60.仮想現実のロールシャッハ
主人公視点に戻ります。
扉が開く。
「……は……」
空間を埋め尽くすほどのおびただしい数の黒い刃が、一斉に私へ襲い掛かった。
「あはっ!……見たことあるなぁ、それ!」
見たことがある。それは、果たしていつのことだっただろうか。そう昔ではなかった、と言うか、つい最近のことであったはずだ。
そうであるのに、思い出せない。なぜか私の記憶にそれがない。どうしようもなく悔しくて、思わずがちりと奥歯を噛み締めてしまった。
「……はぁ……はぁ」
僅かな隙間を縫ってやり過ごす。服の端、腕の皮膚、短い毛先が少し切れた。
「出て来なよ、なあ」
『……意味、わかんない』
目の前に、女が出てきた。背丈は高く、昔の中国の役人のような服装で、癖のある黒い短髪をしている。髪と同じくらい黒いその目には光が無い。肌は不健康に白くて、袖から覗いている手を見ると、爪が不潔に伸びていた。
知らない存在だ。いや、こいつの言葉を信じるのなら、私はこれを誰より知っているはずなのだが。真正面から相対すると、どうしても知らない顔に見えて仕方が無い。
『ねえ、何で来たの?もう何回死んだかも分かってないんでしょ?』
「取り返すために来た。3056回死んだ」
『気持ち悪……なんでそんなの数えてんの』
「覚えておこうと思って。私のことだからね」
『ハッ……そもそも気づいてる?アンタが、死ぬたびに自分のことを忘れてるって』
死ぬたびに?自分のことを?
……言われてみれば、いろいろと忘れてるな。何せ、もう自分の姿も思い出せなくなっているわけだから。
『諦めなよ。今なら引き返せるよ?』
「……そうしたら、私だったものはどうなるの?」
『決まってるでしょ?私のものになる……の!』
咄嗟に飛び退くと、足元から幾つもの黒い槍が飛んでくる。
なんとか全部避けたが……説得しながら串刺しにしてくるなよ。
「はあ……それさあ、『引き返せる』って言わないよ」
『なんで避けるわけ!?』
「避けるだろ、そりゃあ」
大回りして駆け抜け、そいつの懐に飛び込む。
「その身体、返してもらいに来たんだから」
『はあ?何にもないくせに大口叩いちゃって。分かってないね』
「何が?」
『だってそんなにこだわる必要ある?私がアンタになったって、世界は何にも変わrぐべっ!?』
「変わるよ」
『なんで急に殴るわけ!?だから、変わらnごばっ!?』
顔面に思い切り拳をめり込ませる。人の形をしたものは殴ったこと無かったんだけど、綺麗に食らってくれて良かったよ。
『なんで……!?アンタ、なんで自分のこと……』
「覚えてないもの」
狼狽えるそいつの腹に膝を入れる。死人みたいな見た目だけど効くみたいだね。
「私はお前を殴ってる。とりあえず、今の事実はそれだけ」
『ごほ……なんで』
「私は私、お前はお前。これ以上話が交差することもないのに、まだ説明が必要?」
いや、必要無い。もう一度拳を振りかぶった。
が、振りかぶったところで、天井から液体が降ってくる。なんとか走って逃げるが、服がまた少し溶けたな。
「ちっ」
『……あきらめるのは、アンタの方なんだから!!バカみたい、アンタなんか居なくたって別に何も変わりやしないじゃない!』
「変わるだろ」
『変わんない!!!!自惚れもほどほどにしてよ、ムカつく!!!!!』
部屋の壁に掛かっていた装飾が、一斉に私の方へと飛んでくる。ありゃ当たったら痛いぞ。
……まあ、軌道は実に一直線だな。かわしやすくてありがたいことだ。
「変わるよ。自惚れでも何でも無くね」
『はあ!?アンタがやってきたことなんて、身体さえ手に入れれば私にだってできる!』
「……ずっと言ってるだろ、私は私でお前はお前だよ」
『それが何なの!?』
「今、世界の話なんかしてないってこと」
獅子の頭、豪奢な大刀、その他諸々。全部くぐり抜けて、もう一度そいつへ肉薄した。
「私は私。私から身体を奪ろうが力を奪ろうが名前を奪ろうが」
もう一度、顔面に、右ストレート。
「永遠に、私は私でお前はお前なんだよ」
倒れ込んだそいつを、今度は蹴る。
「お前は、真に私に成り代わることはない。世界がどうだとか、そんなことは関係無い」
顔を持ち上げる。
「今の私は、ここでお前を蹴っている“私”だ。お前の身体が確かに私のものだったとしても_」
胸ぐらを掴んで、起こす。
「今、それは、お前だ」
『……だから……なぐる、って……?』
「お前が、何を勘違いしてるのか、私にはさっぱりわからないな」
ぐっ、とそいつは唇を噛んだ。
『……なんでよ……なまえもおぼえてないくせに……からだもないくせに……なんでじぶんにしがみつくわけ……』
「……お前、身体と名前が無きゃ自分になれないの?」
『だって、そんなのあたりまえ……』
「なんで?」
『なんで、って……』
「身体も名前も、どうせ後付けなのに?」
『……』
「そんなのいつ無くなるか分からないのに?急に記憶を失ったら?事故で顔が変わったら?何かのっぴきならない事情で名前を変えなきゃいけなくなったら?自分じゃなくなるの?」
『そう、でしょ……』
「どうして?」
そいつの掴んだ胸ぐらを離す。そいつはじっと私を睨んだ。
「名前、身体、能力。そんなの全部詭弁だよ」
名を取り戻す。姿を取り戻す。力を取り戻す。でもそれは、私になるためじゃない。
「今ここで考えている“私”こそ、誰もそれを疑えないたった一つの私の定義」
私が私であるからだ。