第百四十八話 彗星の如く現れて
こうなることは、分かっていたつもりだ。
血泡を口の端から零しながら、ヴォルフラムは思う。
そう、分かってはいたのだ。
未だ彼女が、正気であるはずがないということを。
だが、余りにも……余りにも彼女が何時もの通りだったから、期待を抱いてしまった。反応が遅れた。
そしてそれは、カーリンも同様だったようだ。
必要最小限度に展開された彼の混沌領域『停滞空間』も、カーリンの『自生行為』、パメラの領域の展開速度についていけず、ばら撒かれた毒素を吸い込むこととなった。
僅かとは言え強力な毒に当てられ、ヴォルフラムの目からは血涙が流れる。
意図して肉体を損傷する領域を展開するカーリンは、彼ほどの悪影響は出ていないようだが、大鎌を持つ手は震えていた。
「っくそ!」
悪態をつきつつ、ヴォルフラムは身の嵩を増そうとするが……膝が折れ、崩れ落ちる。
咳が止まらない。
彼女を見上げる。
何も見ていない、瞳孔の開き切った瞳がこちらを向いていた。
『パム……』
飛行を維持できなくなったカーリンの体が、地に落ちる。
縫い留められた口の隙間から、だらだらと血潮が零れ落ちていく。
そんな二人に、何らの感情を見せずに、パメラは右手を掲げた。
金色の棘の槍が、音をたてて結実していく。
そして彼女はその手を振り下ろし……
振り下ろすこと叶わず、その体は宙を舞った。
毒の塵芥を突き抜けて現れた、二輪駆動機の突撃を受けて。
予想だにしていなかった一撃に防御の術も無く直撃を受けたパメラは、護謨毬のように跳ね跳び、地を転がり、そのままぴくりとも動かなくなる。
倒れた二人の前で、二輪駆動機が停車した。
ひらりと身を翻し、運転手が舞い降りる。
白衣に緋袴、背に背負うのは長銃と段平、そして何より異様なのは、顔面に装着された厳めしい防毒面模だった。
「どなた、ですかねぇ……」
巨大な鹿獣の口からの人語に、闖入者は流石に驚きの様子を見せるが、取り乱す様子はなかった。
それどころか、
「御無事ですか、お二方」
と、声をかけてきさえする。
女性の声だ。
だが返事をしようにも、咳とこみ上げる灼熱感がそれを妨げる。
二人の状況を把握したのか、その女性は二輪駆動機に積んであった鞄から、何やら取り出した。
それは口元を完全に覆う、吸入器の様だった。
一つは地面に置き、臥せた鹿獣の口に当て、もう一つは片腕と両足のない少女の、唯一残った右手に持たせる。
『何これ……』
「解毒薬です」
『何でそんなもんを……』
「以前彼女と、一悶着ありまして」
言って彼女は立ち上がった。
毒の霧が晴れていく。
どうやら地に転がった彼女は、完全に気絶したようだった。
「……モモイさん?」
かけられた声に視線を向ければ、馴染みの顔が二つ。
そんな二人に、彼女は優し気に声をかける。
「お久しぶりです、マコト殿、ライム殿」
***
長い黒髪を、頭の高い位置で括った、白衣緋袴の女性。
以前に、正に同一の敵パメラ・ダンクルベールを前に共闘した水王国特選部隊隊長、モモイ・ソノ。
しかし振り向いた彼女の顔に、マコトは一抹の不安を抱いた。
顔面をすっぽりと覆う不気味な意匠の面模……彼の知識からは対疫病の覆面としか思えない……からは、当然何らの表情は伺えない。
「お久しぶりです、マコト殿、ライム殿」
くぐもった声、だが知ったそれに、ライムは安堵のため息をこぼす。
「お久しぶりです。……ええと、再会早々大手柄をたてられたようで……」
「恐縮です。礼節を欠いた対応だとは思ったのですが……怨敵を目の前にして思わず」
二輪駆動機による、パメラへの突撃を言っているのだろう。
その目の前に、倒れ伏す二人……ヴォルフラムとカーリンがいたのだから、やむを得ないと言っても言い訳にはなるまい。
モモイの視線は地面に転がる怨敵を追い、マコトのそれも彼女に続く。
白い大地に横臥するパメラの体は、ぴくりとも動かなかった。
「……死んではいない、ですよね?」
「大地に沈む様子もありません、大丈夫でしょう。そもそもドゥルス族の頑健さは並外れていますから、あの程度では」
モモイ曰く、二頭引きの駄獣車とドゥルス族の衝突事故で、ドゥルスが打ち身、駄獣が死亡したという例もあったらしい。
それだと彼女の搭乗していたあの二輪駆動機の耐久性は何なのか、という話にはなるのだが。
興味深い話ではあるが、だが今はそれどころでもない。
『エウロパ! こちらに合流して、パメラの対応を。カリストさんは、モモイさんに状況説明をしてもらえますか?』
マコトの念話にそれぞれに了解の返答が続き、彼はそれを背に受け『孤独の天蓋』を構築しつつ、小走りで倒れ伏せたパメラへと向かう。
そのすぐ隣に、エウロパが唐突に姿を現した。
逆『取り寄せ』を、マコトを対象に使用したのだろう。
彼は特に驚いた素振りも見せずに頷き、二人は肩を並べて歩を進めた。
***
「ふむ、成程……」
カリストから事の次第の説明を受け、モモイは深く頷いた。
防毒面模は既に外され、彼女の麗しい素顔が顕わとなっている。
未だ地に伏せた鹿獣から避難がましい視線を受けていることにも、納得がいったようだ。
ヴォルフラムも視線こそ剣呑だが、それだけだ。状況への分別は、流石にあるらしい。
「既に前例があるのでしたら、私は皆さんの判断を尊重します」
「ありがとうございます。時にモモイ殿は、何故ここに? お一人ですか?」
「はい、私一人です。理由は……私以上の戦力がいないからです」
最精鋭だった特撰部隊員は軒並み討たれた。
遺体すら、回収できていない。
そしてマコト達から共有された情報を鑑みれば、彼らの死の尊厳すら冒涜されている次第。
背理、背反、背徳の極み。
看過はできない。
故にモモイは合流した補給部隊からの物資の補充を受けた後、単身火王国へと侵入し……
目に映った仇を敵を、追突にて打破したのだ。
「お話を伺うに、間違った対応ではなかったようで」
「……まあ、手間は省けましたが」
「……」
二人の会話に、ヴォルフラムは物言いたげな視線を向けているが、そんな彼の角にヘルムートは着替えを引っ掛けた。
例によって、変身によって弾けとんだ服の替えだ。
彼は律儀に会釈し、ブラックウィドウの影へと姿を消す。
「死の尊厳、その冒涜……」
モモイの言葉を、ドートートが反芻する。
その呟きを耳にし、彼女は彼を見た。
「貴方は?」
「失礼、ドートート・トールートだ」
「ああ、カリストさんのお話に名の出た方ですね。私に何か?」
「死の尊厳の冒涜とは? 何も我らは、死体を生ける屍として使役しようとしているわけではない。死した肉体より離れた魂と精神を保護し、しかるべき器に移し替えたに過ぎない」
「望んだものでないことには、変わりないでしょう」
言って彼女は、頭を振る。
彼らは水王国の為に戦い、しかし力及ばず息絶えた。
その結果に、無念はあれど後悔はなかったはずだ。
だからこそ彼らは、彼女とライムを送り出したのだ。
「貴方達の言う『転生』は、自然の摂理に悖る。輪廻の円環から外れた行為です。冒涜と言わず何とします」
「……このまま座して死を待つのを、是とすると言うのか?」
彼らの二度目の生の否定は、ひいては『七曜』の計画そのものの否定と言える。
ドートートの言葉に、モモイは怯まず彼を見た。
「全人種のドゥルス化は、我らファン族の、種の根絶に他ならないでしょう。世界によって滅びるか、貴方達によって滅びるか……過程が違うだけです。私は『私』のまま生きて、死にます」
そして彼女は、ただ、と言葉を付け加える。
「漫然と死を受け入れるつもりは、ありませんよ。エウロパさんが、別の道を示されたのでしょう? 私は、私達は、それを支持します」
「……それは水王国の総意なのか?」
「総意とまでは言いませんが、我が国の一般的な感じ方ではあります。我が君も、同様の見解です。故に協力は惜しみません。こと技術革新については、我が国は一家言あります」
その言葉は、木王国の一同へ向けられたものだった。
「……心強い限りだ、モモイ殿」
カリストの言葉に、彼女はにこりと微笑んだ。