見えるか?」
女はしばし沈黙した。男は何も言わず、ただ女を待つ。
「……そのようには、見えません」
「うむ。あれはただ一つの目的のために行動を取っているに過ぎない。あれにとって、己によく似た存在を攻撃することは、忌避の対象ではないというだけのこと」
「……」
「して、御前よ」
「……なんでしょう」
「存在は如何様に自己を定義するか?」
女は再び沈黙した。思考が止まってしまったような、鳩が豆鉄砲を食らったような、そんな雰囲気をまとって。
「……如何様に、ですか」
「うむ」
「……名は、それを定義します」
「しかし存在は自ずから名を付けることはない」
「……姿は、それを定義します」
「しかし存在は己の姿を真に見る事は出来ない」
「……力は、それを定義します」
「しかし存在は自ずから同類と群れるのである」
女は苦虫を噛み潰したような雰囲気を隠さない。しかし何も言わないのは、男の言葉こそが事実であるためだ。
「……御前よ」
「何であろう?」
「……存在は如何様に自己を定義しますか?」
「無論、自己意識を自覚して定義するのである」
「……自己意識」
「『今思考している己こそ己である』。単純明快にして唯一無二の自己定義だ」
「……詭弁です」
「詭弁であろうな」
ふっ、と男は鼻で笑った。女は落胆したように肩を竦める。
「だが_その詭弁をもし体現できたのなら。それは何にも揺るがされることのない強者たり得るだろう」
「……御前よ、何を……」
「あれは、そういう存在だ」
女は身体をビクリと震わせた。それが意味するのは_驚愕と、確信。そして疑惑。
「……そのような定義は結局、強者の詭弁に過ぎぬものです」
「ほう?」
「……あれもどうせ、自身そのものの弱者性に気がつくでしょう」
「ほう、御前は……あれが今までそんなことにも気が付かなかった、と」
「……?何を言うのです」
男はやはり笑う。悠然と笑う。
「あれは冴えたものだ。我に一つの借りも作らなかったのだから」
「……」
「あれは何千と死んだ。己が弱者であることなど、とうに気づいている」
「……それは……」
「御前は、自己定義など強者の詭弁と言ったな」
「……ええ」
「間違いではないが、正しくもない」
ほう、と男は息をついた。見つめる先で、彼女と彼女でないものが相対している。
「それは強者の詭弁であるが、弱者の真理でもある」
「……」
「弱者とは、他者から押し付けられる定義であろう」
「……ええ」
「弱者が弱者から脱却するためには、自身を自身として定義し直さなくてはならない。無論、それを可能とした弱者は、ほとんど存在しないだろう」
男は慎重に続ける。
「強きを奪われ弱きを押し付けられた弱者にとって、自己とは、最後に頼る頼りないものだ」
「……そう、ですね」
「だがあれはどうだ?あれは生まれすらも弱さを押し付けられた身であったが、しかし生きている」
「……」
「強さや姿による定義を必要とせず、己を持って生きているのだ」
「……弱さもまた、他者から与えられる定義です」
「うむ、そうであるな。だが結局、あれはその弱さを脱ぎ捨てんとしている」
「……」
「あれにとって、姿も力も……“己”以外は己を定義するに足らぬのだ」
沈黙が落ちる。彼女は彼女でないそれを叩き伏せんと動いていた。彼女でないそれは必死に抵抗していた。
「あのようではな。果たしてどちらが強者なものか」
「……では、あれは……何故ああも……」
「あれは自己を既に確立している。故にその他の定義を必要としない」
「……ええ」
「だがそれは、己を奪い返さない理由にはなり得ないということだろう」
「……つまり、あれはそのように在りたい……それだけであると?」
「うむ。して、御前よ」
「……なんでしょう」
男が聞く。
「あれらの由来は異なる理を持つ世界であると聞く」
「……ええ。【死穢】もまたそうでした」
「あれらは異なる理を持つ世界で人として生きると聞く」
「……ええ。【死穢】もまたそうでした」
「常人が、人の形無きものになっても自己を保てるものであろうか?」
「……いいえ」
「いつか人になる、その心持ちだけで自己を持ち続けられるものか?」
「……いいえ。およそ人への道を見いだせぬ身であった【死穢】も、そしてあれも。容易く正気を保った理由は、未だに分かりませぬ」
「それこそが、自己定義なのである」
男が笑う。大笑する。
「人ならざるものは常人ならざる意識を持つ。御前が【扶桑樹】と成ったときは?」
「……わたくしは、始祖となってはじめて意識を得たものですから」
「そうか。我は元より人では無かったが……恐らくそうであった頃の我は既に薄れておろう」
「……」
「我はそれを受け入れてしまった。責務とはこの世で最も残酷なものだ」
「……御前よ……」
「常人とは責務に潰されるものだ。それを跳ね除けるには……」
「……揺るがぬ、揺るぎ得ぬ、常人には成し得ぬ自己定義をこそ保たねばならぬ、と?」
「うむ。我、そして【死穢】はそれを成した。して、御前よ」
男は愉しげに語る。
「あれは、それを成し得るであろうか?」
玉飾りの奥から、鋭く細められた、値踏みするような目が現れる。
其れは、比類無き赫であった。
女?「……常人には可哀想ではなくて?壊れてしまうよ?」
男?「常人に見える?」
女?「……常人……ではないかな……」
男?「ヨシ!」
どっかの死穢「へっくしょい!……風邪か?」