第百三十話 彼と彼女は分かたれて
走る。
白い大地を照らす日の光と、獣の方向感覚を頼りに、ヴォルフラムは走り出した。
走りつつ、その身を巨躯へと変じていく。
「カーリンさん、しっかり掴まっていて下さいね!」
頷く気配。
何やらもぞもぞと動いている。
体力的な不安のある彼女は、ヴォルフラムの長い獣毛を結び、自身の体を固定したようだ。
全力で、白い大地を踏み締める。
踏み出すその足が、急に軽くなった。
カーリンが、『重量軽減』の魔法を行使したのだ。
筋力はそのままに軽量化された彼の巨体は、冗談じみた速度で疾駆する。
故にヴォルフラムは前を見据え、ただひたすらに走った。
何も考えられない。
いや、考えたくない。
だが脳裏には、様々な疑念が、想いが錯綜していた。
何故、何が起こった、パメラは?
あれは何だったのか。
今までのことは、全て虚構か。
纏まらぬ思考が、ろくでもない負を想起させていく。
「前見てー、ヴォルー!」
カーリンが、その背を叩いた。
この巨体に対して余りにも軽い衝撃に、しかしヴォルフラムははっと我に返る。
そうだ、まだ終わらない。
まだ終われない。
こんな終わりは認められない。
諦めることなど、出来はしない。
それ故、駆ける。
その先が彼らとは、忸怩たる思いはあるものの、なりふり構ってはいられない。
位置関係と、己の速さを鑑みる。
休みなく走れば、明日の夕方にはかち合うはずだが……
「あーしのことは、気にしないでいいよー!」
背の上の懸念、体力薄弱のカーリンがそう言ってくる。
正直なところ、かなり無茶な強行軍となるが、
「その言葉、信じますからねぇ!」
力強く、そして極力振動なきように、ヴォルフラムは更に速度を上げた。
***
「運転日和だねー」
晴れ渡る空の下、ブラックウィドウの運転席でイオはそう嘯いた。
白い大地の日の照り返しの対策にか、マリエンネ宜しく青い色付きの眼鏡をかけている。
助手席に控えているのは、カリストだ。
やや含みのある視線を妹に向けているが、当の彼女は見ないふりをしている。
とにもかくにもギニースは、ブラックウィドウの走行にかかわる部分のみの補修に注力したのだろう、右側の窓は木の板で塞がれていた。
外装も最低限の装甲を溶接しただけだし、機銃の交換もされていない。
しかしその甲斐あってか、足回りは何の問題もなかった。
そして功労者である完徹のギニースは、例によって最後尾の座席で眠りこけている。
出発してから昼休憩を挟み進行を続けているが、別段の障害は見受けられなかった。
車両の障害も、道を阻む障害も。
「こうも事もないと、逆に怪しい感があるけどな……」
そんなマコトの呟きが社内に響き……その眉根が潜められる。
「言ったそばから何、その顔」
「しっ」
呆れた風に言うマリエンネを、エウロパが右人差し指を鼻先にあて、諫めた。
怪訝な表情を浮かべる彼女を尻目に、白い髪の少女は窓の外を見た。
「……揺れている? それにこの音は……」
ライムの言葉に、ジェインはエウロパと同じく外を見る。
併せて生じた『ジェイン』が、ブラックウィドウの屋上へと出現した。
「ギニースの運転ではないし、多少の揺れは……」
「いや、これはそういうやつじゃないよ、カリ姉さん」
前方を見る。
土煙と言うべきか、白煙と言うべきか。
とにもかくにも噴煙を巻き上げ、何かが迫ってくる。
煙幕のような淀みに浮かぶ、黒い影。
それは刻一刻と迫りつつあった。
緊張に顔を引き締め、イオは操舵装置を握り直す。
「ひっどい揺れになるかもだけど」
彼女の宣告に、他一同は頷いた。
後部へとエウロパが走り、ギニースを起こす。
たが彼らの心配は、ある意味杞憂となった。
白煙を曳き駆ける巨影が、突如減速する。
振動は小刻みになり、大きくなった。
何かを見つけ、たたらを踏んだようだった。
何か、というのは自分達だろう。
そしてこれ程巨大な物体に、心当たりは二つ。
『土』のドートートの『ビヒモス』。
そしてもう一つは。
彼にしてみればほんの十数歩の距離で、停止する。
『日』のヴォルフラム、その威容が白日の元に晒された。
屋上の『ジェイン』が力の弓を構える。
マコトは真っ先に車外に飛び出しつつ『悪鬼螺鈿の偽腕』を構築し……
構えた腕を下ろす。
「ジェイン君」
その呼び掛けに、ジェインは『古今到来』の結晶体を分解した。
見上げ見る鹿獣、それは敵意も見せずただ佇み……ややあってその膝を折り、顎すら地に置いて平伏する。
そしてそれにあわせてその肉体も、やや大きな、と評する程度に縮小した。
その段になって、その背に人が乗っていた事に気付く。
黒髪の少女、カーリンがそこで目を回していた。
目を回していた、というより気絶寸前だったと言っていいだろう。
それでも何とか、彼女は手を挙げようとする。
「こんなことを頼めた義理は無いのは、重々承知してるんですが」
地に伏せたまま、上目を向けてヴォルフラムは言った。
「手を貸しては貰えませんかねぇ」
***
「どうぞ」
「ありがとー」
エウロパが手ずから作った氷嚢を、カーリンはよろよろと受け取りブラックウィドウの座席に突っ伏す。
生き返るー、という極めてだらしのない声を上げる彼女を尻目に、マコトは車外に佇む鹿獣の顔を見た。
「いいの? 彼女をいれちゃって」
動物じみた動きで小首をかしげるヴォルフラムに、彼は試すように言う。
「今更ですねぇ。カーリンさんを害する気なら、そもそも彼女をああしなかったでしょう」
と揶揄するでもなく返され、マコトは押し黙った。
そんな彼の様子を、ライムは忍び笑う。
「ならば貴方も、乗っていかれては?」
「そうしたいのは山々なんですがねぇ、この姿では乗れませんし、人の姿に戻ると真っ裸になるんですよねぇ」
「……」
率直な返答に、カリストはエウロパを見た。
何も言わず、彼女は『取り寄せ』を使い、木箱を呼び出す。
蓋を開け、適当な大きさの着物を取り出すと、それをヘルムートに渡した。
なんで俺? とばかりに彼はエウロパを見返すが、返ってきたよくわからない微笑みに、納得はいかないものの受け取る。
「ほれよ」
「ああ、助かりますねぇ」
窓越しに手渡されたそれを口で受け取り、ヴォルフラムは後ろへと下がった。
「うー」
氷嚢を額に乗せ、横たわるカーリンが唸る。
「大丈夫ですか?」
「しんどいー」
体調万全とは言い難い彼女にとって、全力疾走する獣に長時間しがみ付くというのは、拷問に等しい行為と言えた。
気にするなといった手前、彼にどうこう言うつもりはないようだが。
「いやあ、お騒がせしました」
簡素ながら丈夫な灰色の上下に身を包んだヴォルフラムが、降車口から姿を現す。
頭を掻きながら言う彼の様子に、一切の敵意はなかった。
その傍らを、目覚めたギニースがすいと抜け、運転席へと座る。
「発進する。座って」
「あ、はい」
ヴォルフラムは素直に頷き、カーリンにほど近い座席に着いた。
「それで手を貸せ、とのことだが……事情は伺えるのだろうな?」
それとは対照的に視線を鋭くして問うカリストの言葉に、ヴォルフラムは頷き、事の経緯を語りだした。
帰還後、自室で呪痕兵に襲われたこと。
『研究所』の連中に事の次第を問いただそうとしたところ、自意識の感じられない、異様な様相を呈していたこと。
それがパメラへと伝播したこと。
そして中でも、レラリンの様子が支離滅裂であったこと。
『顔無し』の後押しを得て『要塞』を脱出し、今に至ること。
「状況理解した……心中お察しする」
「痛み入りますねぇ」
カリストの言葉に、ヴォルフラムは視線をやや落としつつ答える。
彼の様子に目を細めつつ、マコトは一同を見渡した。
「どう思う?」
「嘘は言ってはいないかとっ!」
ジェインの返しに、ヘルムートは頷く。
「同感だな。こっちの内情探るにしたって、こんな弱みを曝すようなやり方はしないだろうし……切羽詰まってるんだろうよ」
「貴君にしてみれば、最も大切なものを置いて、ここまで来たのだろうからな」
「不甲斐ない話ですが、その通りですねぇ」
カリストの言葉に反論もなく、彼は額に手をやった。
事実上の孤立無援。
事の進め方が余りにも強引で、味方を作ってこなかった弊害と言える。
いやむしろ、『裏切者』を孤立無援とするための、その所業だったのかもしれない。
「話を聞いた上で、ですけど……」
「まあ、怪しいのは『星』だよね」
エウロパの言葉を継いで、マコトはそう続ける。
あからさまに異様な一連の行動の中で、ことのほか奇妙なのは彼女の言動だ。
ヴォルフラム達を慮る言葉と、侮蔑する言葉、そしてその行為。
「それもそうだが、『想定外』というのは何のことだ?」
訝しむように、カリストが言う。
豹変したパメラ、そして残された二人。
想定外というのは二人の事か、それとも。
「女性を洗脳する魔法を使ったのに、カーリンさんが操られなかったからとか?」
「それならドートートさんとセルゲイの様子がおかしかったのは、どう説明するんですかねぇ……」
ひらめいた、とばかりに言うイオに、ヴォルフラムが冷静に呟く。
男も女も、老いも若いも豹変していた。
……老いも、についてはドートートに苦言を呈されそうではあるが。
「あの、ごめん。直接関係ないかもしんないけど」
軽く手を上げながら、マリエンネが鹿獣人の青年に声をかける。
「ヴォルフラムのおにーさんはさ、『央』の顔、思い出せる?」
「……ええ? 何を言ってるんですかねぇ……」
言いかけて、彼の言葉と動きが止まった。
俯き、眉根に皺を寄せるヴォルフラム。
その挙動は、かつてマリエンネを彷彿とさせる。
「やっぱり……」
落胆の様な安堵の様な呟きが、彼女の口から零れる。
「何の話ー?」
「二人とも、『央』の顔も名前も覚えてないって話」
あんたは? とばかりに、イオはカーリンを流し見る。
「あ、わかるよー」
その様子に気付いているのかいないのか、彼女はあっさりと頷いた。