第八十四話 かつての理想が地に降りて
『……笑いませんのね?』
『……笑えるわけが、ありませんねぇ』
笑いそうになったことは棚に上げ、ヴォルフラムは答える。
笑えるはずがない。
先を見据えて、未来を見て生きている彼女を、疑念はあるままそれでも流されるまま生きている、自分が。
『それで? ヴォルフラムさんはどうされますの? 私の話を聞いて、貴方はどうあって下さいますの?』
念話という精神感応の交感ゆえの、感受性だろう、安堵交じりのどことなく上機嫌な調子で、パメラは言う。
『……本当は、とっくの昔に分かり切っては、いたんですよねぇ。真っ平ごめんだと』
他者の意のままに、唯々諾々と死ぬまで、逸れることなど許されぬ決まりきった道を行くことなど。
それでも踏ん切りがつかなかったのは、己に先の展望がなかったからだ。
例え道を外れたとて、その先に自分は何をする? 何を為す?
何がしたい?
それが今、氷解した気がする。
正に背を、押されたのだろう。
貴女に。
『それは、重畳ですわ』
彼の答えに、彼女は嬉しそうに言う。
『同志を募っているんですよねぇ? けりをつけたら、同道させてはもらえませんかねぇ』
『ええ、歓迎いたしますわ。ああ、そうだ』
『何ですかねぇ』
『その表敬の儀とやらは、何時行われますの?』
『三日後ですねぇ』
『よかった、それなら間に合いそうですわね』
パメラの言葉に、ヴォルフラムは眉を顰める。
『何をされる心算ですかねぇ』
『同志の門出に、お付き合いしたいだけですわ……これでも私、怒っていますのよ』
『それは、恐ろしいですねぇ……パメラさん』
『何ですの?』
『ありがとうございます』
『どういたしまして。思うが儘、決着を迎えなさいませ』
そして彼は、表敬の儀に臨む。
と言っても、何も難しい事をするわけではない。
プレゼビディア氏族領内祭儀場にて麋鹿の姿となり、仕えるべきエルゥに跪き、首を垂れ、平伏する。
そしてその頭に、主たるエルゥが手を置く。
ただそれだけだ。
隣に付く鹿獣人の長が、彼に頷きかけた。
ヴォルフラムの体が変異していく。
それを見るエルゥは、その想定外の巨大さに目を剝くが、威厳を取り繕うつもりか何事もなかったように咳払いをして見せた。
そして彼に対して、鷹揚に頷きかける。
これに膝を付き、頭を下げる。
それで終わる、はずだった。
曲げるべき脚を振り上げ、振り下ろす。
何の警戒もしていなかった眼前のエルゥは叩き潰され、木製の床に血の花が咲く。
しんと、静まり返る室内。
何が起こったのか、理解が追い付いていないようだった。
ヴォルフラムが喉を震わせ、雄叫びを上げる。
そして再び三度と蹄を打ち鳴らし、脚を振り下ろした。
その度に床に、一輪また一輪と破甲の花の如き赤い大輪が次々と咲き乱れる。
衛兵を呼べ、血迷ったか、そんな声がエルゥ達から、また鹿獣人たちから無数に上がる。
最早、侮蔑しかなかった。
その一切合切を無視して一緒くたに、彼はそれらを踏み潰す。
立ち上がり、頭を大きく振り上げた。
巨大な角が梁を折り、天井を突き崩す。
祭儀場の屋根から、規格外に巨大な麋鹿の頭を覗かせた。
そして、吠える。
低く、禍々しいとさえいえる草食獣の雄叫び。
祭儀場に駆け付ける者たちの足が否応なしに留まり、へたり込み、そして我先に逃げ出そうとする。
『ええ、良しなに』
打ち合わせの通り、彼のそれに連動して、プレゼビディア氏族領を取り囲む木の柵が全て砕け散った。
地面を突き破り、巨大な黄金の棘の柱が次々と屹立したからだ。
外部への道は完全に封鎖され、無理に抜けようとすれば全身はずたずたになるだろう。
更にその黄金の棘は、内へ内へと、祭儀場へと、そしてそこに生えるプレゼビディアの象徴たる破甲の樹へと追い立てる様に次々と立ち上がる。
破甲の樹など信望するならば、いくらでも打開は出来そうなものだが、そもそもこのような荒事がついぞ起きることのなかった平和な、平和に過ぎた領内だ。
抗う者などほとんどおらず、追い立てられるがままに麋鹿の前へと引っ立てられる。
棘に貫かれるか、或いは巨獣に踏み潰されるか。
追い詰められた者たちは、ついに思い出したように鹿獣人達に撃退命令を出す。
だが、些か遅すぎた。
そしてヴォルフラムに、容赦はない。
同じく獣化し襲い掛かってくる同族……同族としようとした者たちを悉く踏み潰し、或いは角で宙へと放った。
忌み子、と。
最後に残った、彼の生みの親がそう、震える声で言う。
意図して残したわけではなかったが、だがそれ故にそんな言葉を聞くこととなった。
ここまで来て、出てくるのがそれとは。
『幸せなおつむをしてますねぇ』
そう呟いて、ヴォルフラムはそれの、呪われた生涯に終止符を打った。
「終わりましたわね?」
黄金の棘の上を飛び、彼女は彼へと声をかける。
『パメラさん、ですかねぇ』
「ええ、そうですわ、ヴォルフラムさん」
『……お初お目にかかる場が、こんな酸鼻極まりない場所で申し訳ございませんねぇ』
「お気になさらず」
金の髪を靡かせ、パメラはゆるゆると首を振った。
『ただまあ、まだ終わりでは、ないんですよねぇ。一応少し、下がっていてくれますかねぇ』
首を傾げる彼女に、ヴォルフラムは今や唯一の生存者たる、破甲の樹へと視線を転じる。
前脚を振り上げ、どっかとその幹に蹄を突き立てた。
『選べ』
繫栄の主にして、事の元凶に彼は低く問いかける。
『服従か、根絶か』
その言葉に、破甲の樹は突如として無数の実を結実させた。
それを認めた瞬間、ヴォルフラムは容赦なくそれを蹴りつける。
幹が抉れ、ぶちぶちとちぎれる根から零れる樹液が爆裂するのも構わず、彼は破甲の樹を完全に押し倒した。
そして生った実を、枝葉も厭わず食らいつく。
最期の抵抗とばかりに巻き起こる爆発を強引に無視して、咀嚼し嚥下した。
「だ、大丈夫ですの、ヴォルフラムさん?!」
胃の腑でも起こったであろう爆発に血を吐きながら、麋鹿の顔で彼は笑った。
『ええ、大丈夫です……服従も根絶も拒むのならば、力で従えるのが必定でしょうねぇ』
それはそれで、立派なのだろうが、彼に何らの感慨を覚えさせるものではなく、故に無意味でもある。
今度こそ、完全に終わったと判じたのだろう、パメラが周囲の金の棘を全て降ろした。
「改めまして……パメラ・ダンクルベールですわ」
血みどろの大地、血まみれの獣を前にして明らかに場違いなほど優雅に、彼女は一礼して見せた。
巨大な麋鹿が光に包まれる。
それは収縮し、人の姿へと変じていった。
灰色の髪、同じ色の瞳、淡く緑に輝く双角。
「……元ハウアー鹿獣人族、ヴォルフラム。ヴォルフラム・ハウアーと申しますねぇ」
パメラ宜しく、彼も同様に一礼する。
改めて、彼女の見やった。
金色の髪、同じ色の角は側頭部で渦巻くように伸び、榛色の瞳は見開かれ、白い肌は何やら赤みがさしている。
ぱくぱくと開閉される口からは、何らの言葉も出てこなかった。
「……?」
こちらを凝視する彼女の視線を追って、彼は自身を見下ろした。
引き締まった褐色の、筋肉質の体。
そこには一糸たりとも纏うものは無く、全てがさらけ出されている。
「あ」
そしてパメラの絶叫が、最早誰一人としていない森の中をこだましたのだった。
「とんでもない辱めを受けましたわ!」
「いや痛い痛い、脇腹を蹴るのを止めてもらえますかねぇ……」
ぷんすかと怒りながら、彼の背に乗りどこどこと蹴りを入れるパメラに、ヴォルフラムは控えめに抗議の声を上げる。
「嘘をおっしゃい、破甲の実の爆発でびくともしない毛皮に、この程度でどんな痛痒があるとおっしゃいますの!」
そういわれると返す言葉がなかった。
あの後倒れたパメラを前に彼はしばらくおろおろとし、もう一度麋鹿に変じって彼女を咥えその背に担ぎ……今に至っている。
「当方が迂闊だったのは認めますので、機嫌を直しちゃくれませんかねぇ」
「……まあいいでしょう。貴方の門出を祝すに免じて、許して差し上げますわ」
「ありがたきお言葉ですねぇ」
「何にせよ、これにてヴォルフラムさんは自由の身ですわね?」
「ええ、その通りですねぇ。ご協力、感謝です」
「まあ、下心があったのは否めませんけれども……これからよろしくお願いしますわね? ヴォルフラムさん」
「ええ、こちらこそ」
***
「ええ、これが夢なら、今までの現は正に悪い夢でしたとも……パメラ!」
そして彼は右手を引いて、彼女の腰に左手を回し、小さなその身を抱きしめた。




