第八十七話 今は、静かに眠って
20の敵影に包囲を受ける。
青く輝く、膨大な数の未来の軌跡。
認識は飽和し、意識は圧倒され、為すべきことの甚大さに気後れし、意識が萎む。
ジェイン・ジェア・ジェイル、彼以外の者がこの様を目の当たりにしたならば、恐らくは100人が100人、そうなっただろう。
だが、物心ついたころから寄り添う様に、起こり得る未来を虱潰す様に思い描き続けてきた彼には、彼にならば、受け入れ吞み込める光景だった。
青い輝きに塗りつぶされたような情景、その感隙に身を差し込み、軌跡をなぞって波動の剣を振る。
10体が飛び掛かり、残る10体は駆けて寄る、統制の取れた獣型呪痕兵の動き。
ライムへとよる彼に合わせた為か、やや偏りのある布陣の隙間にジェインは滑り込みむ。
自ら迎え入れたかのように刃が1体の呪痕兵の口腔に突き刺さった。
高速振動する剣身が口の端を裂き、脇腹を捌いて後ろ足へと抜ける。
まともな着地は出来ず、顔面から落ちたそれは立ち上がることなく倒れ込んだ。
呪痕兵達の牙も爪も、突進すらもまるで彼を避けたかのように擦過すらせず、彼は包囲の輪の外へと逃れた。
『峻厳』による統制の為だろう、呪痕兵同士の衝突はなく、襲撃が失するや否やすぐさま体勢を整え、再び即座に突貫する。
未だ背を向けたままのジェイン目掛け、文字通り牙をむく呪痕兵。
その1体の天頂に向けて、ライムの踵が落ちた。
眼球を模した水晶体が圧力で飛び出し、得体の知れない粘液を引いて本体ごと地に落ちる。
ジェインはそのまま振り向かず、彼女と入れ替わってその背へと向かっていた呪痕兵へと視線を転じた。
再び描き直される、虚空に浮かぶ軌跡。
牽制に右腕目掛けて食らいつかんとする呪痕兵に合わせて、左へ半歩踏み出し同時に振り下ろした波動の剣が、あっさりとその首を落とす。
同じく右足へと爪を振るうそれの右前足が、同時に切り裂かれた。
左肩、そして左の脇腹へと牙をむく呪痕兵、ジェインは踏み出した左足を軸に半回転し、振り下ろした右手の剣をそのまま背後まで振り抜き、腕は1回転して前へと戻る。
顔面を半分に割られ、喉笛まで断たれたそれらは首の伝達系をやられたのだろう、そのまま地に落ち生き物じみた痙攣をおこした。
ただ腕を1回転する、そんな挙動で4体の呪痕兵を切り伏せた彼は。返す左の刃で右前足を切り落としたそれの眼窩へと突き立てる。
身を低くしながら更に半回転してライムを背にし、正面へと向き直った。
***
地に伏せた、ひしゃげた呪痕兵の顔面を踏み潰し、ライムは前へと踏み込む。
石畳を駆ける1体を左足で蹴り上げた。
それに巻き込まれ、空中で体勢を崩す呪痕兵目掛けて、自らの額を合わせる。
下顎を痛打し、勢いを失い落着するそれへ、返しの左踵が首を踏み砕いた。寸断された頭部が、衝撃でくるくると宙を舞う。
3体目の呪痕兵の攻撃が、遂に届いた。
肩へと食らいつき、骨を砕かんと口腔からの圧力が増す。
ライムは顔を顰めるも声は上げず、体を回転させた。
遠心力に振りきられ、後方に吹き飛ぶ呪痕兵。
意図せずジェインの戦域へと飛ばされたそれは、地に落ちる暇さえなく胴を断たれて光を失った。
さらに踏み込む彼女。
再び飛び掛かってくる3体の呪痕兵を、身を屈めて傾いで構え、背と肩を使ってまとめて吹き飛ばした。
自らの勢いもあってか顔面は潰れ、有り得ぬ角度に首が曲がる。
藻掻きのたうつそれらを、ライムは丁寧に踏み潰した。
その反動を利用して、彼女の体が浮かび上がる。
舞い上がっていた呪痕兵の頭部を、ライムの右脚が蹴り抜いた。
弾丸のような速度で飛ぶそれをもろに受け、1体の呪痕兵の頭部が爆発でもしたかのように四散する。
爆裂する破片を受け、怯み動きの鈍った呪痕兵を見逃さず、半ば強引に彼女は包囲網へと侵入した。
無謀ともいえるその挙動に、しかし無機なる兵隊たちには動揺も、また驕りもない。
冷静に、若干の時間差をおいて襲いかかった。
正面から振りかざされる爪を身を下げて躱し、背後からの1体に右足を上げ踵を叩きつける。
そしてライムは左足だけで跳躍し、その左足を跳ね上げ殆ど地面と平行になる様にして背後のもう1体を蹴りつけた。
更に空中で身を捻り、半回転して彼女は背から地面へと落ちる。
好機と見て、呪痕兵達が群がるように飛び掛かった。
だが彼女は背筋と体幹の力だけで、全身を発条が弾けたかのように回転させる。
竜巻を思わせるような蹴りが、旋風の如く巻き起こる。
挙動そのものは想定できても、この勢いは想定外であったのだろう。
致命の一打とはならなかったが、悉くが蹴打を食らい吹き飛ばされた。
地面へ足裏を叩きつけ、やや離れたところまで後退した呪痕兵へと肉薄する。
体勢を整える暇なく接近され、それは胴部を蹴り折られた。
返す刀ならぬ足で次の標的を選定するも、その必要は無いと知る。
血振るいするように双剣をかざすジェインの足元に、残る呪痕兵が全て砕け散っていたからだ。
こちらを見、微笑む彼に同じく笑みを返し……
しかしライムの表情が驚愕に染まる。
彼女の変化に、ジェインは笑みを怪訝へと変えた。
そして何か、頬に伝うものを知る。
何とはなしに、彼は指先でそれを拭った。
赤。
「え?」
血。
それは鮮血だった。
かすり傷すら負った覚えは無いというのに、指に付いたそれは確かに血液だった。
不思議そうに、ジェインは改めてライムへと視線を送る。
彼女を見たつもりだったが……見えなかった。
視界の全てが真紅に染まり……そして全てが、闇へと沈む。
「ジェイン様!」
顔面の穴という穴から血を流し崩れ落ちる彼。
真白に染まる思考とは裏腹に、ライムの足はジェインへと向かった。
倒れ伏す彼の襟首を咄嗟に噛み留め、飛び退る。
「ライム!」
ヘルムートの声。
思考による判断ではなく殆ど反射で、彼女は彼の元へ走った。
「ヘ、ヘルムート様! ジェ、ジェイン、ジェイン様が!」
「落ち着け任せろ大丈夫だ! 深呼吸しろ!」
転瞬、三人の足元が、沈む。
異常を察知したマコトが『岩山石林礫川の枯庭』を操り、隔離したのだろう。
ヘルムートは息をつきジェインを横たえようとするが、それを拒否したのは当のジェインだ。
「おい、無理するな。大丈夫……な訳ないだろ」
「……そうですねっ。不覚でした……本当に小生は進歩がない……っ」
自嘲するように、彼は言う。
思えば当初、『古今到来』に目覚めた時もそうだった。
慣れぬ力に意識を割き過ぎ、段階と限界は意識すら出来ず、結果としての過負荷は肉体に影響を及ぼす。
短い間に二度もそれをした、代償だろう。
足元の下降が止まった。
岩の壁が蠢き、斜めに伸びる通路が生まれる。
恐らくは、ブラックウィドウに続く道だろう。
そこを通してか、爆発音が鳴り響いた。
「行って下さい……小生は休めば大丈夫ですっ。今の戦況で……三人も穴は開けられないでしょう……」
「馬鹿野郎、この有り様のお前を放っておけるか!」
ヴォルフラムの混沌領域の影響で他者の治療……外効系魔法は行使出来ないが、側脈ではなくマナそのもので陣を為す錬金術ならばその範疇にない。それは先ほど、パメラへの攻撃から判明している。
癒せるはずだ。
本来ならば、ライムだけでも上に戻したいのだが、この精神状態では……
「ライムさん……」
「は、はい」
慣れぬ響きの呼びかけに、別種の動揺覚える。
朦朧とした様子で訥々と、ジェインの口から言葉が零れていった。
「しばらく僕の……代わりとなってはくれませんか……? あなたなら……きっと……」
「ジェイン様……」
茫洋とライムを眺めながら、年相応の声音で、そんな言葉が紡がれる。
そんなジェインに、彼女は決意を込めて頷き返した。
動揺は、最早ない。
彼は嬉しそうに微笑み、何事かを呟いた。
音を立てて、ライムの腕が解き放たれる。
力なく俯いたジェインの頬を、彼女の右手が触れた。
輝く指先が、血を拭う。
「ライム、お前……」
「ヘルムート様」
呆気に取られた様子のヘルムートに、妹の従者は静かに言った。
「ジェイン、さんを……お願いします」
「……ああ、分かった」
最早何時もの様に言葉を返し、それに彼女は頷き返し。
眼前の坂道を、駆け上がる。




