第百四十四話 夜は明けて
ここ最近見慣れてしまった本来ならば縁遠いはずの豪奢な天井を、ライムは寝そべった寝台から見上げていた。
日は登り切っておらず、室内は薄暗い。
頭を、横に倒す。
紫に僅かに白を垂らしたような色合いの髪が、目に映った。
顔は見えない。
つまりは横臥した彼の後頭部が、自らの眼前にあった。
当然というべきか反射的に昨夜のことが思い起こされ、彼女は一人赤面する。
それと同時に弛緩したような、腑抜けたような笑みが浮かぶことを止めることが出来なかった。
浮足立った心境のまま、ライムは少年のうなじに自らの額を当てる。
騎士の様相としては余りにも無防備だが、それが己に曝されているという事実にえも言えぬ愛おしさと、充足感を覚えた。
そして彼女は、仄暗い部屋の中、再び目を閉じる。
夜明けは、まだ先。
首筋にこそばゆさを覚え、ジェインは目を覚ました。
微かな魔法灯の光が目に映る。
未だ夜明け前のようだ。
うなじに感じる熱源を確認すべく、彼は寝返りをうつ。
……うとうとして、背にあたる感触に身動きを止めた。
その場で半回転するようにして、向き直る。
彼女へと。
彼の背に身を預け、寝入る彼女。
無作法とは知りながら、ジェインはそのあどけない顔に見入った。
彼女が目を覚ます様子はない。
自然と、昨夜のことを思い出された。
控えめに言って歯止めも効かず、大分無茶をした自覚がある。
あれほどに自制が効かないとは恥じ入るばかり、汗顔の至りだ。
だがこれほどに身を委ねられている以上、許されていると思いたい。
背を丸め、横にうずくまる様に眠る彼女。
視線を落とせば、その両手が見下ろせた。
右手は鈍く光り、左手は深淵の如く暗い。
闇の帳のようなそれを見詰めるうちに、ジェインの意識は再び微睡んでいった。
***
向かい合い横たわる二人の、目が合う。
「……」
「……」
互いに言葉はない。
言葉はないが、ライムの顔がみるみる真っ赤に染まっていった。
そんな様子に、ジェインは思わず彼女を抱き寄せる。
ライムの額が彼の胸元に収まった。
じたじたと彼女は身じろぎするが、ジェインは彼女を離さない。
ややあって、ライムの抵抗が止んだ。
「おはようございますっ」
「……お早う御座います……」
その耳元にそう声をかければ、虫の羽音のような声音で、彼女はジェインへと返した。
そして再び落ちる沈黙。
だがそれは焦燥を催すものではなく、穏やかなそれだった。
とくとくと、彼の心音がライムの耳朶を打つ。
頭に上った羞恥の念が、緩やかに霧散していった。
上目に、彼女はジェインを見上げる。
その視線に気づき、彼は微笑んで言った。
「起きますかっ?」
こくりと、ライムは頷いた。
名残惜しそうにとんと額でジェインの胸を突き、彼女はもぞもぞと離れていく。
立ち上がる少女の背を見ぬよう、彼は反対を向いた。
寝台に腰掛け、側卓に積まれた服を纏う。
背後の衣擦れの音が止まり、彼は振り返った。
同じくライムはこちらを見ていた。
袖の無い、肩紐で吊るされた黒い下着姿で。
慌ててジェインは、視線を戻す。
「ジェインさん」
その背に、彼女から声がかかった。そこに浮ついた色はなかった。
それに押され、彼は再び振り返る。
姿に変わりはないが、ライムの表情に羞恥はなく、真剣そのものだった。
「伝えておきたいことがあります」
「なんでしょうかっ」
「今の私め……封印の無きこの身でのみ行える、術が御座いますれば」
それは、と彼女の語るを彼は聞く。
ジェインの表情が、神妙なものとなった。
ライムの語る通りだとするならば、それは余りにも大き過ぎる力と言えた。
「これのことは、ヘルムート様もマコト様もご存じありません。知るのはクラリッサ様と……ジェインさんだけです」
ひたりと、彼女の視線が彼を射抜く。
ジェインは揺るがず、それを受けた。
手を胸にあて、ゆっくりと頷く。
「しかと、承りましたっ!」
そんな彼の様子に、ライムはふと表情を緩めた。
「ありがとう御座います」
笑顔で言って、彼女は今度こそ脱ぎ捨てられた拘束服を拾い上げ……思い出したように、戸口に置かれたままの袋へと駆け寄る。
怪訝な表情を浮かべるジェインに、ライムは後ろを向く様にお願いした。
戸惑いつつも彼はその通りにする。
再び響く、衣擦れの音。
結構なこと、それは続いた。何かに悪戦苦闘しているような、妙な悪態すら聞こえてくる。
「あの……どうぞ、こちらを……」
ようやっと、彼女から許可が下りた。
振り向いた先の光景に、彼の動きが止まる。
そこに女神が立っていた。
ジェインからすれば誇張抜きに、彼の女神が立っていたのだ。
赤い布地を基調に、裾や襟元など各所にふんだんに、白の麗糸があしらわれた盛装。
彼女の瞳の色と同じ、金糸で精緻な刺繍も施されている。
太股まである長く白い靴下、服と同じく赤い、光沢のある革の靴。
腰前で手を合わせ恥ずかしげに、しかし視線を外すことなく彼を見ている。
時間が止まったかの様に、二人は身動きしなかった。
……朝の鐘の音が響いた気もするが、少年少女の耳には届かない。
どれ程の時間が経ったのだろう、突如としてジェインが動いた。
ライムの手を取り、小走りに部屋を出る。
「ジ、ジェインさん?」
目を白黒させ、手を引かれるまま、しかし彼女は抗議の声をあげた。
それに答えず、彼は階段を降りる。
仕方なしに、ライムはジェインの後に続いた。
そのまま彼は、食堂の扉を開け放つ……
***
「……と言うわけで、この姿を小生の胸の内に留めるか、皆さんにひけらかすかの葛藤があったのですがっ!」
「遅れた理由がそれかよ……」
「結局見せびらかせてしまいたくなりましてっ!」
「惚気も良いとこ!」
戦くように、マリエンネが言う。
言いつつも彼女はジェインの隣、ライムからの物言いたげな視線を受け、親指を立ててみせた。