53.回向を願う
……視界いっぱいに、白が広がる。それもただの白ではなく、世界そのものが薄ぼんやりと光を放っているようだった。
『まるで死後の世界だな……おや?』
あの凝り固まった声帯を引きつらせることもなく声が出る。でも……実体は失われていた。久方ぶり、というほどでもないが、再び非実体に戻ったのか。
『……いや、それよりもっとひどいな。ただの意識体になっているとは』
身体を動かそうとして、やっと違和感に気がつく。そもそも私の肉体を構成するようなものが存在していないのだ。
私は今、肉体どころか霊体すらも持たない、ただ意識だけがそこに投影された存在として、ここに居る。
『浄化成功……シーンの移動……ふむ』
ログを信じるなら、少なくとも作戦の3段階目までは成功しているはずだ。まさかバグで世界の隙間に閉じ込められた、なんてことはないよね?
『取り敢えず待ってみるか……ん?』
遠くに人影が見える。……うん、確かに人だ。
『失礼、そこの人!』
届くかは分からないが、声をかけてみる。その人影は少し揺らめいたかと思うと、くるりとこちらを向いた。
どうやら伝わったみたいだ。人影はそのままこちらへ歩いてくる……が、少し歩くとすぐに止まって、あたりを訝しげに見回した。
『ああ……もう少し進んでくれる?まだあなたの顔が見えてないんだ。……うん、そのくらいで』
その人の顔が、はっきりと像を結ぶほどの距離まで近づいた。
……うん。やっぱり。その人の顔は……【風化鬼】になる前の、かつてのあの青年の顔だった。
『ええと……はじめまして。私からすると初めてじゃないんだけれど。会話はできる?』
「……はじめ、まして。すまない、誰かと会話をするなんて……自分でもわからないほど、久しぶりだから」
お、声は出せるのか。良かった良かった。正気も保っているみたいだし、なんとかなりそう。
「ええと……あなた?が、私を助けてくれたのだろうか」
『いいえ、と答えておこうかな』
青年は目を丸くした。そんなに変なことを言ったか?言ったか。まあ傍目から見たら、私が彼を助けたと言っても間違いではないし。
「……囚われていたんだ。あなたは……どうやったのかは見当もつかないけれど、私を私に戻してくれただろう?」
『それはそうだね。でもそれだけじゃ、あなたを助けたことにはならない。これだけで終わりじゃない。あなたは、これから救われるんだ。あなた次第でね』
永い永い間、積年の孤独を癒すことも出来ずに罪を重ねた身体。それを実際に救うのは、救えるのは、私ではない。
私は……そう、ほんの少し手助けをするだけ。
『あなたが助かるためには、あなたが赦されなくてはならない』
「ああ、つまり……あなたは、私を赦すかどうか、これから決めると?」
『いいや?私ではあなたを赦せないから、違うね』
私がそう言うと、青年は諦めたような目をした。
「はは。そうだね、分かっていたよ……」
『……何を勘違いしているのか知らないけれど、私はあなたが赦されるべきだと思ってるよ』
「……?どういうことだ?あなたは……私の行いを、業を赦せないと……」
『ふむ、根本的な勘違いを一つ正そうか。まず、“私ではあなたに赦しを与えられない”ことと、“あなたは赦されるべきである”ということは、十二分に両立する』
青年は随分……あー……形容し難い表情をし始めた。まあこの辺の複雑さは、この作戦を考えついた私でも困惑してくる部分ではあるけれども。
『そもそも私は、あなたを赦すのも罰するのも、あなたのしてきたことをよく知る人間にしか与えられない権利だと思っている』
「……それは、そうだ」
『でも、私はあなたのしてきたことを知らない。人であったあなたが一体どれだけの善行を積んできたのかも、悪鬼になったあなたが一体どれだけの命を奪ったのかも、何も知らない』
「……」
『私はあなたを赦しようが無いんだよ。だって私は_あなたがかつて、善人であったということしか知らないから』
青年は押し黙る。私はじっと待った。重い沈黙が、数秒空間を支配して_青年が口を開く。
「でも、私は……私は喰い殺した、ああ思い出した、最初に喰い殺した彼は染物の名手だった、彼はあの後、彼の花嫁の衣装を紅く染めるはずだったんだ。二人目は隣に住む老婦人だった、御主人の遺した畑を毎日世話して、時折思い出話を語ってくれた、喰ったその日は、身寄りのない私の墓の世話をしてくれていたんだ。三人目は旅人だった、もしこの廃屋敷から宝を持って帰れれば、妹に薬を買ってやれるんだと言っていた、私はそれを聞いたんだ……それから……」
……難儀な運命だな。その一言では片付けられないほど、難儀だ。背負いきれるはずもない自分の罪と向き合って、抱えて。何回死にたいと思っただろう。命を以って詫びたいと考えただろう。
「善人であった、なんて、うそだ……わたしは……ぼくはただ、二度も捨てられたくなかった……だから、知りもしない誰かの言葉に流された……ぼくのせいだ」
ああそういえば、彼の家族についての描写は無かったな。孤児だったのか。その負い目があるからこそ、「村を守るために」なんて甘言に流されてしまったと。
『そう。じゃあ……あなたは、捨てられたくないがために村人へ何をしたの?』
「隣の畑を、毎日手伝った。野菜をもらうたびに、ただ申し訳なかった……。染物屋の卸を請け負いもした。怪我をした御主人の介護もしたし、声を掛けられればどんなことでも頷いた。ただあの村に居座るのは苦痛で、対価を差し出さなければいけないと思って、だから、善い人のふりをしていたんだ……」
『ふうん……親切そのものは、しなくてもいいのならやりたくなかった?あなたにとって、他人への親切とはすなわち自分が物質的および精神的に満ちるための手段に過ぎなかった?』
「……」
青年はまたも黙り、そして俯いた。……ちょっと底意地の悪い質問をしたかな。たっぷり数十秒の無音が場を支配したその後、青年はたどたどしく語り始めた。
「……そんな、はずは、無い……私はきっと、それだけの人間では無かった。そのはずだ」
『どうして?』
「…………私を育ててくれたのはあの村だ。あの村の人々はみんな満ち足りていた。満ち足りているから優しくしたいのだと、そう言って……私を育ててくれた。……だから、そう、ぼくも、そうあるべきだと……」
いい人ばかりが居る場所だったんだなあ。やっぱり運営は無辜の人に恨みがあるのかもしれない。
でも……その村人たちが施したことは、無駄ではなかったようだ。だってここに、それを継いだ人がちゃんといる。
『……なら、やっぱり、あなたは善人だと思うよ』
「え」
『……こんな言葉がある。「汝の人格やほかのあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」』
「……?」
『簡単に言うなら、「親切はいつだってそれ自体が目的であるべきだ」ってとこかな。ただそうしたいと思ったから手伝った、守った、助けた。善性とはそういうもので、そうであるべきだと』
「あ……」
『あなたはさっきこう言ったね。「満ち足りているから優しくしたい」、「自分もそうあるべき」と』
「………………」
『……私はあなたを赦すことも罰することもできない。あなたの善行も悪行も、知る存在はおそらくもう居ない』
でも、だから。
『だから……もしあなたが、自分の善性に気がつけたのなら』
『あなたが、あなた自身を、赦してあげてほしい。あなたを赦せるのは、もう、あなた一人しか居ない』
「ぼく……は……」
『あなたはどうしたい?』
「……救われたい。赦されたい。私は私の善行を思い出すことができたから」
『うん』
「でも、私自身の悪行を憶えているのも、最早私だけだ」
『……そうだね』
「だから……私は……」
『……』
たっぷりと、長い、長い、沈黙。
私はただ待つ。
青年はやっと顔を上げる。
「だから……私は私を罰して、そしていつか赦して、先へ進む。私は……僕は、そうするべきだと思う」
その顔は、穏やかに笑っていた。その身体が、少しずつ光の粒子となってほどけていく。
多分だけど、時間切れが近いな。
或いは、満足した?
『ああ。それが一番いいと思うよ』
「……ありがとう。確かに私を救えるのは私だけだった。でも……手を差し伸べたのはあなただ。だから、あなたに救われた」
『ふふ、良かった。手はないのだけれど』
「……ははっ。……あなたを見て……感じていると、ある人を思い出すよ」
?誰だ?
「……いつか……関係もないのに、豪雨に濡れる村のために、祈ってくれた旅人がいたんだ。私たちは彼に、ひどい扱いをしたにもかかわらず」
……あ、あの。良い方の旅人。
「彼の名前は確か、そう……」
青年は最早、ほとんど光の粒だけになっている。私の意識もぼんやりとし始めた。
「そう……“歳”と言ったはず……」
彼はそう言うと、今度こそ本当にほどけて消えた。
そして、私も。
『物語任務【回向を願う】をクリアしました』
『解放:エンドC【自己救済】』
『称号獲得:【回向を願う】』
『条件達成。スキル獲得【光魔法】【陽魔法】』