第十四話 世界よ燃え尽きて
顕になった、両の瞳。
……そこに、瞳はなかった。
瞳も白目も黒目も瞳孔も一切の区別なく、ただ凪いだ湖面の様に静謐な銀色が揺蕩い、粉を散らしたように、虹色の光が煌めく。
異様な、それでいて神秘的なその様に、一同は息を飲んだ。
「……それは?」
「聖痕。あたしと赤き戦慄との、我らが央との……あの方との、繋がりを示すもの」
やや躊躇いがちに問うシンに、今までとは異なる静かな口調で、マリエンネは応えた。
外した眼鏡を腰に挿し込み、曝け出すかの様に悠然と向き直る。
「あの方の有り様を見て……有様を見て、あたしはこれを賜った。無為なるマナの誘引者たるあの方との繋がりは、あたしに無尽のマナをもたらす」
その言葉と共に、世界が揺らいだ。
そうとしか思えぬ、瀑布のようなマナの奔流をエウロパは感知し、めまいを起こしたようによろめく。
「だから、こんなことが出来るんだ」
陽炎のように、蜃気楼のように、大気が揺らめく。
「混沌領域」
世界が書き換わっていくような感覚に、彼は咄嗟に赤き戦鎚を構築した。
「万却無塵」
世界が燃え上がる、そんな感覚を強引に無視して、シンは目の前の、無防備な少女に戦鎚を振り下ろす。
マリエンネは、避けようともしなかった。
容赦のない一撃は、彼女の左肩を捉え、粉砕する。
そのはずだった。
何かの燃える、音がした。
まるで、真綿を打ちすえたかの様な手応えの無さ。
次いで轟音と共に落ちる雷霆の一撃。
何かが燃えて、潰える音がする
それすらも、彼女に何らの痛痒をもたらさなかった。
艶然と、何を見ているのか判ぜぬ両の聖痕を彼へと向けて、マリエンネは笑う。
「迂闊だったね、シン、ちゃん?」
そして彼女は、傷だらけの右手の指を、すぅと彼へと向けて――
「『防壁』!」
二人を分か断つように、土壁が立ち上がった。
「逃げて!」
思わず振り返ったシンに有無を言わせず、エウロパは叫ぶ。
抵抗せずに走り下がる彼の背で、何かが弾ける音がした。
彼女の生み出した土の壁が、灰となる音だ。
灰、だ。
焼け焦げるでも、風穴を空けるでも、爆砕するでもなく、ただの一瞬で灰となって崩れ去る。
そしてその元凶は、吹雪く様な灰の最中、悠然と指を翳す。
立て続けて、幾つもの土壁が立ち上がった。
エウロパの意を汲み、全員が彼女から距離を取るべく後退する。
だが、そんな彼らを嘲笑うかの様に、次々と拍子もよく土の壁は灰と化していった。
舞い上がる白塵に、マリエンネとの視界が塞がる。
好機と見て、カリストは鋼糸を奔らせた。
鋼糸より伝わる微細な振動で標的を感知するため、視界の不良は彼女の攻撃を妨げない。
マリエンネの頭上から、左右から、足元から、更には土中を割って股下から一斉に鋼糸が襲い掛かった。
風切り音とは別に、何かの燃える、音がする。
彼女を断ち切るべく振るわれた鋼糸は、それに触れた途端に力を失い地面に散乱した。
「切れない! 何故だ?」
緋緋色甲冑すら断ち割った鋼糸が、生身の体に傷一つ付けられない。
鋼糸を戻しつつ、カリストは毒吐いた。
『反撃が、無い』
疑念を呈すギニースの念話が響く。
『確かに……ロパ姉の壁も一々壊してたし、見た目は仰々しいけど、透視みたいな超常的な視覚はないのかな』
そうでなければ、今この瞬間ブラックウィドウが灰になっていても可笑しくはない。
『……そうとも言えない。それに』
シンの紡ぎかけた言葉が現実となる。
巻き起こる猛烈な烈風か、一帯の灰を吹き散らしたのだ。
『ギニースさんは、もっと下がって』
『シン、さんは?』
「来たれ『六夢鏡協の傅符』」
ギニースの問いに、彼は行動で返した。
六角形の鏡面体を前面に押し出し、シンは前進する。
大口径荷電粒子砲の一撃すら受け止めた鏡の盾に向けて、マリエンネは指を向ける。
彼の目の前で、その一枚が灰となった。
「……冗談だろ」
悪態を吐きつつ、シンは欠けた障壁を補填する。
彼女の人差し指が蠢く度に、次々と鏡の六角形が灰となっていった。
その都度穴を埋めていくが、それにも数の限りがある。
カリストが再び鋼糸をのばすが、マリエンネはそれを気に掛けた風もない。
当たれど奇妙な燃焼音を響かせるのみで、彼女の歩調が乱れることはなかった。
その間に、伸ばせば手が届く程の距離まで、シンは接近する。
鏡の予備は殆どない。
彼は左手で、空を掴んだ。
それと同時に鏡の六角を一枚、マリエンネ目がけて射出する。
その背後を押すように、『僭壁引鈎』を解き放った。
彼女が鏡に指を差す。
一瞬で灰となったそれを突き破って、衝撃波がマリエンネを襲う。
燃える音。
彼女はくすぐったそうに笑った。
「万策尽きた?」
「来たれ『岩山石林礫川の枯庭』!」
足元の地面が割け、音を立てて無数の岩石が湧き出す。
岩々が無数の山となり、石が木を擬し砂礫は流れぬ川と成り。
土石の奔流は、彼と彼女を大きく引き離した。
***
「わーお、こりゃまたすっごい光景」
感嘆混じりに呟きつつ、マリエンネは辺りを見やる。
大小様々な岩々が山の様に聳え立ち、苔色の石が樹木の如く伸び枝を開いていた。
砂礫が川の様に横たわり、地面はあたかも石畳かのよう。
興味深げに視線を巡らせ、気安くそれに指を差す。
見上げんばかりの大岩が、一瞬にして灰と化した。
自らの居場所を教えているようなものだが、こんな訳の分からぬ場所でのかくれんぼよりはましだという判断から。
事実少し耳を澄ませば、軋む音が、石の成長或いは増殖する音がする。
面倒臭い事態が長引くのは、ごめんだった。
たが、これ以上ない程の居場所の表明にも関わらず、特務騎士の分身体も、鋼糸の斬撃も、迫撃砲の爆撃もない。
「逃げた……わけないよね。なら」
時間稼ぎか、何か策があるのか。
どちらもないのであれば、降伏を受け付けるのも吝かではない。
或いは……どちらでもあるのか。
心地好い緊張感の中、マリエンネは笑み、次の標的を値踏みする。