第百四十一話 惑乱の月に照らされて
この邸宅で夜を過ごすのは、ともすれば今夜が最後かもしれないな、などと考えながら、カリストは小気味よい音を立てて包丁を操った。
実際のところは帰るまでが遠征なわけで、そんなはずはないのだが。
明後日の正午、事が起こるという。
であるならば、明日は強行軍となることは否めないだろう。
故に彼女は、皆の英気を養うべく料理の腕を振るっていた。
エウロパが『取り寄せ』した……控えめに言って相当高価な……食材を、次々と投入する。
家畜鳥の腹を捌き内臓を取り出し、代わりに香味野菜を詰め込み、金属板の上にそれを乗せると窯の中へと滑らせた。
まな板ほどもある巨大な魚を三枚に捌いて粉を塗し、乳酪をたっぷりと溶かした揚焼鍋と投下する。
家畜獣の肩肉に香辛料を雨のように浴びせ、それを鉄網の上から炭火に曝した。
茹でた卵の殻をつるりと剥き、獣骨と根野菜で取った出汁と一緒に深鍋に入れ、丁寧に下処理をして軽く炒めた、内臓に近い肉を合わせる。
鳥を焼くのとは別のかまどに、麺麭を放り込んだ。
硝子瓶に酢を基礎とした調味液を注ぎ、そこに葉野菜を渦巻く様に漬け込んでいく。漬かりは浅かろうが、そこは少し多めの塩味で補うこととする。
ふう、と一息をつき、カリストは椅子に座りこんだ。
久々に思う存分、料理の腕を振るった気がする。妹たちにこの現場を見られようものなら、何時でも全力だろうと呆れられそうなものではあったが。
そしてこの場には、妹たちは一人もいない。
それぞれがそれぞれに、為すべきことをしているはずだ。
「……エウロパ」
彼女も。
***
慣れてきた、と言った。思った。
無為なるマナの誘引者であることに。
世界に流れるマナの潮流がより克明に、より鮮明に見えてくる。
万物から放出される、生み出されながらに使われぬ無為なるマナ、それが世界の光脈に合流し、一体化する様が見える。
そしてそれは、世界の光脈に接続され、そこから自分に流れ込む。
いや恐らくは自らが繋ぎ引き入れている、外部からのそれを。
無為なるマナ、無色なるマナを。
無為なるマナの誘引者であることに、慣れてきた。
つまりそれは、『彼女』が見ているであろうものを、同じく見ていると言うこと、感じているであろうことを同じく感じていると言うこと。
そしてきっと、『彼女』が抱いている思いを、同じく抱いていると言うこと。
世界は熟れ、重く暗く、のし掛かる。
陰鬱が、鬱屈が、憂鬱が沸き上がる。
いや、流れ込んでくるかのよう。
世界が落ちていく。
溢れるマナで。
流れ込むマナで。
『彼女』のせいで。
『私』のせいで。
世界が、終わる。
だから何とかしなくては。
やらなくては。
やるべきことを、やらなくては。
あの時は結局、何も成せなかった、まわりの何かが頼りだった。
『彼』が頼りだった。
だから、今度こそは……
扉を叩く、音がする。
はっと、彼女の視線が上がった。
暗い室内。
明かりをつけるを思い至らぬほどに、耽っていたようだ。
何に?
……後ろ暗い、物思いに。
何かに引きずられたような、憂慮に。
「はい」
再び沈み込みそうになる思考を振り切り、エウロパは声を上げた。
その声に応じて灯る室内灯。
数瞬の間をおいて、扉が開かれる。
「失礼します」
そんなありきたりな呼びかけと共に入ってきたのは、マコトだ。
知らず、彼女の口の端が和えかに上がる。微笑、あるいは苦笑の形に。
彼はと言えば、姿勢も正しく着席する彼女の様子に、僅かに目を細めた。
「どうされました?」
どうぞ、と己の対面の椅子を勧めながら、エウロパは言う。
マコトは頷き、進められるがままに着席をした。
「どうしたってことは、ないんだけど」
「私の顔が見たかった、とかですか?」
「……それも否定はしないけど」
***
「それは『私』の顔ですか?」
「君の様子が気になった」
***
殆ど同時の発言に、エウロパは目を丸くする。
「ほら、そんなところとか」
懸念的中、とばかりにマコトは肩を竦めた。
そんな彼の様子に、彼女は戸惑う。
それほどに、自分の様子はおかしかったというのだろうか。
姉妹たちにすら、指摘などされなかったというのに。
もう一人の無為なるマナの誘引者に、恐らくはエウロパは何らかの精神的影響を受けている。
この世界に二人しかいない、希少な彼女らの共通項は、想像以上に影響力が及んでいるようだ。
記憶の欠片か、思い出の残滓か。
ただ分かるのは、余りにも濃い負の感情、その澱。
絶えぬ慙愧の念だった。
これが正に、マリエンネの慕う『央』の抱く情念だというのなら、彼女の願いは痛いほどに理解が出来る。
彼女は大きく、息をつく。
そしてもしも彼女が、彼が思う、彼が想う『彼女』だとしたら。
自分がこのような情念を抱いているということを、彼に抱いていることすら悟られたくはなかった。
「……なまじ慣れて、気が緩んだんでしょうね。不覚でした、迂闊でした」
軽く笑って、エウロパは英雄の顔を見る。
「魂の双子とでもいうのでしょうか、無為なるマナの誘引者という共通項は、ある種の影響を及ぼすようです」
「……大丈夫?」
「ええ」
言葉通りに、不安げに言うマコトに、彼女は悪戯っぽく笑った。
「大丈夫だよ、マコト」
「……」
「って言ったらどうします?」
「全っ然似ていない、と返そう」
口をへの字に曲げる彼に、エウロパは楽し気に笑う。
「だからまあ、そんなもんですよ。心配無用です。私は元気です」
瞬き一つし、瞳を細めて、微笑んで、首を竦ませ、上目に覗いて、彼女は言った。
そんな目の前の少女の仕草を、彼は声もなく見つめる。
視線が、合う。
見詰め合う。
しばし、沈黙が流れ。
先に折れたのは、マコトだった。
気を落ち着かせるように、彼は大きく息を吐き、そして諸手を上げる。
「ごめん」
「何がです?」
「抱き締めそうになった」
「拒絶はしませんが」
「……良く言う」
一瞬鼻白み、そして少しばかり相好を崩し、マコトは言った。
「あの時は、あからさまに安堵してたのに」
異世界よりの召喚を受けた、異世界の英雄を、出会ったばかりの、素性も知らぬ異邦人を、己で繋ぎ止めようとした彼女。
そんな彼女が、そんな事を言う。
揶揄もしたくなるものだった。
「何時の話をしているんですか」
だか彼女は、それを軽く笑い飛ばす。
彼が、マコトが、そんな事を言うということは。
「似ていましたか、そんなにも」
彼女の言葉が、その仕草が。
彼女に。
そして。
だが。
その上で、彼はとどまった。
「全く」
身持ちのかたい、ことだった。
***
……そんなにも、良い話ではない。
彼女の先に、『彼女』の姿を垣間見てしまった。
余りにも無礼で、消えてしまいたい程に身を恥じた。
それだけの、ことだった。